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何度でも、キャリアを選び直す。――大学中退、半ニート4年。それでも人生は前へ進める。

※本記事は、連載「何度でも、キャリアを選び直す。」を創作大賞2026応募用に再編集したものです。連載版はこちらからお読みください。

子どもたちを寝かしつけたあと、ようやく家の中が静かになる。

その時間に、最近よく考えることがある。

子どもたちに、本当に残したいものは何だろう。

お金は使えばなくなる。
家も車も、いつか古くなる。

でも、一つだけ残せるものがある。

「人生は、何度立ち止まっても、また前へ進める」

そう信じるための、心のエネルギーだ。

これは、成功した人間の自慢話ではない。
人生が一度止まった人間が、何度もキャリアを選び直しながら、どうにか前へ進んできた記録である。

私は、大学を中退している。

しかも、辞めたあとすぐに何かを始めたわけではない。
4年もの間、人生が止まっていた。

高校時代、私はそれなりに勉強ができた。

塾に行く余裕は家になかった。
だから、学校の授業を大事にした。
先生の話を聞き、忘れないように復習をする。
ただそれだけで、県内でも有名な進学校に入ることができた。

お金はなかった。

お昼はいつも食パンだった。
スーパーで一斤百円くらいの食パンを買い、昼に食べる。
少し贅沢をする日は、ピーナッツバターを塗った。

お金がないからパンを食べる。
パンばかり食べる。
気づいたら、小麦アレルギーになっていた。

お金がないから病気になった。
病気になると、安いパンが食べられなくなる。
そして、さらにお金がなくなる。

貧しさは、ただ財布の中身が少ないだけではない。
選択肢が少なくなることだと、その頃に知った。

高校では吹奏楽部に入った。

理由は単純だった。
当時付き合っていた一つ上の先輩が、フルートを吹いていたから。

音楽の才能があったわけではない。
それでも、練習すればするほど少しずつ上手くなっていくのが楽しかった。

そんな私に、母がフルートを買ってくれた。

そんなお金は、家にはないはずだった。
教科書代すらぎりぎりだったのに。

あとから知った。
親は、私が私立高校に行くことになったときのためにローンを組んでいた。
結果的に公立高校に進学できたので、そのお金の一部を繰り上げ返済せず、私のフルート代にしてくれた。

「楽器は、自分のものがあった方がいい」

そう言ってくれた母は、小さい頃にピアノを習っていたが、家庭の都合で辞めざるを得なかった人だった。

なけなしのお金で買ってもらったフルート。
嬉しくて、私は練習にのめり込んだ。

人前で話すことすら苦手だった私が、高校二年生のとき、ソロのコンクールで入賞した。

努力すると、少しずつできることが増える。
その感覚を、私はこの頃に知った。

ただ、その性格は、良い方向にだけ働くわけではなかった。

高校三年生。
受験勉強が本格化する頃、私はオンラインゲームにハマった。

ファイナルファンタジーXI。

月額千三百円ほどで、ずっと遊べる。
母は「ゲームに毎月お金を払うなんて」と反対した。
でも私は、二時間もアルバイトすれば払える金額だと思っていた。

時間をかければかけただけ、ゲームの中では強くなれた。
レベルが上がる。
装備が強くなる。
大人たちとチャットで会話する。
深夜から明け方には海外のプレイヤーも増え、英語のスラングだけは詳しくなった。

