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不合格。卒業式。優等を受く。|1920(大正9年)3月8日(月)|

📓 1920年、17歳だった祖父が書いた日記を、 孫である私が、2026年の同じ日に紹介しています。  
仮名遣いは今の表記にしています。
読めない字や謎ワードも時々ありますが、106年前の味ということで、ご理解ください。

祖父は師範学校を受験しましたが、おとといの合格発表で不合格。
ショックも冷めやらぬうちに、本日、旧制中学校の卒業式を迎えます。
当時の中学校は5年制で、今で言えば中高一貫校のような学校です。


🧭 この日のあらすじ

朝からよく晴れた、気持ちのいい日。
午前10時より卒業式。母も出席した。

校長先生は「真に努める人」について語り、岐阜県知事の告辞もあった。

そして、優等賞を受賞。

夜には、母が小学校時代の恩師・河内先生の家を訪ね、今後について相談。
「大変だとは思うが、まずは田舎の学校で代用教員をするのがよいだろう」と助言を受ける。

明日は母とともに、母の実家のある丹生川村へ。
代用教員採用のお願いに向かう予定。


📅 日記本文

第32回卒業式
朝晴れて心持ち良し。
10時より卒業式挙行。
母も行かる。
校長より、真のつとむる人につき話あり。
知事閣下の告辞あり。
学校優等の賞を受く。
夜、母、河内屋に行かれ
「我はよく頑張らねばいけない。
そして田舎の学校にて代理教員をするのも良いだろう」と
明日丹生川に行き頼むつもり。

📌 背景メモ

斐太=ひだ、と読みます。よく知られている地名「飛騨」と同じ地域を表します。
万葉集では「斐太」となっていて、校名は、万葉集の表記によるものです。

旧制斐太中学校の後身にあたる斐太高等学校は、今年、創立140年を迎えます。
祖父はその第32回卒業生。そして私も卒業生の1人です。

祖父は不合格を知った翌朝、真っ先に近所に住む小学校時代の恩師・河内先生を訪ね、代用教員として勤務しながら師範学校に再挑戦するということを決めてきました。

卒業式の夜、祖父の母は河内先生の家を訪ねています。
息子の決断を改めて確認しに行ったのかもしれませんね。


💭 孫のつぶやき

祖父の卒業した旧制斐太中学校は、岐阜県立斐太高等学校の前身で、私の母校でもあります。
斐太高校は白線流しの行事で知られていますが、祖父の卒業式から白線流しの登場までには、さらに20年ほどの時間を待つこととなります。

祖父は優等賞を受賞しました。
でも師範学校には不合格。
進路への不安の中であまり喜ぶ気分でもなかったでしょう。

同窓会名簿によると、祖父の学年の卒業生は37名です。
この頃はまだ鉄道も開通していない、陸の孤島だった田舎町の学校ですが、意外にバラエティに富んだ進路をとっていることに驚きました。

同窓会名簿からわかる、祖父の同級生の進路はこちら。

白線流しについてはこちら(Wikipedia)

さくらの箸置き