見出し画像

「情熱を持って前進‼」という生き様


早乙女さんは、料理を作って、お客さんに対して売る。
その料理は”天ぷら職人”として作られる。

自分は、教育を作って、子ども達に対して売る。
その教育は”森の幼稚園の先生”として作られる。

世の中にはごまんと天ぷら職人がいるし、
森の幼稚園の先生だって同じである。

その中で早乙女さんは半世紀以上も天ぷら職人として仕事をされて、
”天ぷらの神様”と呼ばれるまでに至った。

自分としても出来るだけ長い期間、森の幼稚園の先生として働き、
出来ればちゃんとした地位を築きたいと思う。
森の幼稚園を愛しているのだから、そう思うのは当然である。


料理を作る、教育を作る、そういう「モノ作り」において、
”レシピ通り”という表面的なところからではなく、
もっと奥深いところから根本をとらえなければならない。

教育でいうところの”レシピ通り”っていうのは例えば、
「子どもは褒めろ」とか「こういう言葉かけをしよう」
みたいなものだと思う。

もちろん、それらは大切な”技術”だと思うけど、
それらは言ってみれば”誰でも出来る”ことである。

料理の本というとさ、ほとんど作り方になるでしょう?それはカラオケみたいなものでね、文字が出てくれば歌えるってもんで、モノを作るときにどう積み上げればいいのかってことね。・・・。とにかく料理の本ではいままで一つもない。何を何グラムとか、どこの魚がいいとか、そういう話ばっかりで。・・・。モノ作りの根本をとらえないで、あるいは基本的なことをなおざりにして、ただレシピだけで料理を紹介している。だから、そんな浅いところで料理は作っていないんだぞ、もっと奥深いところから積み上げてモノというのは作らなきゃいけないんだぞ、ってことを言いたかったの。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 p135~136


世界に1件の店をやりたい早乙女さんだからこそ、
誰でも出来ることをやっているだけでは不十分だと気付き、
モノ作りの基本をより大事にして、仕事に向き合ってきたのだと思う。

第161回 早乙女哲哉(2012年6月11日放送)


自分も教育者としては、子ども達から、
「森の幼稚園に数名いる先生の一人」みたいな感じではなくて、
しっかり一人の先生として認識してもらいたいという思いはある。
その子にとっての先生になりたいわけで、
その他大勢を構成する先生の内の一人にとどまりたくない。

人間には相性だったり、好みがあったりするから、
子ども達全員がそう思うのは無理かもしれないけど、
せめて誰か一人だけには、そういう気持ちを持ってほしいなと思っている。


早乙女さんがモノ作りの根本として
大切されてきたことを著書から抜き出すと、

感性

になると思う。

ーーー「料理王国」での連載のとき、話のテーマとして「モノ作りとはなんぞや?」というのが大きくありましたけど、そこらへんをもう一度みかわさんから話してくれますか?

うん、ま、私がとくに言いたかったのは作家的な感性ってことね。私たちは職人なんだけど、その延長線上で自分の感性をフルに使ってモノを作りたいという意識が芽生えてきた人たちは、そこへ行くと思うんだよね。要するに職人で終わっちゃいけない…って、言葉で言うとそういうことになるけどもね、私はね、職人も作家も同じものだと思ってるから。一緒のものなんだけど、わかりやすく言えばだよ、職人から一歩踏み出して作家になっていくという意識だよね。