勉強はしなかった。

それでも、指定校推薦でなんとか大学に進学できた。
電子工学系の学部だった。

大学の授業は楽しかった。
高いお金を払って通っているのだから、一秒も無駄にしたくなかった。
授業を真剣に聞き、アルバイトを詰め込み、生活費と学費を稼いだ。

でも、周りの大学生とは違った。

友人たちは、授業とサークルと遊びで大学生活を楽しんでいた。
私は、授業とアルバイトで一日が終わっていた。

「なんで自分は、こんなに苦しい思いをして大学に通っているんだろう」

そう思うようになった。

そして、ある日、答えのようなものにたどり着いてしまう。

大学を辞めれば、こんなに働かなくて済む。
自由な時間が手に入る。

母は反対しなかった。

「自分で決めたことだから止めないよ」
「奨学金は返済が始まるからね」
「保証人になってくれた叔父に、あとで説明に行こうね」

母の顔は、ごめんね、と言っているようにも見えた。

退学届を出しに行く日の朝。
いつもなら駅まで全力で自転車をこぐ田舎道を、その日はゆっくり進んだ。

授業に間に合わなくても、もう困ることはない。

退学届を出したのは、大学二年生の前期が終わりに近づいていた夏の始まりだった。

あの時の私は、この選択が人生を止めることになるなんて、まだ知らなかった。

大学を辞めた私は、無敵だった。

そう思っていた。

学費を捻出しなくてよくなった。
一ヶ月に稼がなければならない金額は、一気に減った。
労働から解放された。

さあ、自由な生活の始まりだ。

といっても、やることは変わらなかった。
働いていた時間が、読書とゲームに変わっただけだった。

ゲームも好きなだけできた。
ずっと上げたかったジョブ「黒魔道士」のレベルを上げた。
活動の選択肢を増やせる便利なジョブ。
もちろん、ゲームの中限定である。

正直、ストレスはなかった。

でも、人生は良くならなかった。

成人式には行かなかった。
正確には、行けなかった。

「今何してるの?」

その質問に耐えられなかった。

中学生の頃は、運動も勉強もそれなりにできた。
バスケ部の部長もしていた。
キラキラした時期も確かにあった。

でも、その頃の姿はもう見る影もなかった。

だんだんと、周りと会うことも、会話することも減っていった。
代わりに、ゲームの時間だけが伸びていく。

ネットゲームの中では有名になっていた。
私のことを知らない人はいないくらいだった。

ゲームの中では。

妹に何かトラブルがあった。
家族で話し合うことになり、急に呼ばれた。
でも私は行かなかった。

ゲームの中で約束があったからだ。
それに参加すればポイントが貯まり、強い装備が手に入る。
ポイントを一つでも無駄にしたくなかった。

「妹が大変なのに、ゲーム? そんなにゲームが大切なの?」

母と口論になった。
今思えば、どうかしている。
でも当時の私には、本当に大切だった。

気づけば、また夏が来ていた。

扇風機を出し、秋になると片付ける。
冬になれば石油ストーブを出し、春にはしっかり中身を抜いてしまう。

何年も繰り返したせいで、石油ストーブの管理だけは妙に上手くなっていた。

でも、それ以外は何も変わらなかった。

そんなある日、父が部屋にやってきた。

「ちょっといいか?」

良くなかった。

「いつまでこんな生活をしているんだ?」

私の中では、充実した良い生活だった。
生きるためのお金は自分で稼いでいたし、迷惑をかけているとは思っていなかった。

父は違った。

男は外に働きに出て、朝から夜まで働くものだ。
家でゲームをしながらちょこちょこ働くような生活をしてほしくなかったのだと思う。

なぜその流れになったのかは覚えていない。
でも、これだけは覚えている。

「孫が見たいよね。見せてあげられなくてごめん……」

私は泣きながら、父に謝った。

どこで道を間違えたのだろう。
大学を辞めなかったら。
受験勉強をもっと頑張っていたら。
部活をやらずに勉強していたら。

頭の中がぐるぐる回った。

もしかして、今って、とんでもない状態なんじゃないか。

気づいたら、大学を辞めて四年が経っていた。
部屋は四年前と何も変わっていない。
ゲームの総プレイ時間は、一万五千時間を超えていた。

一日十時間を四年間。

ゲームではなく勉強をしていたら、司法試験に合格できたかもしれない時間だった。

私は、何も変わっていなかった。

その日はゲームをせず、ただぼーっとしていた。
気づいたら涙が出ていた。

あんなに自由だと思っていた生活が、初めて苦しく感じた。

その数日後。
母に付き添って、ドコモショップへ向かうことになる。

その涙が、これからの人生を選択する最初の一滴になった。

塾の講師を始めて、六年が経っていた。
大学生アルバイトの多くは四年で卒業していく。
気づけば私は、古株になっていた。

ある日、電気屋で欲しかったスマートフォンを衝動買いした。
当時としてはまだ珍しい、Androidのスマートフォンだった。

一番変わったのは、母だった。

「私もスマホ欲しいんだよね。顔馴染みの店長がいるから、一緒に来れる?」

近所のドコモショップに同席した。

母は欲しい機種を決めていたようで、手続きはスムーズに進んだ。

「データを移すんで、この手順で」

スタッフさんが手順書を印刷しようとした。

「あ、もうやってあるんで大丈夫ですよ」

「えっ?」

目を見開いて確認された。

ガラケーからAndroidスマートフォンへ変えるのに、データをSDカードへ移してから出発していた。
窓口の対応時間が短くなれば、お店も助かるだろう。
ただそれだけの理由だった。

