血道 第一部 ある恋の顛末①
第一部 ある恋の顛末
令和四年五月七日 喫茶店
「ごめんなさいね、急に声をかけて。でも、あなたであってますよね、中野新苗《なかの・にいな》さん」
わたしの目の前に座った女性が、そう尋ねた。
透き通るような白い肌に、黒いワンピースが喪服のように見える。その日は前日よりもかなり気温が上がっていて、じんわりと汗をかく陽気だったけれど、彼女は長袖のワンピースを着ていた。
「あの……わたしの名前」
「ああ、ごめんなさい、驚かせてしまったわよね。大山光里《おおやま・ひかり》の姉の美国《みくに》です」
そう名乗った彼女は座ったまま頭を下げた。わたしも慌てて頭を下げる。
大学近くの喫茶店──カフェというよりは、純喫茶の風情のある喫茶店だ──学生街にあるけれど、静かで、わたしはよく利用していた。
カウンターにいたアルバイトの店員がようやく、わたしたちのボックス席にやってきた。年明けから顔を見るけれど、いつまで経っても、やる気がなさそうに見える。
「あのぉ、ご注文は……」
「ここのおすすめはなに?」
お姉さんは、わたしに尋ねた。わたしはそっとメニューにあるコーヒーのメニューを指さす。
「お姉さん。コーヒーがお好きだったら、ここのコーヒーはおすすめですよ」
「そう……。じゃあ、アイスコーヒーをいただこうかな」
「はい。アイスコーヒーをふたつ」
「はぁ……」
店員が曖昧な返事をする。
そして、わたしとお姉さんを交互に見てから、カウンターに戻って行った。ひそひそとマスターにオーダーを伝えている。あの店員に覇気がないのはいつものことだけれど、連れてきた店でこんな対応をされてしまうと、恥をかかされたような気がする。
申し訳ないし、恥ずかしくて、わたしはお姉さんに頭を下げた。
「ごめんなさい。でも、ここ、コーヒーはおいしいし、ナポリタンもおすすめです」
明言はしなかったものの、わたしが何を謝っているのかを察して、お姉さんは「ふふ」と短く笑った。
軽やかで、聞いているこちらの胸が軽くなりそうな声。
優しい笑い声。
大山光里の声と、どこか似ている響きがある。わたしの胸の奥に、じわりと暖かい、けれど、少しだけ苦い感情がこみ上げてくる。
お姉さんは、店の中を見渡して、口を開いた。
「大丈夫、お腹は空いてないの。それに、ここのお店のことも知ってるから、連れてきてもらえてうれしい」
「大山くんから聞いたんですか?」
「そう。光里から聞いたの。あなたのことと一緒にね」
わたしの肩がピクリと揺れた。
聞くなら、今しかない。ずっと知りたいことがあった。
「あ、あの……!」
「光里が今どこにいるか、知ってる?」
お姉さんの声は強張っていた。
その言葉を聞いて、わたしの体から力が抜けた。
それはまさに、わたしが尋ねたかったことだ。
「……お姉さんも……知らないんですか……?」
「知っていたら、わざわざここまで来なかったと思う」
自嘲して、お姉さんが目を細めた。
こういう仕草が、いちいち大山光里という人に重なる。
美しい男、いつもどこか儚げで、寄る辺のないような、そんな風情の男。わたしに微笑みかけ、わたしの手を取った美しい男。
「あなたなら、光里と連絡を取っているかと思ったんだけど」
「いえ……」
「ああ、悪く取らないで。家で光里が話していた同級生はあなただけだったから。それだけの話。……もしかして、光里を匿ってるんじゃないかと思ったの」
「匿う……?」
なんだか、単語の意味だけが上滑りするような感覚がした。
匿う。
大山光里を、わたしが。
何度も瞬きをしているとお姉さんは気恥ずかしそうに肩を竦めた。
「お恥ずかしい話なんだけど、大山の家は古い家でね、もめてるのよ、今。──今って言っても、祖母の葬儀からずっと」
一度だけ、東北の光里の実家に行ったことがある。ゼミ旅行の最中なので、もちろんほかにも人がいたけれど。
何もない家だと彼は笑っていたが、その古い日本家屋には見るからに歴史が詰まっていた。あの時、顔を合わせたのは祖母と母だ。姉は東京で一人暮らしをしていると言った。
