見出し画像

備忘録 義母の最期

こんにちは、ぱんだごろごろです。

タイトルにもある通り、夫の母が亡くなりました。
2026年2月19日木曜日のことです。

その日は朝9時19分に、老人ホームから電話があり、
『◯◯(義母)様の血圧が下がって、脈が弱くなり、酸素吸入をしています。
ついては、ご家族の方にこちらに来ていただけないでしょうか』
とのことでした。

ただちに伺います、と返事をして、2階の部屋に夫を呼びに行きました。

娘と息子には、おばあさんが危篤です、とラインで知らせました。

夫の弟は、たまたま2日前に上京して、茅ヶ崎の実家に泊まっていましたから、夫から弟へ連絡をしました。

10時前にはホームの居室で、夫と2人、母に付き添っていました。
しばらくすると、夫の弟もやって来ました。

その日、娘は娘婿と旅行の最終日、息子は翌日に軽い手術を控え、入院したばかりでした。

皆、義母はもう少し保つだろうと思って行動した結果でした。

夫と夫の弟と私の3人で、義母の居室のベッド横に詰め、酸素マスクをしている義母の呼吸の様子を見つめていました。

はあっ、はあっと言っていたのが、音が小さくなり、やがてのどの動きで呼吸を確かめるようになりました。

何をするでもなく、3人、ただ寝台に横たわっている老女の姿を見守るしかないのです。

11時半を過ぎたので、夫に、弟と一緒に、外で昼の食事をしてくるようすすめました。

2人は音もなく出ていきました。

しばらくの間、私は義母ののどもとをじっと眺めていました。

扉を叩く音。

在宅診療クリニックの医師の回診でした。

看護師の女性が手際よく義母の血圧を測ります。
ホーム専任の看護師がやって来て、『もう血圧が測れないんです』とクリニックの看護師に言っています。

クリニックの看護師が医師を見遣り、何事かを告げると、医師が義母をあらため、やがて私に向き直って言いました。

『おそらく今日の夕方まででしょう。
血圧が下がっているので、夜までは保ちません。
早いと3時頃になる可能性もあります』

私は『承知しました。ありがとうございます』と医師に述べ、頭を下げました。

3人が出て行ってほどなく、夫と弟が戻って来ました。

医師の診立てについては、直後にラインで夫に送ってあったため、夫は入れ替りに、すぐに昼食に行くよう、私に言いました。

ホームの敷地を出て、近くにあるチャーハン屋さんに向かいます。
安くて美味しいチャーハン屋さんです。
味もよくわかり、美味しいと舌も頭も言っているのに、身体はただもくもくと食べるのみ。

ホームの居室に戻って来たときには、12時半頃でした。

それからはまた、ベッドわきの椅子に3人で座り、義母の寝姿を見つめます。

義母の呼吸は徐々に間遠になり、ときおりぴくっとのどが動くので、呼吸していることがわかるのでした。

この時、徐々に命が削られて行く義母の様子を、目を凝らして、ただいっしんに眺めることで、私も知らず知らずのうちにダメージを受けていたのですが、そのことに気付いたのは、あとになってからのことでした。

義母の呼吸が途切れるようになったため、弟が看護師に告げに行きました。

看護師がやって来て、
『医師に連絡したので、もうじき着くはずです』と言いました。

私たちは医師の到着を待ちながら、義母を見守りました。
弟は何かしゃべったり、義母の手をさわってみたりしていました。

やがて医師がやって来て、脈を診て、呼吸を診て、目を診て、義母が亡くなったことを告げました。

臨終の時間は14時3分とのことですが、実際には、13時30分前後でのことでした。

享年91歳。

直接の死因は誤嚥性肺炎、その原因はパーキンソン病。
遠因は左放線冠ラクナ梗塞(脳梗塞)。

世間はイタリア、ミラノ・コルティナでの冬季オリンピック一色で、日本勢の活躍に国中が沸いているときの出来事でした。

ひとりの老女が、ひっそりとこの世を去りました。


今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
ごく私的な内容になりました。
ご理解の上、ご容赦願えますと幸いです。




いいなと思ったら応援しよう!

ぱんだごろごろ 記事を充実させるための活動費、書籍代として使いたいと思います🐼