でも、それだけでは終わらなかった。

「えっ? なんでそんな詳しいの?」

そこから話が始まった。
自分もスマホを持っていることを話し、気づいたら、何の仕事をしていて、いくらぐらいもらっているのか、という話になっていた。

店を出る頃には、面接の日程が決まっていた。

まさかの、携帯ショップでヘッドハンティングである。

面接で、一つだけ今でも覚えている質問がある。

「なんで、この話を受けようと思ったの?」

私は答えた。

「自分が苦手としていた、人と会話するスキルを磨けると思ったからです。自分より年下の子どもとは楽しく会話できますが、大人とは苦手なんですよね」

自分が真っ当な人生を送っていなかったから、大人と会話することには後ろめたさがあった。

でも、理由は聞かれなかった。

「苦手なことを伸ばしたいなんて、その心意気いいね」

こうして、ティーガイア社への就職が決まった。

母がその知らせをどんなふうに知ったのかは、もう覚えていない。
ただ、合格したことを何より喜んでくれた。

自分で買おうと思っていたYシャツを、一緒に買いに行った。
そのYシャツを母に買ってもらったことは、今でも覚えている。

こうして、半ニート生活はあっけなく終わった。

入社してからの研修は、難しくなかった。
もともと興味があって、スマホを買う前にパンフレットを熟読していた。
通信の仕組みも、ある程度は分かっていた。

会話の流れから、お客さんの意図を解釈する。
知らなそうな情報があれば、さりげなく添えて説明する。

まだスマートフォンが世に出たばかりだったこともあり、私の知識と説明力は、思った以上に役に立った。

売るためには、話を聞いてもらう必要がある。
話を聞いてもらうには、信頼してもらう必要がある。

ゲームで出会った人生の先輩、Gentooさんが、ここでも助けてくれた。

「結論を先に言う」
「専門用語を使わない」
「相手が知らなそうなことを、さりげなく補足する」

この習慣で、私の営業スキルは飛躍的に伸びた。

指名客が増えた。
その指名客が、別のお客さんを連れてきてくれた。

ある日、ドコモ主催のランキング企画を見ていた。
上位者には景品が出る。
どんな人が強いのだろうと眺めていたら、そこに自分の名前があった。

十三位。

二度見した。

ランクインするほど成果が出ていたのか。

気づけば、県内上位一パーセントに入っていた。

半ニートだった四年間。
努力しても、誰にも褒められなかった。

でも、この会社では違った。
頑張った分だけ数字になった。
その数字を、誰かが見てくれた。

自分の天職は携帯屋だと確信した。

けれど、結果を出しても、理不尽はなくならなかった。

「お前の対応メモはわからない」

社内からバッシングを受けた。

お客様のスマホを修理に出す際、大切な写真をSDカードのどこへコピーしたか、受付の記録に書いていた。

../user/pic/

スマホを扱っている携帯屋なら、誰でも分かる表現だと思っていた。
現実は違った。

初めて、社会の理不尽にぶつかった。

マニュアルを作ってレクチャーしようとした。
でも、入社したての私の声は届かなかった。

「何が正しい」のかは分からなかった。
しかし、職場では「誰が正しい」のかは明確だった。

辛かった。
自分は正しいことをしただけなのに。

当時、OJT担当の先輩を、私たちはシスターと呼んでいた。

そのシスターが言った。

「あなたは何も悪いことしてないよ。でも、スキルが特出し過ぎて、組織から完全にはみ出ちゃったね。店舗ってチームだからさ、自分が休んでても回る仕事の仕方は必要だよね」

