なぜ私は「うまい答え」に惹かれないのか――教え子とのやり取りで気づいたこと
――俳優思考・第二十二回
授業をしていて、ある学生に違和感を覚えました。
課題に対して、いつも少し斜に構えている。誰も思いつかないような答えを出したり、ルールの隙をついたりして、その場を笑わせる。
私は、自由に発想することを良しとしています。自分で考えたことを声に出したり、表現したりすること自体が素晴らしいのであって、上手いか下手かは問わない。だから、自分の思考に敬意を持ってください、といつも伝えています。だとすれば、その学生が誰も思いつかないような答えを出すこと自体は、私の言っていることに何ひとつ反していません。
だから私は、「なんとなく馬が合わないだけかな」と思っていました。
でも、何日か考えていて気づいたんです。私が引っかかっていたのは、その答えじゃなかった。その答えにたどり着くまでの、姿勢だったんです。
誰も思いつかない答えなので、意表をついていて、一見面白く見えます。
でも、それは課題に挑んだ結果ではなく、課題の外へ出てしまっているように思えたんです。
例えば、こんなお題をやらせたとします。「小型爆弾がポケットに入っています。振動を与えると爆発します。何もしなくても、1分経てば爆発します。ただ、離れた場所にラインが引いてあり、そこを越えれば爆弾の作動は止まります」。
大半は、すり足でそのラインに向かいます。1分という限られた時間の中で、なんとかしなければなりません。めちゃくちゃ早く動ける人もいれば、なかなか進めない人もいます。振動を与えすぎて、その場で爆発してしまっているだろうな、という人も結構います。そんな中、じっと動かない人がいました。「どうした?」と聞くと「もう、きっと無理なので、死を受け入れました」って言うんです。
もちろん、本気で考えた末にその答えにたどり着いたなら、それは立派な答えです。でも、「人と違う答えを言いたい」という気持ちが先に立っているとしたら、私はあまり面白いとは感じません。「うまいこと言った自分」を見せつつ、ただ、やらない選択をしてるだけなんです。
私は、一休さんの「この橋渡るべからず」という話も、少し似たように感じています。橋ではなく、端を渡る。とんちとしては見事です。
でも、私なら橋を渡らず、泳いででも向こう岸へ行く人のほうが好きなんです。ルールの言葉尻をかわすのではなく、「この条件の中で、どうやって目的を果たそうか」と考える人。その姿に、その人らしさを感じます。
俳優の仕事も、よく似ています。台本も役柄も、自分では選べないことのほうが多い。だからこそ、その条件の中でどれだけ足掻けるかが問われます。条件を変えることより、条件の中で生きること。
私は、そのほうがずっと創造的だと思っています。
今回の出来事を通して、自分が何を大切にしているのか、改めて気づきました。
私は、「うまい答え」を見たいんじゃない。「挑んだ答え」を見たいんです。たとえ平凡でも、不器用でも、その人なりに課題と向き合い、悩み、考えた跡が見える答えには、不思議と心が動きます。
きっと、人が心を動かされるのは、答えそのものじゃない。
その答えにたどり着くまでに、その人がどう向き合ったのか。
私は、そこを見ていたいんだと思います。
あの学生のことも、もう少し見ていようと思います。斜に構えた答えの奥に、まだ見えていない向き合い方があるのかもしれないので。
次回はこちら→『舞台という総合芸術が教えてくれた「感謝を生かす」ということ』
前回はこちら→『向き合うこと――その姿勢が、その人の説得力になる』
まとめはこちら→【俳優思考】
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