「ルックバック」:他人の為に頑張るか?自分の為に頑張るか?
ルックバックを見た。その後に、noteで「ルックバック」の考察記事を探してみたら色々と書かれてあったので、結構見た。
個人的に良いなと思ったのは、この記事☟
ルックバックのシーンにはジョーカーの映画みたいに空想と現実が入り混じっていることを詳細に解説されていて、分かりやすかった。
ちょうど、モノ作りの原点について考えていたから、参考にしたいなと思ってこの映画を見てみた。
個人的にはこの映画(と言っても、時間は何と1時間も無い!なのに、内容が厚くて、感動できる構成になっている!)を見て、感動はした。
一番最初に目が付いたのは、”藤野”というキャラクターが小学生の頃に絵を描いている理由が、「絵が好き!」みたいな感じではなくて、「他人から認められたい!」みたいなことが主だったという点。
だからこそ、自分よりも絵が上手い”京本”が登場すると、藤野は絵を描くのを諦める。
個人的にはその展開の時に、「ほら、だからやっぱり、他人を軸にして行動するのは良くないんだよ。自分を軸にして行動しなきゃ。」と思った。
で、藤野は京本が自分の絵のファンであること知り、再び絵を描き始める。何というか、藤野の絵描きは京本に左右されているのである。別にそれはそれとして一つの方法だとは思うけど、自分としては「そうやって他人に振り回されるよりも、自分で決めていきたい」という思いがあるので、少しだけ訝しく見ていた節がある。
ただこの映画の中にはいくつもの名シーンが出てくるので、それはとても素敵だった。

大好きなジーンケリーと同じ!
個人的に大好きなシーンはコレ☟


自分は「目」が好きなんだと思う。「やってやるぞ‼」みたいな気迫溢れる、覚悟が決まっている目が好き。



で、ルックバックは最終的には、藤野が京本の為に漫画を描いていたことを思い出す。それは京本の質問がきっかけである。「描くのは辛いし、地味な作業。描くよりも読む方が絶対に良いよ」と言う藤野に対する、京本の素朴な疑問☟

