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「渡来人」は何を残したのか(後編)――弓月君と王仁、二つの〝残り方〟

大和朝廷の全国統一 三十二話  応神天皇④

阿智使主の後裔氏族、東漢氏やまとのあやうじの痕跡を辿った前編では、地名・遺跡・生活文化が重なる〝濃い現地性〟がありました。

しかし、弓月君と王仁を追うと、風景はまったく別の姿を見せます。

今回は、弓月君ゆづきのきみ秦氏はたうじ)、王仁わに西文氏かわちのふみうじ)について、伝承地を実際に辿りながら、現地に残るものと、後世に語られたものを見比べてみました。

 

弓月君――痕跡の薄さと、後世に再編された物語  秦氏


阿智使主が現地の痕跡から辿れる渡来人だとすれば、弓月君を辿るとき、風景は一変します。

『日本書紀』では、阿智使主の17あがたに対して、弓月君は120県(県は当時の行政・地域単位で、現代の県とは異なる)もの民を率いて来朝したと記されます。

大規模な集団ですが、阿智使主の場合のように、地名・遺跡・氏族伝承が重なり合う「核」になるような場所が、弓月君には見えないのです。

これほど大きな集団が、一地域にまとまって定着したのであれば、阿智使主のような「濃い現地性」がどこかに見えてもよいはずです。ところが、弓月君を辿る風景には、その核が見えません。

だとすると考えられるのは、到着した人々が最初から一か所にまとまって住んだのではなく、早い段階で各地に分散配置された可能性です。

 そのことを考える上でヒントになるのが、『日本書紀』雄略天皇紀です。15年条には、秦の民を臣連おみ むらじらに分散して、それぞれ思うままに使役させ、秦造はたのみやつこに委ねなかったこと、そして秦酒公はたのさけのきみがこれを憂えて天皇に仕えたところ、詔によって秦の民が集められ、秦酒公に与えられたと記されています。

公は百八十種勝ももあまりやそのすぐりを率いて庸調の絹やかとりを奉納し、朝廷に充積したので、姓を賜って「うづまさ」となったとあり、これが秦氏の本拠地京都・太秦うずまさの名の由来と伝えられます。そして続く16年条には、桑の栽培に適した国県に桑を植えさせ、秦の民を割り当て移して、庸調を献じさせたことも記されています。

また、『古語拾遺』の雄略天皇の段にも、秦氏の一族が分散して他氏族に寄りかかるかたちとなり、隷属に近いかたちで扱われていたが、秦酒公の請願により分散していた秦氏が集められて酒公に与えられた、という内容の記述があります。

これらの記述から見えてくるのは、弓月君が秦氏のルーツであるなら、応神朝に渡来した「大勢の民」は、その後、各地・各氏族に分散され使役されていたという構図です。

ここからは私の私見になりますが、

もしそうであるなら、弓月君にまつわる初期の痕跡が一地域にまとまって見えないのも、不思議ではありません。むしろ、雄略朝に秦酒公がそれらを再編成し、「秦氏」というまとまりを改めて立ち上げていったと見る方が自然ではないかと思います。

時代が下ると、推古朝には秦河勝はたのかわかつが台頭します。蘇我氏の庇護を受けていた東漢氏やまとのあやうじに対して、秦河勝は聖徳太子の周辺で存在感を示し、その後、奈良・平安時代を通じて秦氏は次第に力を蓄えていきます。

私は、秦氏は単なる技術者集団というよりも、各地に散らばった人・技術・物流・信仰を結びつける〝結節点〟を押さえることで力を持った、古代のプラットフォーム型集団のように見えます。

自ら政治の表舞台に立つというより、ネットワークそのものを握ることで影響力を持つ。そういうタイプの実業集団だったのではないでしょうか。

そうした巨大なネットワークを束ねるためには、しばしば「物語」が必要になります。  

その意味で、『新撰姓氏録』に見える「秦始皇帝の後裔」という系譜は、単なるハク付け以上の意味を持っていたのではないかと思います。組織が大きくなればなるほど、それを正当化し、内側をまとめるための祖先譚が必要になるからです。

そう考えると、「応神朝に120県を率いて渡来した弓月君」という物語は、後世の秦氏グループにとって極めて重要な象徴だったのかもしれません。

秦氏ゆかりの社寺は各地にあります。中でも、京都太秦の広隆寺、松尾大社、伏見稲荷大社などはよく知られています。ところが、その一方で、弓月君そのものを祀る神社は多くありません。

