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1918年(大正7年)4月18日 川口先生、さようなら

4月18日 木曜日 晴

嗚呼、今日は最も悲しき最も記憶すべき日である。二カ年五ヶ月の間、学校のため我らのために尽くされたる川口校長は、福岡県に行かるることとなった。
朝五時に起き六時十分家を出ず。ニ之町の自動車会社の前は中学生が集っていた。我も家のつき下にて待っていた。校長を迎える人は次から次へと集まりつて七時近くになったころ校長が来られた。
「よく注意して自分のために勉強するように」
と、先生は熱誠のこもった声にて言われた。その一言、たった一言である。しかしこれには深い言うことのできない意味があるのだ。我はなんとなく悲しくて涙が出るようであった。
やがて自動車は発動機の音を静かに出た。我々は三列になって見送った。校長先生は車内にて我々を名残惜しそうに見ておられた。
すでに自動車は行き過ぎた。我はその後をうっとりとして見送った。
上の命令とはいえ、斐太中学校にとっては大いに惜しむべきことと言わねばならぬ。

※孫よりひとこと
4月16日の日記にも記載しましたが、校長川口孫治郎氏は教育者としても研究者としても素晴らしい方だったようです。
私自身も斐太高等学校の卒業生なのですが、前身の旧制斐太中学校時代に素晴らしい方が校長として赴任されていたということを知り、誇りに思いました。祖父も川口校長を尊敬し慕っていたのがよくわかる文章です。
当時の旧制中学校で校長を務めることができる方は帝大(東大、京大)卒の方が大半だったそうです。エリートですね。
当時は当然新幹線も開通しておらず、全国転勤は大変だったでしょう。
川口校長のような志を持った教育者が、雪深い山の街で、鄙びた海辺の街で、青年たちに大きな影響を与えていたのだと思うと、感慨深いものがあります。