いつもは怖いシスターだった。
でもこの瞬間は、完全に頼れるお姉様だった。

数か月後、ドコモ純正のバックアップアプリが配信された。
私がやっていた作業は、誰でもボタン一つでできるようになった。

でも、心のモヤモヤは消えなかった。

自分は悪くないはずなのに。
自分を正当化するだけでなく、ネガティブな思考が生まれ始めた。

そんな話をゲーム上でしていたら、Gentooさんが輪ゴムを紹介してくれた。

「毎日、手首に輪ゴムを付けるように」
「ネガティブなことを考えたら、輪ゴムを弾くんだ」
「ネガティブな思考は何も生み出さないから、そんな時間はゼロにしよう」

最初は、そんなもので何が変わるのだろうと思った。

でも、やってみた。

お風呂に入るたびに輪ゴムの存在を思い出し、ネガティブなことを考えるたびに弾いた。

二か月も続ける頃には、輪ゴムを弾くことはほとんどなくなっていた。

私の中から、

「あいつが悪い」
「会社が悪い」

そんな考えだけが、静かに消えていった。

代わりに、

「どうしたらよくなるのだろう」
「どう説明したら伝わるだろう」

と考える時間が増えた。

仕事は何も変わっていない。
会社も変わっていない。
周りの人も変わっていない。

変わったのは、自分だけだった。

人生を変えるのは、環境よりも考え方なのかもしれない。

その後、私は一人のネットの友達の人生にも関わることになる。

Gashという友人がいた。
オンラインゲームで知り合った、愛媛の友人だった。

ある夏、彼が言った。

「もう少しで仕事辞めるんだよね」
「傷病手当も終わって、寮からも追い出されたんだよね」

無音だった環境音はいつもと違って、愛媛の鈴虫の音を拾っていた。

私は何も考えずに言った。

「ドコモショップって興味ある?」

彼は電子機器好きだった。

「じゃあさ、埼玉に来ない? 私が働いてる会社を紹介するよ」

今考えても、かなりぶっ飛んでいる。

「でも、引っ越しの費用すらないんだよね」

少し考えた。

あの頃の自分なら、こんな提案はできなかった。
半ニートだった四年間。
誰かに助けてもらったから、今がある。

今度は、自分の番かもしれない。

「いいよ。仕事が軌道に乗るまで、全部出してあげる」

私は人を紹介したつもりだった。
でも、本当に紹介されたのは、次のキャリアへ進む私自身だった。

店長との電話面接をセッティングし、採用が決まった。
店長は言った。

「菅原が紹介するなら」

判断の根拠は、それしか教えてくれなかった。

Gashは驚くほどお金がなかった。
引っ越し代を払ったら、何も残らない。

私はルームシェアを提案した。

初めて家族以外と一緒に住む相手が、まだ顔を見たことのないネットフレンドだった。

成田に着いたGashと、飲食店で初対面した。

違和感しかなかった。

声は何度も聞いたことがあるのに、視覚情報がある。
ラジオのパーソナリティにリアルで会ったら、こんな感じなのかもしれない。

でも、私はワクワクしていた。

今まで会ったことがないタイプの人と関われること。
ネットフレンドとこうして会えたこと。

仕事を紹介した手前、教育にも手は抜かなかった。
昼間は仕事をし、夜はフィードバックとロールプレイングをひたすら続けた。

Gashは工場のライン工だった。
対面接客の経験は一度もなかった。

でも、彼は私よりおしゃべりがずっと上手だった。
まずは「結論から話す」を毎晩練習した。
練習しない日はなかった。

業務知識が揃ったら早かった。

半年前まで、愛媛で仕事も住む場所も失っていたGash。
半年後には、関東一位になっていた。

自分より良い成果を出していて、ほんの少し悔しかった。
でも、素直に喜べた。

本人が毎日努力していた姿を見ていたからだと思う。

