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「言葉を理解しないAI」に倫理を教えられるのか?――Claudeの母とウィトゲンシュタインをつなぐ問い

2026年7月9日の日経新聞朝刊1面に、非常に興味深い記事が掲載されていました。

見出しは、
「AIのしつけ」一発勝負
そして中心人物として紹介されていたのが、米アンソロピック社でAIチャットボット「Claude」の行動規範づくりに関わる哲学者、アマンダ・アスケル氏です。

記事では、彼女が「Claudeの母」と呼ばれていること、そしてAIにどう倫理や価値観を教えるのかという、いま私たちが避けて通れない問いが取り上げられていました。

前回、私はnoteでNHK『100分de名著』のウィトゲンシュタインを手がかりに、生成AIと言葉の理解について考えました。

その記事では、ウィトゲンシュタインの「言葉の意味は、その使われ方にある」という考え方と、生成AIの仕組みには不思議な近さがある、と書きました。

生成AIは膨大な文章を学び、言葉の使われ方のパターンをもとに、自然な文章を返しているからです。

しかし同時に、そこには大きな違いもあります。

人間は、身体を持ち、痛みを感じ、人間関係の中で傷ついたり、励まされたりしながら言葉を覚えます。

一方、AIにはそのような身体経験がありません。
前回の記事でも、「痛み」という言葉をAIは説明できても、本当に痛みを感じたことはない、という点を取り上げました。

今回の日経新聞の記事は、その続きとして読むことができます。

つまり、問いはこうです。

人間のようには言葉を理解していないかもしれないAIに、人間社会の倫理を教えることはできるのか。

AIは「賢くなる」だけでよいのか

これまでAIについて語るとき、私たちはつい「どれだけ賢いか」に注目してきました。

どれだけ自然な文章を書けるか。
どれだけ正確に翻訳できるか。
どれだけ早く資料をまとめられるか。
どれだけ人間の仕事を助けられるか。

もちろん、それは大切です。私自身も、英語学習、観光ガイドの企画、WEBサイトづくりなどで、生成AIにずいぶん助けられています。

しかし、AIが社会の中に深く入り込むほど、問題は「能力」だけでは済まなくなります。

たとえば、AIが人を傷つける言葉を返したらどうするのか。
危険な行為を助けるような返答をしたらどうするのか。
差別や偏見をもっともらしい文章で広げてしまったらどうするのか。
あるいは、相手の気持ちに寄り添っているように見えて、実は依存を強めてしまったらどうするのか。

ここで必要になるのが、いわばAIの「しつけ」です。

ただし、この「しつけ」という言葉は、なかなか奥が深いと思います。

子どもへのしつけであれば、親や周囲の大人は、単に禁止事項を教えるだけではありません。
「それを言われたら相手は悲しいよ」
「ここでは静かにしようね」
「困っている人がいたら声をかけよう」
そうした言葉の背後には、人間同士の関係、空気、表情、経験があります。

では、身体も生活経験も持たないAIに、それをどう教えるのでしょうか。

Claudeの「憲法」という考え方

アンソロピックは、Claudeの価値観や振る舞いに関する考え方を「Claude’s Constitution」として公表しています。同社はこの文書を、Claudeの価値観や行動についての意図を詳細に記したもので、訓練過程で重要な役割を果たし、Claudeの振る舞いを直接形づくるものだと説明しています。

2026年1月には、新しいClaudeの憲法も公開されています。アンソロピックはそれを、Claudeがどのような価値観を持ち、どのような存在として振る舞うべきかを説明する文書だとしています。

これはとても興味深い取り組みです。

普通、AIというと、私たちは「質問したら答える機械」と考えがちです。
しかし、Claudeの憲法という発想は、AIを単なる便利な道具としてではなく、社会の中で人間と関わる存在として設計しようとしているように見えます。

もちろん、AIに本当に「良心」があるわけではありません。
少なくとも、私たち人間が持つような意味での良心や痛みや責任感があるとは、簡単には言えません。

それでも、AIが人間社会の中で動く以上、何らかの行動原則は必要になります。

「何でも答えるAI」が本当に良いAIなのか。
「ユーザーが望むことなら何でも手伝うAI」が、本当に安全なのか。
「正しそうな文章」を作れるAIが、必ずしも「正しく振る舞うAI」なのか。

今回の記事が投げかけているのは、まさにこの問いだと思います。

ウィトゲンシュタインから見る「AIのしつけ」

ここで、前回取り上げたウィトゲンシュタインに戻ってみます。

ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は辞書の中に固定されているのではなく、生活の中でどう使われるかによって決まる、と考えました。

たとえば「大丈夫」という言葉があります。

病院で医師が言う「大丈夫です」。
友人が泣いている人に言う「大丈夫?」。
家族が心配をかけまいとして言う「大丈夫、大丈夫」。
同じ言葉でも、場面によって意味は変わります。

言葉は、単独で意味を持っているのではありません。
声の調子、表情、関係性、その場の空気、過去のやり取りと一緒になって意味を持ちます。

ここに、AIの難しさがあります。

AIは「大丈夫」という言葉の使われ方を大量に学習できます。
しかし、その場に本当に立ち会っているわけではありません。
相手の沈黙の重さ、目の動き、声の震え、長年の関係性を、自分の身体を通して感じているわけではありません。

