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重心移動という考え

神功皇后の伝承地を巡る ⑲  重心移動という考え方
ヘッダー画像 : 大和葛城山



プロローグ

 いつの時代も権力をめぐる争いは絶えません。争い——それは人間の性なのかもしれません。

 前回の記事では、大和が四方の要地に「佐紀陵山型古墳」を配置し、支配領域を可視化していた可能性について述べました。
今回はその背景にある政治構造の変化を考えてみたいと思います。

今回は、『日本書紀』に描かれる神功皇后と忍熊王の対立を、単なる皇位継承争いではなく、大和政権内部で起きた〝重心移動〟として読み解いてみます。

私のキャッチフレーズは「歴史は、川の流れのように」ですから、この記事を、川の下流から上流へ遡るように、結果 → 記録 → 事件 → 背景という順番で読み解いていきます。

なお、私は神功皇后と応神天皇の時代を、4世紀後半から5世紀初頭と考えています。以下の話は、その年代観を前提に進めます。

下流域 : 考古学から見える勢力の変化


 まずは古墳が語る〝結果〟としての歴史の変化から見てみましょう。4世紀後半から5世紀にかけて、列島の勢力図に大きな変化が起きていることがわかります。

奈良盆地の古墳群

奈良盆地北部には佐紀盾列古墳群さきたてなみこふんぐんがあります。以下に代表的な古墳をいくつか挙げます。

五社神ごさし古墳(神功皇后陵治定)
・佐紀石塚山古墳(成務天皇陵治定)
・佐紀陵山みささぎやま古墳(垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵治定)

などが知られています。

五社神古墳(神功皇后陵治定)
佐紀石塚山古墳(成務天皇陵治定)
佐紀陵山古墳(垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵治定)

 佐紀盾列古墳群では、4世紀後半から5世紀にかけて、多くの巨大古墳が築かれました。大王墓もこの地域に集中しています。


しかしその後、奈良盆地の古墳群の築造は、西部の馬見丘陵へと移っていきます。いわゆる馬見古墳群です。

公園案内図
国の特別史跡  巣山古墳
復元された ナガレ山古墳
葛城市歴史博物館展示パネル


古墳の築造地が移るということは、その背後にある政治的・社会的な〝流れ〟が変わった証拠です。


丹後の巨大古墳

 一方、日本海側の丹後地方では4世紀の100年間に、100mを超える大型前方後円墳が6基も連続して築かれました。巨大古墳の建設には、長い年月と延べ何十万人もの労働力が必要です。それを短期間に連続して築けるということは、この地に強大な勢力が存在したことを意味します。

丹後市立古代の里資料館展示パネル
蛭子山古墳1号墳
網野銚子山古墳
神明山古墳

ところが5世紀に入ると大型古墳が突然つくられなくなります。この急激な変化は、丹後の政治的地位が、大きく変化したことを示唆しています。

そして、この丹後の変化とほぼ同時期に、逆に瀬戸内の吉備が急速に台頭してくるのです。


吉備の巨大古墳


 その頃、瀬戸内海の吉備では巨大古墳が次々と築かれます。その代表が造山つくりやま古墳で、全国第4位の規模を誇ります。

造山古墳
案内図



つまりこの時期、日本海側の拠点だった丹後に代わり、瀬戸内海の吉備が新たな要衝として浮上してきたのです。


丹後の衰退→吉備の台頭


古墳の変化は、交易ルートの変化と政治勢力の変動を示しています。

ここまでが〝川下〟、つまり目に見える結果としての歴史の変化です。では、この変化の中流域では何があったのでしょう。さらに遡っていきましょう。

中流域① :年代の想定と 『記紀』記述のゆらぎ


私の想定する年紀

垂仁天皇 3世紀中頃-3世紀末頃
景行天皇 3世紀末頃-4世紀前半 
成務天皇 4世紀前半-4世紀中頃
仲哀天皇 4世紀中頃
神功皇后 4世紀後半
応神天皇 4世紀後半-5世紀初頭

この年紀に当てはめると、垂仁天皇の頃に丹後の隆盛が始まります。垂仁天皇の皇后は丹後から迎えた丹波道主の娘・日葉酢媛命です。

一方、大和朝廷は、神功皇后の新羅征討のあと、宗像・沖ノ島―瀬戸内海ルートを確立。朝鮮半島との交易を独占し、ルートの途中にある吉備が繁栄します。

『記紀』記述のゆらぎ

 文献史料を見てみます。『日本書紀』は全30巻で、基本的には天皇一代に一巻という構成です。ところが、この時代の記述は非常に特殊です。

例えば、第十三代成務天皇は独立した巻がない。十四代仲哀天皇紀の多くは神功皇后の物語で、加えて神功皇后には巻九の一巻が割かれている。天皇ではない人物に一巻充てられるのは極めて異例です。

つまり編纂者にとっても、この時代は整理が難しかったのでしょう。


中流域② : 台頭する葛城氏、姿を消す尾張氏


手前:大和葛城山、奥:金剛山(役行者が転法輪寺を開くまでは「高尾張山」と言われ、尾張氏という名はそこからきているとも言われています)


 この頃、中央政界で急速に台頭してくるのが葛城氏です。葛城地方は奈良盆地南西部、金剛・葛城山の山麓に広がる地域です。この地域には、古くは鴨族、のちに尾張系勢力が入り、さらに葛城氏へと主導権が移っていったと考えられています。

鴨族→尾張系勢力→葛城氏

※葛城系氏族(葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏)