秦氏の氏寺 太秦の広隆寺

603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した、京都最古とされる寺。

楼門
由緒
本堂(上宮王院太子殿)
秦河勝らを祀る太秦殿


大酒神社

元々は、広隆寺に鎮座し、寺院を守護する神を祀っていましたが、明治の神仏分離により現在地に祠を移し、秦始皇帝、弓月王(弓月君)、秦酒公を祀ります。

鳥居
由緒書き


秦河勝らは広隆寺の太秦殿に祀られている一方で、始祖とされる弓月君は境外の小さな祠に、秦始皇帝らと共に祀られていて、この落差もまた示唆的です。

つまり、後世において重要だったのは、「弓月君」よりも、秦氏という巨大なネットワークを束ねる祖先像として、秦河勝の方が信仰の対象となったのではないでしょうか。


日ユ同祖論について


近年では、この秦氏像に「日ユ同祖論」が重ねられて語られることもあります。ユダヤの失われた十支族が日本に来た、という話です。

私は正直この説には、説得力を感じていません。理由は単純で、そこに居住・信仰の連続性が見えないからです。

もし弓月君の民がユダヤの民であり、何らかの共同体を保っていたのだとすれば、どこかにその痕跡が残っていてもよさそうです。

けれども、少なくとも私は、今までそうしたものに出会ったことがありません(後付けのものを除く)。

「この言葉が、この遺跡が、何かに似ている」といった断片的な類似だけでは、私が大事にしている「歴史は、川の流れのように」という感覚には合いません。

歴史に必要なのは、点ではなく流れだと考えていて、私には、その流れが見えないのです。

むしろ、応神天皇の時代にやってきたであろう大勢の人々は、その後各氏族に分散され、使役されたと伝わるわけです。そうした記録から考えると、仮に、弓月君がユダヤの民であったとしたら、遠く離れた日本へ渡ってきた彼らのその後は、決して幸福なものばかりではなかった、と言えるのではないでしょうか。

王仁――古代の人物を追っていたはずが、現代の風景に出会う  西文氏


王仁については、まず誤解があります。

 『日本書紀』には「王仁」と記されますが、『古事記』では「和邇吉師わにきし」と表記されます。この表記を古代氏族の和珥氏と同一視し、和珥氏そのものを渡来人だとする説を見かけますが、私はそれには全く賛成しません。

『古事記』の表記は音写であって、必ずしも意味を担うものではないからです。そこに意味を求めすぎるのは、無理があります。

東漢氏と比べると、王仁の後裔氏族は、それほど大きく栄えた形跡が見えません。古市古墳群のある羽曳野市古市には西琳寺があり、西文氏かわちのふみうじの氏寺と伝えられています。また、大阪府枚方市には王仁墓とされる場所があります。

西琳寺

かつてこの地で文字や記録を司った渡来系氏族西文氏の氏寺と伝えられます。

西琳寺(大阪府羽曳野市古市)
​本堂
 案内



伝王仁墓

この王仁墓も、もともとは「鬼塚」と呼ばれる民間信仰の塚だったとされます。江戸時代の儒学者・並河誠所なみかわせいしょが、「鬼」は「王仁」であるとみなし石碑を建立したことが、その由来のひとつとされています。現在は大阪府指定史跡として整備されていますが、その成立過程を見ると、そこに見えてくるのは古代そのものというより、むしろ後世の解釈の重なりです。

そして実際に王仁ゆかりの地を訪れると、そこには少し不思議な感覚があります。

王仁墳。この江戸時代の儒学者・並河誠所が建てた石碑が史跡の端緒
百済門
百済門案内
こちらは昭和の王仁墓
案内


古代の人物を辿っているはずなのに、目の前にあるのは、現代の記念碑や交流事業の記録だからです。

日の丸と韓国の国旗が並び、韓国語の碑文が刻まれ、遠い地の祭礼の写真が掲げられている。そこにあるのは、古代の痕跡そのものというより、古代という素材を用いて近代以降が築いた記念の風景です。

もちろん、それ自体を否定したいわけではありません。  

けれども、古代を辿っていたはずが、いつのまにか現代の外交や親善の物語の中に入っていく。この感覚は、やはり独特です。

私たちはそこで、王仁を見ているのでしょうか。  

それとも、王仁という鏡に映った「理想の隣国関係」を見せられているのでしょうか。


古代を追っていたはずが、気がつくと近代の願望や現代の関係性が、そこに重ねられている。王仁ゆかりの地には、そんな二重写しの感覚がありました。


王仁については、次々回の記事で、違った視点から書く予定です。



エピローグ


王仁公園だけでなく、先日訪れた飛鳥の向原寺こうげんじ前にも、新しい碑が建っていました。


こうした営みそのものを、私は否定したいのではありません。

 むしろ、『古事記』『日本書紀』の記述を肯定的に受け止め、その流れを追っている私からすると、わずかな記述からでも民族の誇り・文化を継承しようとする、その逞しさと情熱が羨ましく思えます。

こうしたことを見るたびに、では私たち自身は、自国の歴史書にどれほど真剣に向き合ってきただろうか、と考えさせられるのです。

ここ最近、繰り返し、

渡来人=技術者・文化人・エリートといった

どこか固定化されたイメージを少しずつ崩してきました。

阿智使主は、むしろ現地に濃い痕跡を残す生活者の集団として見えてきます。  

弓月君は、巨大なネットワークを束ねるために必要とされた象徴として見えてきます。  

王仁は、古代そのものというより、後世の記念化の中で語り直される存在として立ち現れてきます。

そして渡来人像を整理していくと、逆に浮かび上がってくるものがあります。  

それは、私がずっと抱えている疑問です。

なぜ日本人は、自国の歴史書をここまで遠ざけてしまうのだろうか、ということ。

応神天皇紀まで書き進めてきて、私は、日本人が『記紀』をどこか遠ざけてしまう、その理由が、この応神天皇の時代以降の記述にあるのではないかと感じています。次回、そのことについて書いてみようと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



おまけ


王仁墓の帰り、枚方市駅まで戻って、駅前のビオルネの地下にある「たなかや」さんでそばを食べました。

 地下にあります
かき揚げそば(600円)とかやくご飯のおにぎり(110円)  ※税込


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