小柄な老婆と、光里の母は広い座敷に三つ指ついて、出迎えてくれた。
面食らわなかったと言えば、嘘になる。時間が止まったような日本家屋の中で、そうやって頭を下げる人びと。
わたしの中では、フィクションの世界だった。
茨城のよくある住宅地で育ったわたしとは、背負っている世界が違う。
わたしは圧倒されていた。
家の歴史。
大山光里から滲んでいた不思議な落ち着きと、あの家に漂う時間の感覚のなさは、同じ類のものだった。
そして、お姉さんはやはり、光里と似ている。光里はいつでも微笑んでいるように口角が上がっていたが、彼女の口角は下がっている、そのくらいの違いだ。
大学を出てすぐに声をかけられて、日陰に立っている彼女を見た瞬間に、光里の姉だと直感した。
それほど、醸し出す雰囲気が似ていた。
「おばあさんが亡くなられたのは……今年の冬、でしたよね……あの、お悔やみを……」
「九九歳と三三五日。もうすぐで百歳。これ以上ない大往生よ、ありがとう」
ああ。わたしはこの言い方を、聞いた。
他ならない、光里から。
乾いていると思った眼球が、急に熱を帯びる。涙の膜が張り、お姉さんがぐにゃりと歪んだ。
「え? やだ……どうしたの?」
「いえ、その……同じことを、大山くんも言っていて……」
「ああ……そう、だったの」
これ以上ない大往生だよ、ありがとう。
彼は微笑んでわたしに言った。
祖母の急変を知らされたからと、取るものも取らず帰省した彼は、一瞬間ほど地元に滞在し、葬儀が終わってから戻ってきた。
そして、紋切り型のお悔やみを口にしたわたしに、微笑んだのだ。
──九九歳と三三五日。もうすぐで百歳、大往生だよ、ありがとう。
「光里があなたの前からいなくなったのは、いつ?」
「……っ」
お姉さんは淡々と尋ねた。けれど、その声の裏にある、隠しきれない焦燥感に気付いてしまった。
光のような人だった。
名前の通り、透き通る光。明るくて、華やかで。なのにつかみどころのない人。
わたしに微笑んでくれる眼差しは、春の陽だまりのようなあたたかさで。
金魚のようにぱくぱくと口を動かしたあと、わたしはそのまま泣いてしまった。
ぼろぼろ、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
大山光里がいなくなったことを、実感したくなかった。彼は、消えたわけじゃない。そう信じていた。信じたかった。
でも、家族の前にさえいない、本当に彼は消えたのだ。
「うう……ううう……」
「泣かせたかったわけじゃないんだけど……ごめんなさいね。そんなに光里のことを大事に思ってくれていたの」
店員がそろそろとアイスコーヒーを運んできた。わたしが泣いているからか、気まずそうに俯いて、コースターにのせたアイスコーヒーをふたつともテーブルの隅に置いた。
泣きながら、わたしがお姉さんのほうにひとつアイスコーヒーを差し出し、自分のアイスコーヒーも引き寄せた。
「……大山くんは、いつも、コーラフロートを頼んでました」
「ふふ」
乾いた笑い声、お姉さんの肩がぎこちなく揺れた。涙に沈んだ視界でも分かる、お姉さんも泣きそうな表情をしていた。
「子どものころから、あの子はずぅっと……好きなものを繰り返し食べる子だった」
過去形。
その響きは、わたしの胸に突き刺さる。
耐えきれなくなって、俯いた。テーブルに突っ伏すようにして、声をおさえて泣いた。泣くくらいしか、できないからだ。
明確にいつからいなくなったのか、知らない。分からない。いつもは既読になってすぐに返信をくれるメッセージが帰って来なくなった日なのか、その日よりもあとなのか。
あの人は、わたしの光だったのに。
──大山光里は、わたしにとって、中野新苗にとっては、天使だった。イコンであり、神であり……唯一の男だった。
「あの子はどこにいそう? あなたの知っていることを、すべて話して」
令和三年四月 W大学構内