映画のポスターに「描き続ける」とあり、それは「京本の為に」ということであると思う。

この映画を見ていて思い出したのは、あらゐけいいちの「絵描きうた」である。絵を描くのは「みんなの笑顔の為」ということを表現している。
「誰かの為に描く」というストーリーは、それはそれで素敵んだとは思うけども、個人的な意見としては、「その行為自体が好きな人の物語を見たかったな…」という思いがある。
やっぱり、他人を基準にすると、その人達からの評価によって、自分がブレてしまうのである。自分はそれが嫌なのである。他人から良い評価を貰おうが、悪い評価を貰おうが、それに左右されずに、一貫として同クオリティーのモノを生み出し続ける。それが個人的には大事な価値観である。
自分は学生の時に陸上の長距離をやっていた。長距離走なんて他人と競い合う競技だから、どうしても他人を軸に置いてしまうことが多い。でも、自分が心がけていたのは、「他人に勝つ」ことではなくて、「自分に勝つ」ことである。
それは一種の「逃げ」ではあると思う。他人に勝つほど自分は速くなかったからこそ、相手ではなく「自分との勝負」に逃げたという部分はあると思う。自分がもし県大会で優勝するくらいの実力があれば、レース毎に相手を気にして走っていただろう。ただ自分はそんな選手じゃなかったので、自分との勝負にこだわっていた。
不思議なもので、自分に勝った時というのは、必ず好タイムが出るのである。苦しくて何度も「止まろうよ」と、もう一人の弱い自分が声をかけてくるけど、それに耳を傾けず、自分が繰り出す一歩一歩に集中して、歩数を重ねていくと、最終的には満足のいくレースが出来たし、結果として良いタイムが付いてきた。
上を目指すのはキリが無いし、他人という、自分でコントロールできない存在に、自分を乱されるのが嫌だなと思っている。自分で自分はコントロールできるからこそ、他人ではなくて、自分に意識が向くのだと思う。
仏教のプレゼンも、自分が発表したいから発表するのである。クラスのみんなに仏教を伝えることが出来たら、それはそれで良いけど、本質はそこではない。クラスのみんなに仏教が伝わらなかったとしても、自分は「プレゼンが出来た」という事実だけで満足である。伝わるか、伝わらないかは相手の問題であり、自分が出来ることはプレゼンをすることだけである。だからこそ、相手の理解を基準にするのではなくて、自分のプレゼンの出来不出来を基準にする。
そして、みんなにプレゼンの内容をどうのこうのと評価されようが、自分にとって大切なのは、「自分が満足いくプレゼンが出来たか」である。その時の自分の基準となるのは、過去に3分のプレゼンをした自分である。この過去の自分よりも良いプレゼンが出来れば、過去の自分よりも成長していれば、自分は己との勝負に勝ったということで満足である。
そして、必然的に、己との勝負に勝てば、クラスのみんなに仏教を上手く伝えることが出来たことになると信じている。
他人が喜ぶだろうと思ってやった行為が、他人にとっては全然喜ばしいことではなかったみたいなことはよくある。だから、それは自分にとって不確定要素なのである。ならば、それに固執するよりも、自分の喜ぶことを知っているのは自分自身なのだから、自分のやりたいことをやるという選択肢を自分は取る。それは確定要素なので。
その確定要素をやったことで、他人が喜んでくれるのが一番嬉しいことである。ただ、もし他人が喜ばなくても、自分一人は確実に喜んでくれる。だから、取り敢えずは、自分を軸にして行動しようと考える。
「誰かの為に頑張る」人もいると思うけど、「自分の為に頑張る」人もいると思う。自分は後者である。
でもそれは、JUJUの「やさしさで溢れるように」の歌詞みたいに、
自分の為に頑張ることが、ひいては、他人の為になると信じてるからである。
自分が輝かなければ相手を輝かせることは出来ない。だからこそ、最初から他人基準でやるのではなくて、最初に自分基準でやる。
自分の過去の経験で、「相手を楽しませるには、まず自分が楽しまないといけない」と感じたし、幼児教育の父である倉橋惣三も同じような言葉を残している☟
他人の為に頑張るのか、自分の為に頑張るのか、こういうことをルックバックの感想として書いている人を見かけなかったので、書いてみた。
まぁ、なんにせよ、素敵な映画だったし、1時間にも満たないのに重厚な作品なので、個人的にはかなりお勧めです!
イチロー「現役時代、選手の時に、自分のためにプレーをしていましたか、それともチームのためにプレーをしていましたか」(https://d-lab.management/?p=8551)王監督「オレは自分のためだよ。だって、自分のためにやっているからこそ、それがチームのためになるんであって、チームのために、なんていうヤツは言い訳にするからね。オレは監督としても、自分のためにやっている人が結果的にはチームのためになると思うね。自分のためにやれる人がね、一番、自分に厳しいですよ。何々のためにとか言う人は、うまくいかなないときの言い訳がうまれてきちゃうものだからな」
一番勝ってないマリナーズから一番勝っているヤンキースへと移籍(https://d-lab.management/?p=8869)。10年連続200本安打、262安打というシーズン最多安打記録という結果を出しながらも、「試合前に一人黙々と入念な準備に取り組む姿をプロ意識の高さでなく、リーダーシップの欠如と批判」されるのであれば、『20代前半の選手が多いこのチームの未来に、来年以降僕がいるべきではないのではないか。また、僕自身環境を変えて刺激を求めたい、という強い思いが芽生え』るのは当然。『ある時までは自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見てくれている人も喜んでくれるかなと思っていたんですけど、ニューヨークに行った後くらいからですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんですね。その点でファンの存在なくしては自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思います』というのは、”ニューヨークに行った後くらいから”というのがポイントかなと思う。つまり、マリナーズで同じことを感じることは出来なかったということ。記録は個人で作れるけど、喜びは他人と一緒に作るモノ。その他人と自分が同じ”方向性”を持っていないと、共同作業は成り立たない。
