古代ギリシアと英単語② 僭主政前夜~民主政成立(前700年~前450年頃)
こんにちは。森倉健斗です。
前回に引き続き、古代ギリシア、特にポリス・アテナイの歴史の視点から関連する英単語を解説していきます。前回の記事をまだ読んでいない方はぜひご覧ください。
さて、今回は僭主政~民主政誕生(前700年頃~)までを扱います。
僭主政前夜(前700年~前561年)
前回見たように、前7世紀の前半頃までにアテナイは徐々に民主政に歩みを進め始めましたが、依然としてその政体は貴族政のままでした。しかし前7世紀になると、平民の中にも富を蓄え、経済的には貴族と遜色ない者たちが現れ、応分の参政権を要求していきます。一方、生活に瀕する平民も多数存在し、彼らはかなり厳しい条件で裕福な者(貴族や裕福な平民)から金を借りていました。それ故、彼らは、その厳しい条件に不満を持っていました。
このような社会の階層化と平民の不平・不満を背景に、非合法に権力を手に入れようとする者が現れます。この「非合法に権力を奪取して統治を行う者」のことをテュランノス(τυρανννος)「僭主」といいます。このギリシア語が英語に入るとTyrant「暴君、専制君主、僭主」となります。
前632年、キュロンという人物がアテナイにおいて僭主になろうとアクロポリス(パルテノン神殿が建っている小高い丘)を占拠しました。この時は民衆たちの抵抗により僭主は誕生しませんでした。
しかし、この「キュロンの陰謀」の後も、貴族と平民の間の対立は激化するばかりで、収まることはありませんでした。ギリシア七賢人の一人として知られるソロンは前6世紀初頭に改革を行い、財産政治によって上層の平民が政治に参加できるようにしましたが、今度は旧貴族と新興平民の間で派閥争いが勃発し、また下層市民に至っては不満ばかりが募っていきました。前590年には国のトップであるアルコンを選出できないという未曽有の事態まで起こってしまいます。この「アルコンなしの状態」のことをギリシア語でアナルキア(αναρχια←否定の接頭辞ανと「支配状態」を意味するαρχιαの合成語)といいます。これが英単語Anarchy「無政府状態、アナーキー」の由来です。
まさに「混沌」というべきこの状況の中で、ついに今度は本当に僭主が現れることとなるのです。
僭主政(前561年~前510年)
アテナイにおいて僭主政を樹立した人物は、ペイシストラトスです。彼は貴族であったが、民衆を味方につけ、前561年に僭主の地位を手に入れました。

ところで、皆さんは「僭主」という言葉を聞いた時どのような印象を持つでしょうか。多くの方が抑圧的であり、好き勝手やる暴君のような否定的なイメージを抱いたと思います。しかし、元々この「僭主=テュランノス」という単語にそのような意味はありませんでした。後に民主政が成熟した際に、僭主政が批判されるにあたってそのような意味が追加されたのです。そしてその意味は英単語Tyrantにも引き継がれているわけです。
実際、ペイシストラトスはそのような暴君というよりはむしろ、善政を行った指導者でした。彼は中小農民を保護・育成し、また様々な宗教祭典を整備することに成功しました。彼の治世のアテナイはとても平穏だったのです。
しかしながらペイシストラトスが死に、権力が息子であるヒッピアスとヒッパルコスに移ると事態は一変します。ヒッパルコスが暗殺されたことをきっかけに、ヒッピアスは暴君と化し、恐怖政治を行いました。この恐怖政治により民衆からの支持を失い、ヒッピアスは前510年に追放されることとなりました。
民主政成立(前510年~前450年頃)
僭主ヒッピアスを追放したのは、クレイステネスという人物でした。彼こそアテナイにおける民主政誕生に大きく貢献した人物です。
彼の出自はアルクメオン家という非常に有力な一族であり、彼自身は貴族でした。しかし彼は、貴族の権力を減らし、逆にその権力を「民衆」に分配するような改革を次々と行いました。例えば、彼はは500人評議会を新たに創設し、この評議会の評議員は抽選で選ばれるようにし、貴族による評議員の独占を不可能としました。このように、「民衆」(ギリシア語でデーモスδημος)が主導して政治が行われるようになったので、この政体のことをデーモクラティア(δημοκρατια)といいます。英単語のDemocracy「民主主義、民主制」の語源です。
ちなみにクレイステネスによって創始された民主政は、前450年頃にペリクレスによって完成されることとなります。ペリクレス以前には、裁判権は未だ貴族たちの手にゆだねられていましたが、ペリクレスはそれを取り上げて民会、500人評議会、そして民衆裁判所に分け与えました(これら機関については別の記事で取り上げようと思っています)。また務めるためには一定の財産が必要であったアルコン職の条件も緩和し、より多くの人がアルコン職に就けるようにしました。
その後のアテナイ(前450年頃~ローマ期)
民主政が完成したアテナイですが、その後もずっと民主政だったわけではありませんでした。例えば、前411年には民主政が転覆されて、400人の市民による統治体制が宣言されました。これは「少数」による支配であるので、ギリシア語でオリガルキア(ολιγαρχια←ολιγος「少数の」と αρχια「支配状態」の合成語)と呼ばれます。英単語Origarchyの語源です。以後、アテナイの歴史の中でオリガルキアへと政体が変わることは幾度となくあります。しかし、そのたびにアテナイは国政を改良し、民主政が長く続くよう努力ししました。前86年にローマによってアテナイが陥落し、その支配下に入ってポリスの運営が有力市民のみで行われるようになってもなお、彼らが民主政という看板を下ろすことはありませんでした。時代を経るとともに民主政はアテナイのアイデンティティへとなったのです。
今回はここまで。次回は古代ギリシアの文化と英単語について解説するつもりです。最近よく聞く「ジム通い」、実は古代ギリシアに起源があるって知ってましたか???
またお会いしましょう!χαῖρε!(さようなら!)
参考文献
桜井万里子・本村凌二(2010)『ギリシアとローマ』、中公文庫(底本は1997年)。
橋場弦(2022)『古代ギリシアの民主政』、岩波新書。
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