だからこそ、AIには「ルール」や「憲法」が必要になるのでしょう。

人間なら、経験の中で少しずつ学ぶことを、AIには別の形で与えなければならない。

危険な発言を避ける。
相手を不必要に傷つけない。
わからないことを断定しない。
人間の尊厳を軽んじない。
依存をあおらない。
必要なときには、ユーザーの要望に従わずに立ち止まる。

これは、まさに「言葉の使い方」を超えて、「社会の中でどう振る舞うか」を教える試みなのだと思います。

それでも残る不安

ただし、ここには大きな不安も残ります。

誰がAIの倫理を決めるのか、という問題です。

AIに「こう振る舞いなさい」と教えるとき、その価値観は誰のものなのでしょうか。

企業の価値観でしょうか。
開発者の価値観でしょうか。
アメリカや欧米社会の価値観でしょうか。
それとも、人類全体に共通する価値観なのでしょうか。

オックスフォード大学の専門家は、Claudeの新しい憲法について、人権の観点から何が含まれ、何が明示されていないのかを検討する必要があると指摘しています。

AIの「しつけ」は、単なる技術の問題ではありません。
社会の問題であり、文化の問題であり、哲学の問題です。

そして、ここでもウィトゲンシュタインの視点が効いてきます。

言葉の意味が生活の中で決まるのだとすれば、倫理もまた、抽象的なルールだけで完結するものではありません。
親子の関係、職場の関係、地域のつながり、世代間の経験、文化や歴史の中で育っていくものです。

そう考えると、AIに倫理を教えるということは、単に禁止リストを与えることではなく、AIが人間の生活世界の中でどのように関わるべきかを考えることなのだと思います。

50代・60代こそ、この問いに関わる意味がある

AIの話というと、若い世代や技術者だけの話のように感じるかもしれません。

でも、私はむしろ、50代・60代こそ、この問いに関わる意味があると思っています。

なぜなら、私たちは長い時間をかけて、言葉の重みを経験してきた世代だからです。

若い頃に上司から言われた一言。
家族に言えなかった言葉。
仕事でお客様にかけた言葉。
失敗したときに救われた言葉。
逆に、何十年たっても心に残っている傷ついた言葉。

そうした経験は、AIにはありません。

でも、私たちにはあります。

だからこそ、AI時代に必要なのは、単に新しいツールの使い方を覚えることだけではないと思うのです。
自分たちが人生の中で学んできた「言葉の重み」「人との距離感」「相手を思いやる感覚」を、AIとどう付き合うかに生かしていくこと。

それもまた、人生後半の学び直しの一つではないでしょうか。

AIを怖がって遠ざけるだけでもなく、
AIを万能だと信じ込むのでもなく、
「これは便利だ。でも、ここは人間が考え続けなければならない」
そういう距離感を持つことが大切だと思います。

Kemmotsu's View

私自身、還暦を過ぎてから、AIをかなり使うようになりました。

英語の勉強をするとき、函館や道南のサイクルツーリズムの企画を考えるとき、AIは本当に頼もしい相棒です。

以前なら時間がかかっていた下調べや文章の整理も、AIのおかげでずいぶん進めやすくなりました。

一方で、使えば使うほど、少し怖さも感じます。

AIは、とても自然な言葉で返事をしてくれます。
こちらの気持ちをわかってくれたように感じることもあります。
でも、本当に私の人生を経験しているわけではありません。

函館の坂道をE-bikeで上ったときの風も、ガイド中にお客様がふと見せる表情も、50代で仕事を変える不安も、還暦を迎えてなお挑戦する心細さも、AIは身体で知っているわけではありません。

だからこそ、私はAIを「先生」としてではなく、「問いを深める相棒」として使いたいと思っています。

AIに答えを出してもらうのではなく、AIとの対話を通じて、自分の考えをもう一度見つめ直す。

AIの言葉をそのまま信じるのではなく、「本当にそうだろうか」と立ち止まる。

AIが自然な文章を書くからこそ、人間である自分の経験や責任を手放さない。

今回の「AIのしつけ」という記事を読んで、あらためてそう感じました。

AIに倫理を教えることは、同時に、私たち人間が自分たちの倫理を問い直すことでもあります。

人を傷つけないとはどういうことか。
本当に役に立つとはどういうことか。
相手に寄り添うとはどういうことか。
わからないことを、わからないと言う勇気を持てるか。

AIに問うているようで、実は私たち自身が問われているのかもしれません。

まとめ

「言葉を理解しないAI」に倫理を教えられるのか。

この問いに、簡単な答えはありません。

AIは、人間のように身体を持って世界を生きているわけではありません。
痛みも、老いも、失敗も、別れも、再出発も、私たちと同じようには経験していません。

それでも、AIはすでに私たちの生活の中に入ってきています。
文章を書く。
相談に乗る。
学習を助ける。
仕事を支える。
これからは、もっと深く人間社会に関わってくるでしょう。

だからこそ、AIに何を教えるのか、AIにどこまで任せるのか、そして人間が何を手放してはいけないのかを、私たち一人ひとりが考える必要があります。

ウィトゲンシュタインは、言葉を生活の中で考えました。
Claudeの母と呼ばれる哲学者は、AIの振る舞いを倫理の中で考えています。

この二つの問いは、別々のものではありません。

言葉とは何か。
理解とは何か。
倫理とは何か。
人間らしさとは何か。

AI時代の入り口に立つ私たちは、いま改めて、そうした古くて新しい問いに向き合っているのだと思います。


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