神功皇后の決断 | 「全責任はわたしが負う」不退転の決意
神功皇后の伝承地を巡る旅 ⑪ 神功皇后の決断
今回は、神功皇后が「一国のリーダー」として覚悟を決め、人々がそれに動かされていく過程を、伝承地と共に辿ります。
ヘッダー画像 三石神社の銅像(※背景を加工しています)
皇后、新羅征討を決断する

唐津へ着いた神功皇后は、玉嶋里の小川で食事中、針を曲げて釣針を作り「新羅を求め、成就すれば魚が釣れるように」と祈って竿を上げると、珍しい細麟魚がかかりました。皇后が「めずらしい(めづら)」と仰ったので、人々はその地を梅豆羅(のちに訛って松浦)と名付けたと伝わります。
以来、現在(日本書紀編纂時)でも4月上旬に年魚をとる習慣が続いているが、不思議なことに男が釣っても獲れないという。
『日本書紀』は、この誓約によって新羅征討を決断したと記しますが、『古事記』ではこの逸話は新羅凱旋後のこと。両書の違いが現れる興味深いポイントです。
玉島神社
所在地 : 佐賀県唐津市浜玉町南山
御祭神 : 神功皇后(息長足姫命)
欽明天皇の御代に、大伴狭手彦(大伴金村の三男)が創建したと伝わります。






皇后、天神地祇を祀って神田を供える
裂田溝
神功皇后が神田(神の供御のための田)を定め、儺の河(那珂川)の水を引いて田を潤そうとした際、巨大な岩に阻まれました。皇后が武内宿禰に天神地祇を祀らせたところ、突如として雷鳴が轟き、岩が蹴り裂かれたことで無事に導水できたといいます。この故事から「裂田溝」と名付けられ、現在でも活用されている日本最古級の人工水路です。


裂田神社
所在地 : 福岡県那珂川市安徳
御祭神 : 神功皇后
神社の裏手では、硬い岩盤を避けるように水路が蛇行しています。「裂けた」のか「避けた」のかは定かでありません。また、神功皇后が造ったかどうかを証明することも出来ません。しかし、1300余年前に『日本書紀』編纂者が記した水路が現存するということ自体、すごくないですか!





皇后、退路を断つ決意をする
皇后は橿日浦に戻り、「もし霊験があれば、髪が自然に分かれて二つになれ」と祈り海で髪をすすぐと、髪は分けられ、髻(男子の髪型)になったといいます。
御島神社


神功皇后は自ら髪を結い上げ男装することで、皇后は不退転の決意を示しました。そして群臣に対して「失敗の責任はすべて私一人が負い、成功の功績はすべてお前たちのものとする」(『日本書紀』意訳)。
自らが盾となって全責任を引き受ける覚悟。現代でも理想のリーダー像と言えますね。
皇后兵士を集め、石を抱く
大己貴神社
所在地 : 福岡県朝倉郡筑前町弥永
主祭神 : 大己貴神
『日本書紀』によれば、大三輪社を建て、大己貴神を祀り、太刀や矛を奉納すると、多くの兵士が集まりました。
今は皆さんいろんな神社へ行かれると思いますが、古代においては、基本は自らの氏族の祖神の神を祀る*ものでした。大己貴神を祀って兵を集めたということは、出雲族の協力を取りつけたことを意味しているのかも知れません。
*日本古来の氏族(在来氏族)は「血縁的な祖神」(天孫降臨などの記紀神話に由来するものが多い)を祀るのに対し、古墳時代以降に渡来した氏族は祭祀のあり方が多様です(秦氏、東漢氏、鞍作氏などそれぞれに特徴があります。また別の機会に述べます)。





鎮懐石八幡宮
所在地 : 福岡県糸島市
主祭神 : 神功皇后、応神天皇、武内宿禰
『日本書紀』は、出征の際、臨月であった皇后は、「帰還した日にはここで生まれますように」と腰に石をはさまれました。その鎮懐石を祀るこの場所からは、今も玄界灘が見渡せます。








安曇磯良の協力(新羅征討の鍵)
『記紀』には記されませんが、室町時代の軍記物語『太平記』には、安曇磯良が登場します。
皇后が諸神を招いて戦勝祈願をした際、志賀島の海神である安曇磯良だけが、顔にアワビやカキがついていて醜いことを恥じ、なかなか姿を現しませんでした。そこで、住吉明神が舞台を設けて亀琴を奏で、神楽を舞って誘い出すと、ついに磯良は海中から現れ、皇后に「潮を操る霊力」を持つ干珠・満珠の二つの宝珠を献上した
という話です。
志賀海神社
所在地 : 福岡市東区志賀島
御祭神 : 綿津見三神
綿津見三神、志賀島を拠点とする安曇族は、潮流を熟知した外洋航海のプロフェッショナル。彼らの航海技術を得たことにより、遠征を成功に導く鍵となりました。







金印公園
志賀島は、金印が発見された地でもあります。



安曇磯良の容姿と「鯨面文身」
磯良の「顔に貝がついている」という描写は、当時の海民の風習である刺青(鯨面文身)を象徴していると考えられます。
『魏志倭人伝』には「倭人は、大人も子供も皆、顔や体に刺青を施している」と記されています。
各地で出土する弥生土器には顔面を描くものがあり、中には刺青をしたものがあります。ただし、地域差があり、畿内では刺青を施した人物画が描かれた土器は見つかっていません。

畿内の人間から見ると、「刺青は当たり前ではなかった」ようです。それが、「顔にアワビやカキがついていて醜いことを恥じ」という表現になったり、話は遡りますが、『古事記』に、初代・神武天皇が皇后となる媛蹈鞴五十鈴依媛命に求婚する際、使いの大久米命が目尻に刺青し、裂けたような鋭い目をしているのを見て不思議に思った姫が「なぜ?」と問うたことが記されています。媛蹈鞴五十鈴依媛は三島溝橛耳の娘・玉櫛媛の子ですから、上の画像の東奈良遺跡一帯を本拠とする一族です。風習の無い地域出身だったので刺青を不思議に思ったのではないでしょうか。
こうして各地の遺跡から発見されることと、『記紀』の記述を照らし合わせてみると、当時の社会や文化の境界線が見えてくるようにも思います。
独り言 : 「倭人は、大人も子供も皆、顔や体に刺青を施している」魏の使者はどこでその姿を見たのでしょうね 🤔
おわりに
唐津での占いに始まり、水路の開通、男装による決意、兵の集結、そして海民の協力。覚悟を決めたリーダー(神功皇后)のもとに、続々と人が集ってくるという流れは、非常に美しいストーリーラインですね。
次回予告
次回は壱岐の神功皇后伝承地、そして原の辻遺跡を訪ねます。伝説の裏側に隠された、当時の東アジア情勢についても推察してみたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ
資さんうどん
最近すかいらーくグループ傘下に入り、全国展開をはかっていますが、これまで九州へ行くと、必ずどこかで食べてきた「資さんうどん」。今回はじめて朝定食をいただきました。

【参考文献】
『日本書紀Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
國學院大學 神名データベース
ナレッジジャパン検索『日本国語大辞典』 『日本歴史地名大系』『古語大辞典』ほか。
『神功皇后の伝承を歩く上・下』綾杉るな 不知火書房
掲載神社の由緒・社伝
画像は全て筆者現地撮影
執筆にあたり、AI(Google Gemini )を活用してブレインストーミングを行いました。
