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出口はある。だが、受け口がない。



学校には「出口」がある。

教育を受け、進級し、卒業する。
そして社会へ出ていく。

だが、その先に何があるのか。

社会には、子供を受け取るための「受け口」が十分に用意されているだろうか。

今の社会は、学校から子供を送り出すことには慣れている。

しかし、社会の側から子供を迎え入れ、支え、社会の仕組みを教え、実際に動けるようにすることには、まだ大きな不足がある。

「卒業したのだから、あとは自分でやりなさい」

そんな構造になってはいないだろうか。

これは、教育の問題でもあり、社会の問題でもある。

学校を出たのに、社会のことを知らない

会社に入る。

しかし、会社とは何なのかを知らない。

経理とは何なのか。
人事とは何なのか。
利益とは何なのか。
経費とは何なのか。
給料はどこから出てくるのか。

契約とは何なのか。
税金とは何なのか。
社会保険とは何なのか。
労働者にはどんな権利があるのか。

困ったとき、どこへ相談すればいいのか。

こうしたことを知らないまま、社会へ出る。

そして会社に入ってから初めて教えられる。

だが、それでは遅い。

教育とは、本来、社会へ出た人間が右も左も分からない状態にならないようにするためのものでもあるはずだ。

学校を卒業することと、社会を知らないことが同時に成立している。

ここに大きな矛盾がある。

歴史より先に、社会を知る

歴史を学ぶことが不要だと言っているわけではない。

数学も国語も必要だ。

だが、順序や教え方には疑問がある。

数学を教えるなら、会社の経理を教材にしてもいい。

売上はいくらか。
原価はいくらか。
人件費はいくらか。
利益はいくらか。

「100万円売れた」ということと、「100万円儲かった」ということは違う。

数字が現実と結びつけば、数学はただの計算ではなくなる。

国語も同じだ。

文章問題だけではなく、人間と話すことを学ぶ。

会社の経営者に質問する。
行政の人間に話を聞く。
職人から仕事を教えてもらう。
研究者に説明してもらう。

相手の話を聞く。

自分の考えを伝える。

質問する。

説明する。

相手の立場を理解する。

それこそ、社会で使う「国語」ではないだろうか。

歴史も、社会を学んだあとに見ると意味が変わる。

なぜ今の法律があるのか。

なぜ今の制度ができたのか。

なぜ会社という仕組みが生まれたのか。

なぜ税金が必要なのか。

現在の社会が、どのような過程を経て作られてきたのか。

歴史を「昔の出来事」として覚えるのではなく、「今の社会ができるまでの過程」として理解する。

教科を社会から切り離すのではなく、社会の中へ戻していく。

動けない人間を作ってはいけない

もっと重要なのは、知識の量だけではない。

「分からないとき、どうするか」を教えることだ。

調べる。

聞く。

試す。

失敗する。

修正する。

別の方法を探す。

社会には、教科書に答えが書いてある問題ばかりではない。

だから必要なのは、正解を大量に覚えた人間だけではない。

自分で動ける人間を育てることだ。

動かない人間ではない。

動けない人間を作らないことだ。

社会の仕組みを知らなければ、人は動けない。

自分に何ができるのか分からない。

どこへ行けばいいのか分からない。

誰に相談すればいいのか分からない。

何を要求できるのかも分からない。

その状態で「自立しろ」と言われても、無理がある。

そして社会側にも責任がある

しかし、学校だけを責めても意味がない。

社会側にも「受け口」が必要だ。

子供が社会を学べる場所。

大人と話せる場所。

仕事を実際に見られる場所。

失敗しても戻れる場所。

小さな仕事を体験できる場所。

困ったときに相談できる大人。

学校と社会を完全に切り離す必要などない。

むしろ、

学校と社会を往復できる構造

を作ればいい。

学校で学ぶ。

社会で試す。

学校へ戻る。

また学ぶ。

そしてまた社会へ出る。

そうすれば卒業は「放出」ではなくなる。

社会への参加段階が一つ進むだけになる。

学校から社会へ子供を放り出すのではなく、その間に橋を架ける。

弱さとは、能力の問題だけではない

ここで言う「弱い人間」という言葉を、能力の低い人間という意味で使いたいわけではない。

自分の生活だけで頭がいっぱいになっている人間のことだ。

食べる。

働く。

家賃を払う。

税金を払う。

明日の仕事を考える。

職場で問題を起こさないようにする。

それだけで一日の思考力を使い切ってしまう。

そうなれば、

「この制度はおかしくないか」

「社会はどう動いているのか」

「自分たちで変えられるものは何なのか」

そんなことを考える余裕がなくなる。

そして、社会を知らない。

だから生活で余計な苦労をする。

余計な苦労をするから、さらに生活だけで精一杯になる。

生活だけで精一杯になるから、社会について考える余裕がなくなる。

これは、一つの循環になる。

だから教育によって、社会を知らないまま会社へ放出する人間を減らすことには意味がある。

税金を知る。

会社を知る。

法律を知る。

行政を知る。

金の流れを知る。

働くということを知る。

困ったときに頼れる場所を知る。

それだけでも、人間が生活の中で無駄に消耗する部分は減る。

そして余力が生まれる。

その余力があって初めて、人は自分の生活だけではなく、社会そのものを見ることができる。

学校は、社会に人間を納品する場所ではない

私は、教育を「社会に適応するための訓練」とだけ考えることにも疑問がある。

学校は会社へ人材を納品する場所ではない。

子供を企業の都合に合わせる必要もない。

社会の側が子供を受け取る準備をすればいい。

学校は学校として、子供に社会を教える。

企業は企業として、自分たちの制度を持つ。

行政は行政として役割を果たす。

そして、それぞれの間に子供が行き来できる道を作る。

学校の出口を作るだけでは足りない。

その出口の先に、社会の受け口を作らなければならない。

そして学校も、出口まで子供を運ぶだけでは足りない。

出口へ向かう途中で、社会を歩くための地図と、自分で歩くための足を渡さなければならない。

それが教育なのではないだろうか。

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