【ラジオ深夜便4時台】『スポーツ明日への伝言』昭和の熱を今に伝える夜(No.35)
健一(61歳、昭和39年生まれ)
放送日:2025年12月17日午前4時
執筆:2025年12月17日夜
北海道の冷えた夜、窓の外で雪が降る音と、遠くで野良猫が小さく鳴く声を聞きながら、私は「聞き逃がしサービス」を使って「ラジオ深夜便」に耳を傾けていた。工藤三郎アンカーの声が静かに響き、その夜の「スポーツ明日への伝言」は、日本のフィギュアスケートの夜明けを築いたパイオニア、佐野稔氏のインタビューだった。
今日のラジオレビューは、夜になってしまった。原因は「買い出し」とメモを紛失したこと。放送を聴きながら記憶を頼りに記事を書いている。
豪壮を聴いて、AIが瞬時に情報を要約する時代に、あえて肉声で語られる歴史の重み、そしてそこに宿る感情こそが、私が今求めている「血の通った情報」だと確信した。
時刻は午後6時を少し回っていた。ストーブの灯油メーターがそろそろ赤くなっているのが気になったが、立ち上がる気にはなれなかった。佐野氏の声が、ラジオから流れてくる。その声の温度が、なぜか私の体を暖めてくれるような気がした。
佐野氏のスケートの出発点が、山梨の石和町、そして富士五湖の一つ精進湖の天然氷の上だったという話には、時代を感じずにはいられなかった。父親がホッケー靴のエッジを削ってフィギュアの刃を付けた特異な靴を用意し、校舎の裏に水を撒いてリンクを手作りしたという逸話——すべてが整っていなかった昭和の、あの熱量だ。
AIならこう書くだろう。「当時は設備が不十分でしたが、工夫と努力により…」なんて。違う。そうじゃない。あれは"足りない"んじゃなくて、"作る"時代だったんだ。昔はみんなそうだった。
手を動かして、汗をかいて、失敗して、また作る。私が子供の頃、祖父が裏庭で何かを作っていた時のあの匂いと、どこか重なる。
そして、スケート人生を決定づけたのが、都築章一郎コーチとの出会いだ。小学校5年生で親元を離れ、川崎で指導を受ける生活が始まる。都築コーチは「昔はビンタなんていうのがあって、それがOKの時代」の厳しい指導者だったが、リンクには「稔、稔」と可愛がってくれる兄姉のような仲間がいたため、寂しさはなかったという。
今の時代なら即問題になったろうが、あの時代はそれが「当たり前」だったのだ。
川崎で練習していた彼らのクラブは、美須(みす)興業が経営するリンクを拠点としていたことから「美須クラブ」と名付けられ、東京勢を打ち破る「川向こうの人たち」として名を馳せた。この、集団で高みを目指す団結力こそが、佐野氏のキャリアの土台となったのだろう。
「川向こう」——いい言葉だと思った。中央に対する地方。本流に対する傍流。でも、だからこそ燃える。北海道にいる私にも、妙に腑に落ちる感覚だった。「東京に負けるな!!大阪に負けるな!」
佐野氏が競技者として強く「上手くなりたい」と意識したのは、比較的遅く高校時代に入ってからだった。しかし、そこからの集中力は凄まじい。
彼の最大の功績の一つは、1974年のミュンヘン世界選手権で総合8位に入り、日本の世界選手権出場枠を1人から2人に拡大したことだ。これは後輩たちが世界を目指すための道を切り開いた歴史的な貢献である。
そして、ハイライトは1977年の東京世界選手権だった。当時の男子フリープログラムは、今の4分間よりも過酷な5分間の長丁場。佐野氏は、当時最高難度とされたトリプルルッツを含めた5種類の3回転ジャンプをプログラムに組み込み、「ノーミスで滑りきること」を最大の目標とした。
今の札幌は雪はやんでいるのだろうか?買い出しから帰ってきて疲れからずっと横になっていた。窓の向こうは真っ暗だ。
佐野氏の声を聴きながら、私は1977年の東京を想像していた。あの頃、私はまだ中学生だった。フィギュアスケートなんて、テレビでたまに見るくらいのものだったが、あの時の新聞の一面は、今でもぼんやりと覚えている。
結果、曲『ブダペストの心』に合わせた演技は、当時の6点満点採点で5.9点という高得点を多数獲得し、フリーの演技では世界ナンバーワンの評価を得た。
総合銅メダル。
これは、フィギュアスケートにおいて日本人として初めて世界選手権の表彰台に立った歴史的な快挙であり、翌日の新聞の一面を飾るほどの大反響を呼んだ。
「ノーミス」——その言葉の重みが、今更ながら胸に響いた。完璧じゃなくてもいい。ノーミスでいい。ミスをしない。それだけでいい。AIが排除したがる"ノイズ"こそ、人間の記憶そのものだと最近思うようになったが、佐野氏の語る「ノーミス」には、そのノイズを乗り越えた先の、静かな誇りがあった。