ーーー”職人”という言葉をややネガティブな意味に使った場合、自分のやっていることを深く考えずに、昔ながらの方法をそのまま続けているということになりますね。

そうそう。ま、それはそれでいいんだけどね。

ーーーええ、もちろん。ただ、自らの意識でモノを作りだした場合、たんに伝統を踏んでいる”職人”とは違うわけですからね。

そうだね。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 p128~129


職人とはつまり技術を極めた人である。
誰でも年月を重ねれば、それなりの技術は習得できる。

ただ、技術を習得しても、
その後が問題となってくる。

その先を行き詰らず、
右往左往せず、
軽やかに進んでいく為に、
それまでに養ってきた己の感性を活用して、
”原点”を捉える続けることが大切になる。

頑張ってやっていけば技術とか知識というのは自然と身につく。要するに修行で身につく。で、問題なのはそこから先なんだね。・・・。技術なんてものは身について当たり前のものだから、その先がまだあるってことですよ。・・・。だんだん陳腐な料理を作るようになっちゃうんだ。うん、例えば目先だけ変えようとかね。そっちへどんどん行くんだね。だいたいそうなってくるよ、十年とか十五年経つと。創作料理みたいなものに走るとかさ。・・・。なんていうのかな、やっぱし自分がアーティストだという意識を持っていないと、要するに技術さえ身につけばいいと思っていると、誰かの物真似をしてそこにたどり着いたのはいいけど、その先わからなくなっちゃうんだね。で、そうやって行き詰ったときには、あらゆるモノをあらゆる角度から見てきたことが効いてくるんだと思うよ。やっぱし若いうちからいろんなモノを見るということが大切なんだ。ほかの料理屋さんに行って食べるだけじゃなくてね、美術展に行くとか、景色を見に行くとか、そういったなかで自分なりのモノの見方を訓練していくということだね。それは知識として見に行くんじゃなくて、絵なら絵、やきものならやきものを作っている人たちの切り口を見に行くんだよ。で、その切り口が自分の仕事に結びつくってことがあるんだよね。・・・。あらゆる人の切り口を見ていると、自分の方向性が見えてくる。もう一つ言えば、人がいいとか悪いとか言っていることに左右されず、自分の目で見て判断できるようになるわけね。で、そうなると、”なんでもないもの”に戻ろうという勇気も出てくるんだよ。うん、”なんでもないもの”ね。これがなかなか難しいんだ。つまり原点ということなんだけど、技術や知識が身についたとしても自信がないとそこには戻ってこれないんだ。なんでもなく見えるのは怖いからさァ。だけども、なんでもなくておいしい、というのがほんとうのプロの料理だと思う。オレはそう思うね。なんでもない料理にこそ料理人の思いが詰まっているからさ。・・・。例えば私の天ぷらも言ってみればなんでもないでしょ?(笑)素人でも揚げられそうに思うでしょう?事実揚げられるしね。おいしい天ぷらだって揚げられるさ。海老十本に一本くらいは揚げられるさ。たまさかだったら揚げられる。それこそカンのいいやつだったら、一年もやっていればそこそこの天ぷらが平均的に揚げられるようになる。だけど、若いやつの”なんでもないもの”と、私の”なんでもないもの”とは、ちょっと違うんだね。いや、ちょっとじゃないな、かなり違う(笑)。海老一本揚げるのに長くて三十秒なんだけど、それを私はかれこれ二百五十万本も揚げているでしょう?しかも毎日どうやって揚げるかを考えながらやっているわけね。そうそう、一本ずつ考えながらだよ。三十秒の間、鍋のなかで何が起きているか考えながら揚げている。・・・。一個一個自分の思いを込めて作ったきた挙句の”なんでもないもの”とたまさかの”なんでもない”ものとは雲泥の差なんだよ。でさ、それはわからない人にはわからくてもいいんだよ。・・・。それは分かる人にはわかるっていう性質のものなんだ。

p182~187


誰でも料理はできるし、誰でも教育はできる。
ただそれは、料理という”行為”であり、教育という”行為”だと思う。

その行為というのは、テクニック(=技術)を駆使することが出来れば、
傍から見れば、プロと同じようなことをしているように見えるものである。

ホリエモンが昔、
「保育は誰にでもできる仕事」
と言っていたが、

誰でも保育という”行為”は出来るし、
技術を身につければ、申し分のない保育が出来ると思う。

だけど、自分の感性を使って、
自分独自の道を歩もうとしている人にとっては、
そこから先に遥か長い道が続いているのである。

前者も後者も、やっているのは保育という同じ”行為”ではあるが、
見据えている目的地、そして、持っている原点の深さに違いがある。

おそらく、前者は仕事が続かないか、
周りの環境の変化にたやすく流されることになると思う。
結果として、「中途半端」になる。

後者はブレない。
見据えている目的地があるからこそ、仕事を極め続けるし、
周りが変化しようと、原点を軸にして対応する。
結果として、その仕事を長く続けることが出来る。

自分は森の幼稚園の先生という仕事を出来るだけ長くやりたいので、
後者の立場であり続けたいと思うのである。


早乙女さんが、自身の感性を使って得た、モノ作りの原点とは何か?


それは「江戸前」だと思う。

ラジオで仰っていたことを思い出したので引用☟

料理に限らず、モノを作る人っていうのは、感性の勝負なんですよ。実際に絵描きさんが絵具も最高、筆も最高、キャンバスも最高、モデルも最高、技術は30年もやってるから写真に負けないくらいの絵が描けます。っていいながら、その後で、1万円で売れる人と3000万で売れる人がいる。だけど、素人の話を聞くと、こんなに良い材料を買って来たから、もう9割がた出来たと思い込んでる。その後に3000倍もの差があるよのってのは、その人の感性ですから。だから、私は、江戸前の天ぷらを売ってます。江戸前の天ぷらを売るってことは、自分の生き様が江戸前でなかったら、江戸前の表現は出来ない。だから、私は、宵越しのお金も持たずにね、毎日使えるお金は一円も残さず銀座にばらまいて帰ってくるっていうのは、結局いつも自分がハラハラドキドキするようなところにいつもいたいんですよ。感性をいつもいじられてて、「痛いー、痒いー」って中にいつもいたいんですよね。

