【掌編小説】忘れられない、あの日のカレー(1223文字※)
中学3年生に上がる春休みのある日のことだ。その日は友人の山田が午前中から遊びに来ていた。
昼が近づき、ゲームが白熱してきた頃、ふわっと馴染みのある香りが漂ってきた。
「……あれ? カレーの匂い?」
山田がそう言った瞬間、僕は思った。
しまった……完全に僕の責任だ。
「山田はカレーが好きなんだ」
以前、母にそう話したことがある。彼女はそれを覚えていたのだ。
あの会話の記憶が、急に重くのしかかる。
確かにその会話をした頃の山田は、無邪気にカレーが好きな子どもだった。
でも今は違う。中学生になり、ルーのブレンドや隠し味、煮込み時間にまで細かくこだわる“カレー道”の領域に足を踏み入れている。給食のカレーに対しても、平気で「不味い」「食えない」と言い放つ。
そんな現在の熱量を母に伝えたことは一度もなかった。
「お昼、もうすぐだからねー」
キッチンから聞こえてくる母の明るい声には一片の迷いもない。“山田くんが喜ぶ”と本気で思っている声だった。
母が自信たっぷりであればあるほど、僕はこのあと起こるかもしれない悲劇に思いを馳せ、気が気ではない。
カレーライスではなく、せめてカレー味の何かであってくれ。
ほどなくして、母が得意げに皿を運んできた。
湯気とともに立ちのぼる、あの香り。
僕の願いも虚しく、運ばれてきたのは我が家の定番カレーだった。
「山田くん、カレー好きなんでしょ? 急いで作ったから少し“シャバシャバ”かもしれないけど、いっぱい食べてね」
母は誇らしげに微笑んでいる。小さい頃から何度も見てきた優しい笑顔だ。
その笑顔が、僕の心を締め付ける。
山田は黙って皿をのぞき込んでいる。
僕は心の中で念じた。
山田よ、お前も中学生だ。少しは気を遣える男になっていてくれ。
「いただきます」
ひと口。カチャ、とスプーンが当たる音がやけに響く。
沈黙。
その沈黙の意味を、僕だけが理解している気がした。
我が家のカレーは、山田の“カレー”とは別の食べ物だ。
「……甘い」
山田の言葉はそこで止まった。
母は明るく返す。
「りんごとはちみつが入ってるカレーだからね。もっと辛い方が好き?」
母よ、辛さだけの問題ではないのだ。これ以上の会話は危険だ。
山田は二口目をゆっくり飲み込み、視線を落としたまま小さな声で言った。
「……これ、カレー?」
山田よ。お前の望むカレーとは違うかもしれないが、これだってカレーの範疇には入るだろう。頼むから、それ以上の言葉を口にしないでくれ。
僕はスプーンを強く握り、言った。
「“俺”にとっては、これがカレーで、この味が好きなんだ」
これだけは言わなくてはならない。そんな気持ちだった。
山田は、甘いカレーとともに、それ以降の言葉を飲み込んだ。
「おかわり、あるからね」
母はそう言って部屋を出て行く。その背中が、少し寂しそうに見えた。
二人で黙ってカレーを食べる。
子どもの頃から慣れ親しんだ味。食べれば食べるほど、母の愛情がにじみ出るやさしい味。
でも、この日はその甘さが、ひどく切なく感じられた。
(了)
この記事をレビュー付きでご紹介いただきました。
あまりれいこさん、ありがとうございました。
※この作品は、過去に掲載した「本格カレー好きの友人 vs. わが家の母のカレー」を改稿・再構成したものです。
元の作品はこちら↓
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