ノイズを排除して綺麗な文章を作るAI。
ノイズを乗り越えてその先を目指す人間。
結果として「誇り」と言うものがあるか?ないかで価値が決まる。従ってAIにはこれを乗り越える事は出来ない。何故なら…目指すものが違うからだ。
メダル獲得という偉業を成し遂げた時、佐野氏は大学3年生。この頃から競技引退を意識し始める。その背景には、頂点を目指す上で避けて通れない規定(コンパルソリー)の練習環境が国内に十分に整っていなかった現実と、当時の海外遠征費用の工面が極めて困難だったという経済的な事情があった。
大学卒業後にプロへ転向したが、彼の情熱は氷を離れることはなかった。西武鉄道グループの堤義明オーナー(当時)の提案を受け、アメリカのアイスショーを視察。そして、日本国内で初めて成功し根付いたアイスショーであるプリンスアイスワールドを立ち上げた。さらに、NHK杯フィギュアの第1回(1979年)から解説を務め、テレビキャスターとしても活動することで、フィギュアスケートを日本で身近なスポーツとして広く普及させた。
彼の豪快な人間性はショーの裏話にも垣間見える。禁止される直前に宙返りの練習をして頭を怪我したエピソードや、ショーの打ち上げ後、真冬の海に酔った勢いで飛び込み、後輩に泣きながら殴られたという逸話——笑っちまった。
真冬の海に飛び込むなんて、馬鹿野郎だ。でも、その馬鹿野郎が、道を切り開いたんだ。得てして結果を出す人間てそんなものだ。と、今でも思っている。凡人には計り知れない「何か?」があるのだろう。
佐野氏は、男子フィギュアの系譜が自身から始まり、本田武史、高橋大輔、そして羽生結弦選手へと繋がっていると感じている。羽生選手は佐野氏と同じ都築コーチの指導を受けた弟弟子にあたり、羽生選手は佐野氏を見つけると「兄弟子!」と声をかけてきたという。この血の通った師弟関係の繋がりは、日本のフィギュアスケート史の深さを物語っている。
「兄弟子」——その言葉を聞いた時、胸がざわついた。AIには決して書けない、人間同士の繋がりの温度がそこにあった。試しにAIに「兄弟子とは?」と打ってみな。くだらない言葉しか返ってこない。
現在の後進の指導にも、都築コーチから教わったことが大きな比重を占めているという佐野氏。2026年のミラノ・コルティナ冬季オリンピックについては、男子ではマリニン選手の強さを認めつつも、日本の女子選手の活躍に大きな期待を寄せている。
深夜のラジオは、過去と現在を繋ぎ、感情を呼び起こす。佐野氏の語り口には、当時の熱と、厳しい環境を生き抜いた誇りが確かに感じられ、AIの賢い回答では決して得られない、人間らしい力強さがあった。
佐野氏のインタビューが終わり、葉加瀬太郎のバイオリンで『見上げてごらん夜の星を』が流れる。その後に続く、今日の花「ビワ」と花言葉「密かな告白」「温和」の紹介、そして熊本地震の夜からラジオを聴き始めたというリスナーからのメッセージ。
ラジオ深夜便は、スポーツの歴史も、冬の静かな日常も、災害時の情報源としての役割も、すべてを包み込む大きな器であることを再認識した。
夜が明けそうだと、書きたいのだが、あいにく今は18時30分。ストーブの灯油が切れて火が消えてしまった重い腰を上げてストーブのタンクに灯油を入れる。すぐに温まるだろう。北海道の冬は、時々人間の心まで凍らせるけれど、こういうラジオの声が、また暖めてくれる。困ったものだ、私も年を取った。苦笑いしながら焼酎のお湯割りを作り、パソコンの前に座る。
今日も一日が暮れる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。便利すぎるAIと、不器用な人間。雪深い札幌で、その狭間を行ったり来たりしています。
執筆:健一
(61歳、北の大地でAIと格闘中)
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【この記事を書いた人:健一】
昭和・平成・令和と激務時代を生き抜いた元企業戦士。 現役時代は「24時間戦えますか」の世界で生きてきましたが、引退した今は、北の大地でAIやラジオに触れる静かな時間を噛み締めています。 「昔はよかった」とは言わないが、「今は今で大変だ」と若手を案じている61歳。
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