「渡来人」は何を残したのか(前編)――阿智使主を現地から読み直す
大和朝廷の全国統一 三十一話 応神天皇③
プロローグ
『日本書紀』応神天皇紀には、阿智使主・弓月君・王仁という渡来人が記されます。しかし現地を歩いてみると、その「残り方」は三者で大きく異なっていました。
地名・遺跡・氏族伝承が重なって濃く痕跡を残す者。後世の物語の中で輪郭を与えられたように見える者。古代そのものより、近代以降の顕彰の風景が前に出てくる者。
今回はその前編として、阿智使主を祖とする東漢氏をたどりながら、渡来人とは何者だったのか、そして古代はどのように後世へ残され、語り直されてきたのかを考えてみたいと思います。
なぜ「東漢氏」を〝やまとのあやうじ〟と読むのか
最初に読み方についてふれておきます。王仁を祖とする西文氏を引き合いに出すとわかりやすいです。
西文氏は「かわちのふみうじ」と読みます。つまり、西の「河内(かわち)」に対して、東の「やまと」という、それぞれの氏族が本拠とした立地の東西関係を表しています。
阿智使主――地名・遺跡・生活文化が重なる渡来人 東漢氏
オンドル住居が示すもの
阿智使主は、今回取り上げる三者の中でも、もっとも「現地に痕跡が残る渡来人」です。
奈良県明日香村の南東部から橿原市・高取町にかけて、徒歩でも回れるほどの、直線距離にすると数キロの範囲に、関連する遺跡や伝承地がまとまって存在します。文献だけを読んでいると見えにくいのですが、実際にそこを歩いてみると――単発の伝説ではなく、一つの生活圏としてその連続性を感じ取ることができます。
『日本書紀』応神天皇20年に、阿智使主とその子・都加使主が、17県の党類を率いて来朝したと記されています。さらに時代が下った『続日本紀』宝亀3年(772年)条には、子孫である坂上苅田麻呂(征夷大将軍・坂上田村麻呂の父)らが、「先祖の阿智使主が17県の人々を率いてやってきて、檜隈邑に住んだ」と奏上しています。
つまり阿智使主については、後世の氏族意識だけでなく、居住地の記憶までもが史料の中に残っているわけです。
しかも、それは文献の中だけでは終わりません。高取町市尾にある「市尾カンデ遺跡」の発掘調査では、渡来人の移住が4世紀末から5世紀初頭である可能性が指摘されています。
私は一貫して、応神天皇の時代を4世紀後半から5世紀初頭と考えていますので、もしそうであるなら、『日本書紀』の記述と考古資料が、少なくとも同じ時間帯を指していることになります。
さらに注目したいのは、この周辺で見つかっている定住遺構です。清水谷遺跡、森ヲチヲサ遺跡、観覚寺遺跡では、オンドルを伴う住居跡が発見されています。オンドルは朝鮮半島で古くから用いられてきた暖房設備で、日本列島にも例はありますが、5世紀以前に限って、これほど集中して見つかるのは、非常に興味深いです。
オンドルは家屋構造そのものに組み込む必要があります。ですので、一時的な滞在ではなく、生活単位での定住をうかがわせるものです。

そうしたことから、これは単なる個人の移動というよりも、一定の生活文化を共有した集団の移住を考えさせる材料ではないでしょうか。
墓制について
墓制は共同体の宗教観と強く結びつくものですので重要な視点です。
朝鮮半島には支石墓文化が広く見られます。しかし、飛鳥地域でそのような墓制の直接的な導入は確認しがたい。
もし渡来集団が支石墓のような墓制をそのまま持ち込んでいたなら、地域社会とのあいだに何らかの摩擦や、少なくとも考古学的に目立つ痕跡が残っていても不思議ではありません。しかし、この地ではそうした異質さは顕著に現れていません。
つまり、
東漢氏は自らの出自を保ちながらも、大和の秩序に参加するかたちでこの地に根を下ろした可能性を示しているように思うのです。
明日香には〝石舞台古墳〟があるじゃないか、とおっしゃる方がいるかもしれません。けれども、石舞台古墳は方墳を覆っていた土が失われて、石室が露出した姿であり、支石墓とは系統を異にします。




地名・遺跡・寺院跡に残る東漢氏の生活圏
明日香村や橿原市・高取町には、たしかに東漢氏が暮らしていた痕跡があります。
それは書物の中だけではありません。
遺構として、生活の跡として残っています。
於美阿志神社(檜隈寺跡)
明日香村檜前にあります。