大山光里という人は、名前の通り、彼がいるだけで『ぱぁ』っと周囲が明るくなるような人だった。
わたしと彼が知り合ったのは、一年と少し前、大学に入学してすぐのころだ。入学式も終わり、履修登録までの短い宙ぶらりんの時期。
まだ入学してすぐだと言うのに、すでに、いくつものグループができていた。
わたしは、もともと、人付き合いはうまくない自覚がある。子どものころからそうだった。保育園のころにはすでに、保育士から母親が「いつもひとりで遊んでいます」と言われていたらしいので、筋金入りだ。
両親はわたしの社交性を育てたいと、様々な習い事をさせた。
水泳、英会話、バレエ、子どもオーケストラ。
それでも、わたしは変わらなかった。ひとりを好んだし、それが苦痛ではなかった。
親しい友人が一切できないというわけではない。わたしのように人付き合いの苦手な人間もクラスには、絶対にひとりはいる。そのおかげか、孤立することはなかった。
ただ、わたしはマンガやアニメに疎かったので──好きじゃないというよりは、家にそういう環境がなかったのだ──、友人たちのするマンガやアニメの話についていけなかった。グループの中で、うっすらと浮いている。そんな存在だった。
女子高だったので、いじめらしきいじめもなかった。それぞれグループはあったけれど、はっきりとしたすみわけがされていて、そのグループ間でゆるやかな交流があったくらいだ。
わたしの通っていた私立の女子高は、中高大と一貫校だったが、大学からは男女共学になる。それは、わたしにとってはひとつの脅威だった。
一気に学校の雰囲気が変わった。女子校時代にはなかった、女性同士の軋みみたいなものがたったひと月の間に目に見えるようになった
グループの立ち上がりも異様に早くて、そして、そこから弾かれた場合、ひとりきりだ。
高校のころ親しかった子たちは、ほとんど外部進学していたので、わたしはぽつんと取り残された。
そんななかでも、大山光里は目立った。
多分、あの日のことを誰かに話せば『一目惚れだ』と言われるだろう。
大山光里のことは知っていた。名前までは知らなかったが、一番目立つグループの中で、ひと際目立っていた。みんな明るい色に髪を染めているのに、彼は黒々とした髪をしていて、耳についた銀色のピアスがなまめかしく光る。
そして、顔の造作が、中性的に整っていた。いつも静かに微笑んでいて、時々声をあげて笑うときに、覗く八重歯が愛らしい。
学食でも、講堂でも、彼らはとにかく目立っていた。
華やかなグループではあるけれど、地に足のついた、高校時代からいわゆるスクールカーストのトップにいただろう彼らは、大騒ぎするわけではない。
わたしはひとり、学食で話しながら講義選びを進めるグループの声を背負うようにして、自分で悪戦苦闘しつつ、科目を選択して決めた。
心細くはあったけれど、知らない誰かに話しかけて仲間を作るほうが、心底苦痛だ。
だから、ある意味では私は困ってはいなかった。子どものころから、ずっとそうだったように、わたしはひとりでどうにかしようとしていた。
「あ、ねえ、待って!」
はじめて大山光里に声をかけられたのは、ひとりで歩いている時だった。学食のある棟を出て、とぼとぼと歩くわたしを後ろから呼び止める。
「え?」
振り向けば、大山光里がビニール傘を片手にこちらに走って来ていた。
切れ長の目を細めて、わたしに手を振っている。
「これ、君のだよね。忘れてたよ」
「あ……すみません」
ビニール傘を受け取りながら、慌てて頭を下げると彼はクスリと笑った。
別に、わたしは詩的な才能があった訳でもないし、今もそうではない。
でも、この時、彼はわたしの中の時間を止めた。
きっとわたしに絵が描けたのなら、この瞬間の彼をきっと絵に残しただろう。
春の柔らかな日差しに照らされた彼が、どれほどまでに美しかったのか。瞬きの音が、蝶の羽音のように響いたのか。
自分が息を飲む音を、あんなにはっきりと意識したことはなかった。
おっとりとした笑顔、まるで美人画のような。
美しい男。
