海を睨む白い城塞――五色塚古墳と、四方に打たれた「大和の杭」
神功皇后の伝承地を巡る ⑱ 海を睨む白い城塞――五色塚古墳と、四方に打たれた「大和の杭」
プロローグ:海を睨む異形の城塞

神戸市垂水区、明石海峡を眼下に見下ろす高台に、その古墳は突如として姿を現します。全長194メートル。三段に築かれた墳丘は全面を葺石に覆われ、頂には円筒埴輪が整然と並ぶ。その姿は、単なる「墓」というよりは、海からの侵入を鎮め、あるいは境界を明確に示す「城塞」のようです。


これが、神功皇后の物語において忍熊王が「仲哀天皇の偽陵」として築いたとされる五色塚古墳です。
私は前回、廣田・生田・長田の三社を巡る中で、皇后がこの地の霊威を自陣に引き入れたプロセスを書きました。しかし、五色塚という巨大な「点」は、単なる物語を超え、日本列島が一つにまとまっていくダイナミックな「統合」の姿を浮かび上がらせます。
第一章:佐紀陵山という「共有された設計図」
五色塚古墳を読み解く鍵は、その「形」と「埴輪」にあります。考古学的な知見によれば、この古墳は大和の佐紀陵山古墳(奈良市)と極めて高い相似関係にあり、同形の埴輪が出土する古墳です。
ここで注目したいのは、佐紀陵山古墳の歴史的背景です。現在は垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命の陵とされていますが、実は江戸幕府による文久の修陵までは、こちらは「神功皇后陵」であるとされてきました。つまり、五色塚に採用された「佐紀陵山型」という設計図は、かつて神功皇后その人と固く結びつけられていた象徴的な形であるとも考えられるわけです。
巨大で精密な設計を共有するには、中央から派遣された高度な測量術を持つ技師集団と、途方もない人員を動員する強大な権力、そして何より「同じ形を築くことへの共通の意志」が不可欠です。文字による契約書や図面がない時代、大和が許可し、技術者を派遣しなせれば同じ形の巨大な前方後円墳を築くことはできないわけで、いわば大和の権威の象徴であったとも言えます。


そして、この「佐紀陵山型」の設計図は、五色塚のみならず、大和が自らの支配領域を可視化するための“杭”として、四方に打ち込まれていくのです。
なお、これらの古墳を一つの政治的ネットワークとして解釈することについては、研究者の間でもさまざまな議論がありますので、あくまで私の個人的な解釈としてお読みください。
第二章:大和を守護する「四方の門」
私が実際に各地を歩き、その目で確かめてきた相似形古墳のネットワークを見ていきましょう。これらは大和から見て東西南北の要所に打たれた、大和の直轄支配地域の境界を示す「杭」のような存在です。
1. 北の門:網野銚子山古墳(丹後)
日本海を望む丹後半島、かつて彦坐王の王子・丹波道主命が治めた地に立つ墳丘長201メートルの巨大古墳です。ここは日本海交易の玄関口。この地に佐紀と同じ設計図が持ち込まれたことは、海の彼方からの力を受け止める標でした。





2. 中の門:膳所茶臼山古墳(近江)
膳所茶臼山古墳は琵琶湖の南端にあります。日本海から大和へ物資を運ぶ場合、琵琶湖を船で南下し、そのまま瀬田川(宇治川)を下って、当時あった小椋池へ。小椋池から木津川を遡って大和に入ったと考えられます。小椋池から淀川を下れば大阪湾にもでることができます。琵琶湖は日本一広い湖ですが、流れ出る自然の河川は瀬田川一本しかありません。ここに大和の威勢力を示すことは、明石海峡を睨む五色塚と全く同じ理由だと言えます。





3. 東の門:御墓山古墳(伊賀)
伊賀国一宮の 敢国神社があり、孝元天皇の皇子で四道将軍の大彦命を祀ります。そして大彦命を祖とする阿閉(阿倍)氏の伝承が数多く残っています。また、『日本書紀』垂仁天皇紀では、大彦命の皇子・武渟川別命が五大夫の一人に名を連ね、天照大神が伊勢に鎮まる様子を描く『倭姫命世紀』では、阿佐加で悪神を退治したことが記されています。
いずれにしても、東国へ続く伊賀越えのルートにあり、大和の東の結界をなしていたと考えられます。