沼山古墳と真弓鑵子塚古墳
二つの古墳に共通するのはドーム型天井の石室。渡来系氏族との関連が指摘されています。
沼山古墳
橿原市の白橿近隣公園にあります。


真弓鑵子塚古墳
明日香村村越地区、斉明天皇陵とされる牽牛子塚古墳のすぐ西にあります。私有地につき見学することはできません。


東漢氏の足跡から見えてきたこと
「渡来」という名の、国家マネジメント
『日本書紀』には、阿智使主は檜隈へ、弓月君の民は各地へ配置されていたように描かれます。
そこから見えてくるのは、政権が自らの変革に必要な技術や知識、さらには労働力を確保するために、それらを持つ集団を役割に応じて組み込んでいった姿です。
ここまで見てきたように、私にはそれらは、大和政権による、きわめて能動的で戦略的な人材登用であったと映ります。
彼らは単に「やって来た」のではなく、大和政権の秩序の中へ迎え入れられ、配置され、土地に根を下ろしていったのではないでしょうか。
かつて、騎馬民族によって王朝が成立したと唱えた学者もいました。けれども、少なくとも飛鳥周辺に残る東漢氏の痕跡を見るかぎり、古代国家がそのように形成されたことを示す痕跡は、私には見出すことができませんでした。
職住近接のリアリティ――「現場」に生きた人々


こうした「配置」の現実味は、実際に現地を歩くと、より生々しく感じられます。
先日、牽牛子塚古墳を訪れた際、すぐ近くにある東漢氏ゆかりとされる真弓鑵子塚古墳を見て、改めて実感しました。
千数百年前。
重機もなく、輸送手段が限られていた時代ですよ。
巨大な石を運び、土を盛り、古墳を築くという国家的土木事業を支える人々が、建設現場から遠く離れて暮らしていたとは、私には到底思えません。
実際、大和や河内の遺跡を辿っていくと、5世紀以降、渡来系集団の居住地と、古墳・寺院・工房遺跡は、深く関わり合うかたちで現れます。
それは、彼らが「技術者」としてだけではなく、政権の大規模事業を支える労働力として、生活共同体ごと現場の近くへ組み込まれていたことを示しているようにも見えます。
東漢氏にしても、飛鳥で独自の王国を築こうとした痕跡はありません。歩いて感じるのは、むしろ大和という巨大な秩序の中で、役割を担い、働き、暮らし、その土地へ根を下ろしていった人々の姿です。
現地を歩けば、こうした「職住近接」の感覚は、より実感しやすいかもしれません。
歴史の「主体性」を取り戻す
「渡来人が来たから、日本は変わった」、「渡来人が高度な技術を伝えたから、日本は発展した」。歴史は、しばしばそんなふうに語られます。これが私がずっと抱えている違和感です。
けれども、ここまでで書いてきたように、見えてきたのは、もう少し複雑な姿でした。
海を越えてきた人々を受け入れ、その技術や知識、さらには労働力までも、巨大な秩序の中へ組み込んでいく。そこには、大和政権側の強い主体性があったように思えます。
もし、応神朝の時代に、本当に大規模な渡来集団の移住があったのだとすれば、それを受け入れ、配置し、管理し、国家事業へ結びつけるだけの力が、すでに大和政権側に存在していたということでもあります。
歴史は、ただ流されるだけのものではありません。
その流れをどこへ導くのか。
当時の人々もまた、自らの意思で、その舵を握ろうとしていたのではないでしょうか。
あとがき
東漢氏は、文献・遺跡・地名や伝承が重なり合って残る、きわめて稀なケースです。
けれども、渡来人の「残り方」は、東漢氏のように痕跡が残る場合ばかりではありません。
ある者は、痕跡が薄れ、後世の物語の中で輪郭を与えられ、 ある者は、古代よりもむしろ近代の記念化の中で語り直されていきます。
次回は、その“別の残り方”をした弓月君と王仁について見ていきたいと思います。
おしらせ
飛鳥の土地を歩いていると、歴史は書物の外にも様々に残っているのだと感じます。そんな土地の記憶は、小説でも描きました。

『飛鳥の風の人』第五話で書いた、奈良県立万葉文化館内のカフェ Curryon の野菜カレー。
Curry(カレー)とCarry on(続ける・つなぐ)とかけ合わせた店の名前だそうです。おばあさんの味を受け継いでいきたいというオーナーの想いがつまっています。
さて、このカレーですが、物語の最後にもう一度、重要な意味を持つ言葉として登場します。
5月30日まで、発売記念でKindle電子版を税込300円でお求めいただけますので、ぜひご検討ください。
6月1日以降、通常価格500円となります。
また、5月30日にはペーパーバックを発売します。こちらは税込1,650円の販売です。手元に置いておきたい一冊として、飛鳥の散策に持って行きたい一冊として、ぜひご検討ください。
※5/24追記 発売日を6/5→5/30に変更
次回の更新予定
5月30日(土)
今回の続き、「渡来人」は何を残したか の後編、弓月君を祖とする秦氏と王仁についてお届けします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