 この「主導権の移動」こそが、大和政権内の重心が移っていく兆しだったのかも知れません。大きな役割を果たしてきた尾張氏は、次第に中央政界から姿を消していきます。

尾張氏は天火明命あめのほあかりのみことを祖とする氏族で、歴代天皇に后妃を輩出していました。しかし、応神天皇以降、中央政界での影が急速に薄くなります。代わって台頭してくるのが和珥氏です。

中流域③ : 和珥氏は生き残る


 和珥氏は天足彦国押人命あめたらしひこくにおしひとのみことを祖とする皇別氏族です。元々の本拠は奈良盆地東北部、現在の天理市櫟本周辺と考えられます。この地域にある東大寺山古墳からは、有名な中平年銘鉄刀が出土しています。

葛城市歴史博物館展示パネル 和珥氏エリアの南が天理市櫟本周辺で物部氏と近接。北側が佐紀盾列古墳群
2024年 なら歴史芸術文化村 特別展で撮影
同上



天足彦国押人命は、第五代孝昭天皇と尾張氏のむすめ世襲足媛よそたらしひめの皇子ですから、『新撰姓氏録』による和珥氏の分類は皇別氏族(天皇家から臣籍降下した氏族)で、尾張氏とも母系でつながっています。和珥氏の一族は、のちに春日氏や、柿本人麻呂を輩出した柿本氏や、小野妹子で有名な小野氏などへ分かれていきます。


つまり、尾張氏が後退し、葛城氏と和珥氏が前面に出てくるという、氏族構造の変化がこの時期に起きています。


上流域① : 忍熊王の反乱


 こうした勢力変化の中で起きた事件が忍熊王おしくまのみこの反乱です。一般には皇位継承争いと説明されることが多いのですが、私は忍熊王を単なる〝反逆者〟ではなく、当時の勢力構造の中で理解する必要があると思っています。

円墳。古老の話によると忍熊王の墓として往昔から奉斎してきたという
奈良市押熊町 「押熊」という地名は(確認できるものとしては)鎌倉時代からあるようで、「熊」は「くま」、奈良盆地の北のすみという意味だそうです。
石宝殿
 つまり、押熊王は奈良盆地北部を地盤としていたと考えられます。



 少し遡りますが、日本武尊やまとたけるのみことの物語も、この時代の政治状況と無関係ではないと考えています。東征のあと、尾張氏の宮簀媛みやずひめの元に草薙剣を預けて伊吹へ向かい亡くなりました。景行天皇の跡を継いだ成務天皇の母は尾張氏の出身です。成務天皇には子供がいなかったので、異母兄の日本武尊の王子である仲哀天皇が即位します。が、仲哀天皇も早世し、そして仲哀天皇の皇子・忍熊王のこの一件です。

系譜を辿っていくと、背後に複雑な政治関係があった可能性が高いと考えています。

仲哀天皇が亡くなった時に同席し、忍熊王を倒して、幼い応神天皇の補佐についたのが、葛城氏の祖とされる武内宿禰です。


源流 : 王朝交代ではなく「重心移動」


 この時代については「河内王朝説」や「三王朝交替説」なども唱えられてきました。しかし私には、王朝(天皇)が入れ替わったとは思えません。

私の言い方だと、奈良盆地に源を発する大和川が、亀の瀬(大阪と奈良の境)を越えた途端に「淀川」と名前を変えることはありえない。


4世紀の政権構造も同じだと考えています。

王朝が交代したのではなく、大和政権内での重心移動と考える方が自然ではないでしょうか。

ここで言う「重心移動」とは、王権そのものが交代したのではなく、同一政権内で主導権を握る勢力が移り変わることを指します。


エピローグ


 後の時代には蘇我氏と物部氏の対立がありました。天皇が暗殺される事件もおきます(崇峻天皇)。しかし、その場合も蘇我馬子が帝位につくことはありませんでした。崇峻天皇の異母姉である推古天皇が女性ではじめて即位します。千数百年ずっとそうでした。藤原氏も、源頼朝も、足利尊氏も、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も。

どれほどの権力闘争があっても、誰も自ら天皇の位につくことはありませんでした。これは世界史の中でも非常に珍しい政治構造です。

この4世紀の時代にも大和政権内部には激しい権力争いがあったのだろうと想像します。忍熊王の反乱も、そうした大きな流れの中で起きた出来事として見ることができるのではないでしょうか。

歴史は「断絶」ではなく、「連続」の中で形を変えていく。

私のキャッチフレーズは「歴史は、川の流れのように。」
川は途切れません。氾濫することはあっても、流れそのものが消えるわけではありません。

 今回のことを深く理解するために、次回、この時代の氏族の栄枯盛衰を別角度から考えてみたいと思います。古代大和政権の骨格が見えてくると思いますので、ぜひご期待ください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


おまけ

 奈良市には「押熊町」以外に、「神功じんぐう」という町名があり、隣接しています。「神功」は、もちろん神功皇后にちなんだ町名です。もっとも1977年に平城ニュータウン開発に伴って新設された地名ですけどね。名づけた人は歴史が好きな人だったのでしょうね!

押熊王の旧蹟を訪ねたあと、神功にあるお店でランチにしました☺️

アルペンローゼさん。チキンカツサンドだったかな? 美味しかったです。



【参考文献】

『日本書紀 Ⅰ 』井上光貞監訳 中公クラシックス
『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫
『新版古事記 』中村啓信 角川ソフィア文庫
『先代旧事本紀 現代語訳』 安本美典・志村裕子 批評社
『特選神名牒』上巻・下巻 八幡書店
國學院大學 神名データベース
ナレッジジャパン検索『日本国語大辞典』 『日本歴史地名大系』『古語大辞典』ほか。
掲載神社の由緒・社伝
画像は全て筆者現地撮影

執筆にあたり、AI(Gemini 、ChatGPT、Copilot)を活用してブレインストーミングを行いました。

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