家具は段ボールのテーブルだけ。
そんな男二人のルームシェアに、賞状が飾られた。

私の名前なんて書いていないのに、自分のもののように感じた。

半ニートだった私でも、人の人生を少しでも豊かにすることができる。

そう実感できた。

未経験でも、人はここまで変われる。
そう信じられるようになった最初の出来事だった。

教えていたつもりが、教わっていた。

Gashとのルームシェア生活も終わり、私は結婚した。

自分の人生だけを考えていればよかった頃は終わった。
次に選び直したかったのは、家族の未来だった。

妻方の父から、結婚後のロードマップを書きなさいと言われた。

いつまでに子どもが欲しい。
二人目はどうする。
そして、いつか戸建てが欲しい。

どんな家がいいのだろう。

せっかく高いお金を出して買うなら、良い家がいい。
では、良い家とは何だろう。

自分が死んでも、残された家族が住みやすい家がいい。
毎月の固定費が低く、長く暮らせる家がいい。

そうしてたどり着いたのが、

「俺の考えた最強の設計。暖房の要らない家」

だった。

建築関係の本を百冊近く読んだ。
建築経験ゼロの私が、海外サイトも参考にしながら調べた。

高気密高断熱。
換気しながら熱を逃がさない仕組み。
トリプルガラス。
複数企業の商品を組み合わせる設計。

今思えば、完全に素人の暴走である。

この時点で、妻は私の説明をほぼ聞いていなかった。

大手ハウスメーカーに企画を持ち込んだ。
設計思想は面白いと言われた。
でも、採用できない建具があると言われた。

別の大手も同じだった。
取り扱える材料が決まっていて、新しいものを入れるのは難しい。

知識も規格も整った。
でも、一人では家は建てられない。

少し諦めて、建売も見始めた頃だった。

答えは、家から一キロの場所にあった。

妹の旦那さんの紹介で、近所のハウスメーカーさんが手を上げてくれた。
私の絵に描いた餅を、実現可能な仕様で設計図に落としてくれた。

賛同するだけではなかった。
私が推していたアイデアの一つを、見事に否定してくれた。

今となっては、本当に採用しなくてよかった設計だった。
顧客を否定するのは勇気がいることだったはずだ。
それでも否定してくれてよかった。

そうして、今の家ができた。

家は完成した。
家族も増えた。
趣味も叶った。

でも。

私の給料だけは、何年経っても変わらなかった。

家族を養うことに不安はなかった。
ただ、自分の努力が評価されないことだけは、どうしても納得できなかった。

同じ業務なのに、自分より圧倒的に給料が高いメンバーが複数いた。
私はその人たちの何倍も売上を出しているのに、社歴が長い方が給料が高かった。

私は提案した。

「売上に応じて給料が決まる仕組みにしませんか」

自分の給料を上げたいだけではなかった。
頑張った人が、報われる会社であってほしかった。

でも、申し立ては叶わなかった。

会社で配れる給料の総量は決まっている。
一部の人の給料を上げるには、他の多くの人の給料を下げることになる。

多数決で勝てるわけがなかった。

無理ゲー過ぎた。

ならば、せめて戦うフィールドを変えるしかない。

社内で新規事業のアイデア大会があった。
私はポップ制作事業を提案した。

全国に何百とある店舗で、似たようなポップを作っている。
一店舗で作ったものを、全店舗で使えるようにすればいい。

完璧だと思った。

でも、結果は惨敗だった。

「既存の事業者様とのお付き合いがあるので、継続利用するように」

新しいことは検討したい。
でも、ステークホルダーとの関係も大事にしたい。

それが会社の出した結論だった。

もっとアクティブに働きたい。
それが給料として返ってきてほしい。

その思いが日に日に強くなった頃、ヘッドハンティングの誘いがあった。