ーーー江戸前って普通は、海のことを指しますけど、早乙女さんの江戸前って、生き様のことを仰ってますよね。

そう、生き様。そういうスタイルがなければ、江戸前天ぷらって名前を書いたからって、江戸前が出来るかって、そんなのもありゃしないんですよ。俺こそが江戸前で生きてるんだよ。生き様を表現する手段として、天ぷらを使ってるだけなんです。

14:30~16:40【みかわ是山居】第90回:天ぷら職人の手しごと|早乙女 哲哉氏


「モノ作りの原点」とは「生き様」であり、

早乙女さんが理想とする生き様は「江戸前」ということになる。

本のなかにも江戸前について言及されている部分があったので抜粋☟

私、”江戸前”ってものを定義するときにね、それは損得抜きで、とりあえず最後まで突っ込んで仕事することができるやつ、そういう仕事を指すんだって。計算抜きで何が出来るか?オレだったらここまでできるぞ、ここまで頑張るぞって、そういうものを江戸前と称するんであって、材料が江戸前だから江戸前になるってことはあり得ないですよ。・・・。要するに損得抜きで人よりいいモノを作ってみせるぞってことね、江戸前って。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 p130

うん、メッセージってね、要するに自分の心意気を売るっていうのがないと江戸前にならないでしょ?・・・。

江戸前を作るっていうのは、とりあえず出来ることは全部やる、全部やったらあとはお客さんに預けちゃう、で、あとはお客さんが判断するって調子でね。嫌ならもう来なきゃいいんだし、おいしけりゃまた来るし。お客さんがまた来てくれれば、自分のやせ我慢がある程度通じたかな、と思う。常にそういうスタンスでしか仕事はしてないですよ。・・・。

うん、ただね、私としてはそのとき最大限のサービスをしてるつもりなんです。要するに絶対に天ぷらをおいしくする。余分なものは全部引いて、天ぷらをおいしくすることだけに集中しているんですよ。

『天ぷら「みかわ」 名人の仕事』早乙女哲哉 p195~198

というか、
本の帯に既に書かれてあった☟

人よりいいモノを「損得抜き」でつくる。それが江戸前。


早乙女さんが半世紀以上も天ぷら職人として仕事をされてきた背景には、
「江戸前」という生き様が一本の軸として通っていて、
それがモノ作りを支えていることが分かった。

では、自分としては、どういう生き様をモノ作りの原点に据えて、
教育を作っていきたいか。

今の自分が、今の感性を使って、モノ作りの原点として採用する生き様は、

やっぱり、「情熱を持って前進‼」かなと思う。

やっぱり、小学校6年生の体験が自分の人生の基礎になっていると思う。

特に、

・色々なことに挑戦➡挑戦する楽しさ
・自学ノート15冊作成➡好奇心の大切さ

という2点は、自分にとって大切な価値観である。

だからこそ、

朝の会、終わりの会、ご飯の時間以外は自由遊びで成り立っている森の幼稚園が、自分の性に合っているのだと思う。

森の幼稚園の子ども達は、自由遊びの時間に、
自身の「好奇心」に従うことが出来るし、
どんな遊びにも「挑戦」できる。

これが、森の幼稚園の最大の魅力だと個人的に思う。
他の幼児教育施設ではこういう環境を作るのは難しいと思う。

だからこそ、森の幼稚園以外だったら、自分は働く気は無いのである。
自分の価値観に合致したことを実現できるのは、
森の幼稚園だけだと思っている。

早乙女さんは、
「生き様を表現する手段として、天ぷらを使ってるだけなんです。」
と言われたが、

自分としても、
「”情熱を持って前進‼”という生き様をこの上なく表現できるから、森の幼稚園で働いている」
だけである。

自分は森の幼稚園に好奇心を持っているし、森の幼稚園が良くなるのであれば、どんなことにでも挑戦したい。それはつまり、「情熱を持って前進‼」という生き様の体現である。

そして、子ども達は森の幼稚園での生活を通じて、自身の好奇心に従い、どんな遊びにも挑戦していく。それはつまり、「情熱を持って前進‼」という生き様を学ぶ過程である。


自分は「情熱を持って前進‼」という生き様を軸にして、
森の幼稚園の先生として、
目に見えないモノを見ながら”教育”を作り
子ども達に売っていきたいと思う。

そして、自分は自分の為に頑張る
でも、それが、子ども達の為になると信じている。

いいなと思ったら応援しよう!