4. 南の門:摩湯山古墳(和泉・河内)
前回記事で、生田神社の神主と記される海上五十狭茅について詳しく書きませんでしたが、垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅天皇」で、 菟砥の川上宮(現在の大阪府阪南市)で剣一千口をつくり、石上神宮に納めた五十瓊敷命は垂仁天皇と日葉酢媛の皇子。その系譜につながる人物ではないかと考えています。そしてそれら系譜の人物の墓が、この摩湯山古墳ではないかと考えています。



「佐紀陵山型」古墳の配置を見る

これらの古墳がいずれもほぼ同じ時期に同じ設計図で築かれたとするなら、それは大和が「一つの意思」のもとに、支配領域の全方位の守護のために築いたことを物語っていると考えています。
そして、古墳が築造された時代が、私が神功皇后・応神天皇の時代と想定する4世紀後半〜5世紀初頭にかけてのことなのです。
第三章:西の門・五色塚が封じたもの
五色塚古墳も、築造年を考えると、忍熊王が偽陵を造った位置に、改めて現在の形の古墳を築いたと考えます。
では、なぜ、明石海峡を睨むこの地に「城塞」が必要だったのか。それはここが大和の直轄支配地域における「西の鳥居」であり、聖域への入口だったからです。五色塚は、物理的な境界と霊的な境界が重ね書きされた、古代大和の“二重の門”であったと考えます。
物理的な「検問」と「威圧」
瀬戸内海から大和へ向かう船は、必ず明石海峡という難所を通ります。海面が今より高く、古墳のすぐ下まで波が打ち寄せていた当時、航行する人々は仰ぎ見るような巨大な「白い山(葺石の墳丘)」と、頂に整然と並ぶ無数の埴輪の列に圧倒されたはずです。『記紀』は神功皇后以降、海外との活発な交流を描きます。五色塚は、そうした九州や大陸からの来訪者に対し、「ここから先は大和の聖域である」と突きつける強烈な拒絶の意志であり、同時に圧倒的な国力の誇示でもありました。
霊的な「鎮め」
『日本書紀』において、忍熊王がこの地を「偽陵」として築いたという伝承は、逆説的にこの地が「死と生を分かつ境界」であったことを示唆しているとも言えます。海を渡る死者の霊や、外海から入り込もうとする災厄を、この巨大な「杭」によって繋ぎ止め、大和の平穏を守る。五色塚は、物理的な城塞であると同時に、大和の安寧を担保する精神的なダムのような役割を果たしていたのではないでしょうか。
むすび
「佐紀陵山型」古墳の分布については、菱田哲郎著『古代日本国家形成の考古学』 (京都大学学術出版会刊)に記される下垣仁志氏の説を参考にさせていただきました。解釈については私独自の見解です。著者にご迷惑にならないよう一言付け加えておきます。
さて、「神功皇后の伝承地を巡るシリーズ」もいよいよ佳境に入り、この後「大和朝廷の全国統一シリーズ」、「倭姫命物語シリーズ」、それぞれが合流し、一本の川の流れになっていきます。「空白の四世紀」と言われる時代に、いったい何があったのか、そして「倭姫命物語」で書き残している、豊受大神とはどのようにつながっていくのか、ぜひご期待ください!
「歴史は、川の流れのように」です😊
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ
膳所茶臼山古墳へ行った時に買って帰りました☺️

【参考文献】
『日本書紀Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
國學院大學 神名データベース
ナレッジジャパン検索『日本国語大辞典』 『日本歴史地名大系』『古語大辞典』ほか。
『古代日本国家形成の考古学』 菱田哲郎 京大学術出版会
『五色塚古墳のあゆみ』神戸市文化スポーツ局文化財課
画像は全て筆者現地撮影
執筆にあたり、AI(Gemini 、ChatGPT、Copilot)を活用してブレインストーミングを行いました。