こうして私は、自分を育ててくれたドコモショップと、四年でお別れすることになった。

次に選んだ仕事は、人生で一番稼げる仕事になるはずだった。

初出社の日。

社長との距離は、十メートルもなかった。

ドコモショップでは、社長なんて雲の上の存在だった。
でも、この会社では違った。

「これ、どう思う?」

社長が普通に話しかけてくる。

中小企業で働くということは、仕事が変わることではなかった。

経営との距離が変わることだった。

次に選んだ仕事は、コンサルだった。
全国に三百店舗を超える飲食チェーンの中小企業がお客さんだった。

ミッションは、超シンプルだった。

「何でもいいから、売上と利益を伸ばして」

そして、伸びた分の一部がインセンティブとして支払われる。

前職で欲しかった歩合要素が、最初から備わっていた。
頑張れば頑張っただけ、報酬が入る。

まずは現状把握をしようとした。

「社内情報がまとまってるwikiみたいなのはありますか?」

「ないよ。そういう細かい話は、知ってそうな人に聞いて」

中小の洗礼を受けた。

ドコモショップでは、困ったらマニュアルを開けばよかった。
この会社には、マニュアルがなかった。

知りたければ、人に聞く。
その人が知らなければ、また別の人に聞く。

情報は、システムではなく、人の頭の中にあった。

数字だけ見てもしょうがないので、現場に足を運んだ。

「今月からコンサルとして入ります。よろしくお願いします」

「現場見たいってことでしょ? それはいいんだよ。でもさ、今ランチで忙しいからさ、普通に時間考えて来てくれない?」

現場の洗礼を受けた。

売上を数字で見ても、イメージが湧かなかった。
何をすれば利益が伸びるのか、現場で感じたかった。

そこで、最初の一か月は店舗スタッフとして働きたいと社長に打診した。

「いいよ。リピーター掴んだら、その分も報酬対象にしていいから」

即決だった。

短期間とはいえ、配置転換に会議はなかった。
人をポジティブにする言葉が、デフォルトで付いてきた。

社長、けっこうやばい。
良い意味で。

飲食の現場は壮絶だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。

現場に入るうちに、会社の強みが見えてきた。

都内のど真ん中でも、三百人の宴会ができること。

その強みを活かし、相性の良い団体や組織へアプローチを繰り返した。

そして。

初めて、百万円近い給料明細を見た。

ドコモショップでは想像もできなかった金額だった。

努力が、そのまま給料になる。

その日の夜、妻に報告した。

もう一人、子どもを作ろう。
家族は多い方が絶対に楽しいよ。
生活のことは心配しなくていい。
結婚式もあげようね。

私が求めていた世界は、本当に存在した。

この世界が、ずっと続くものだと思っていた。


二〇二〇年。

世界中の飲食店が止まった。

あの日、また人生が止まった。

ようやく見つけたと思った。
努力が報われる場所。
家族を安心させられる未来。
もう一度、自分を信じられるだけの収入。

それが、自分の努力とは関係のないところで、突然止まった。

でも、今ならわかる。

人生は、思い通りには進まない。
何度でも止まる。
何度でも崩れる。

それでも、そのたびに選び直すことはできる。

大学を辞めた日も。
父の前で泣いた夜も。
母とドコモショップへ行った日も。
ネットの友達を埼玉へ呼んだ日も。
家族の未来を考えて家を建てた日も。

全部、人生を選び直してきた日だった。

そして私はまた、
次のキャリアを選び直すことになる。

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