ソウルの教室で、13人の男子高校生が沈黙した日。私たちが分かち合う「90%の真実」
日本の大学を目指す普通の韓国人高校生13人と、日本語と、90%の同じ心の話。
「木村さん、うちの子たちに活をいれてやってください」
駐在員仲間の送別会で偶然出会ったイ先生から、思いがけない依頼を受けた。韓国日本語教育研究会の役員も務める、現役の高校日本語教師だ。
「将来の夢もない、目標もない、授業中もぼーっとしている。日本語を学ぶことで世界が変わるということを、実体験から伝えてほしいんです。」
そして、もう一つ。
「日本語を学ぶ私のクラスは英語が少し苦手な子が多くて。勉強もあまりしないです。でも、それを言い訳にしてほしくない。英語の重要性も、ぜひ伝えてもらえますか。」
昨年末、「何らかのボランティア活動を始める」という目標を自分の手帳に書いていた。日々の業務に追われて踏み出せずにいたが、これは運命のような打診だった。
これまで韓国の大学で教壇に立ったことはあるが、高校生は初めてだ。日韓ビジネスの最前線で泥臭く学んできた経験を、まだ何色にも染まっていない世代に直接手渡せるかもしれない。そう思うと、柄にもなく胸が高鳴る自分がいた。
2026年4月15日。ソウル市内の禾谷(ファゴク)高等学校。日本の大学を目指す男子高校生13名の前に、私は立った。
■ トッポッキと、迷える13人の瞳
教室に入る前、イ先生が「高校の給食をご馳走しますよ」と、私を食堂へ案内してくれた。
トレーに並んでいたのは、真っ赤なトッポッキ、コーンドッグ、海苔ご飯。完全に、韓国の学校給食だ。 「これ、毎日食べてるんですか?」と聞くと、「毎週水曜日は学生が一番好きなメニューなんですよ」と笑った。
甘辛いトッポッキを頬張りながら、私は少しだけ、彼らの日常の体温に触れた気がした。

しかし、教室に入った瞬間、空気は一変した。 覇気がない、というよりも「自分がどこへ向かえばいいのかわからない」という、迷子のような顔をしている。
■ 数字の裏にある「顔」
彼らがなぜ日本語を選んだのか。アニメ、ゲーム、あるいはなんとなく。理由はなんだっていい。
私が30年前に韓国語を学び始めたのは、国際交流で出会った釜山大学日本語学科の女学生が可愛かったからだ。彼女と仲良くなりたい。ただそれだけの理由で、第二外国語を中国語から韓国語に速攻で切り替えた(笑)。
語学の動機なんて、最初は不純でも、軽くてもいい。大事なのは、その「惹かれる」という直感を手放さないことだ。
少し立ち止まって、考えてみてほしい。 韓国の中学・高校で日本語を学ぶ生徒は、約34万7,000人。日本語は第二外国語として選べる8言語の中で、長年選択率トップを維持している。韓国全体の日本語学習者数は2024年調査で55万人を超え、中国・インドネシアに次いで世界第3位だ。
さらに興味深いのは、その「質」の変化だ。以前、韓国の大学入試(修学能力試験)の第二外国語では「アラビア語」が選択者の7割を占めていた時代があった。アラビア語が人気だったわけではない。「少し勉強すれば高得点が出やすい」という受験テクニックによるものだった。だが2022年度から絶対評価に変更されたことで、その裏技は消えた。結果、生徒たちが高校で実際に学んでいる「日本語」と「中国語」が本来の姿でトップに返り咲いた。
つまり今、日本語を選ぶ韓国の高校生は、打算ではなく、本音で選んでいる。

なのに目の前の13人は、その選択に自信を持てていない様子だった。とりあえず日本語を勉強して大学に入ることだけが目標になっており、その先どうなるかまでは考えていない。モチベーションを維持するのが難しいのも、無理はなかった。
イ先生が「活を入れてほしい」と言った意味が、痛いほどわかった。
■ 扉の鍵と、AIに奪えない体温
スライドを一枚ずつめくりながら、私は自分の30年を語った。
サムスングループで働いたこと。韓国語を学んでいなければ、その扉は永遠に開かなかった。日本でゲーム会社を立ち上げたこと。商社に入り、韓国以外の国々や日本国内のビジネスを体験したことで、韓国はあくまでも世界の中の一つとの認識になれた。そしてアジア初の仕組みをゼロから作ったこと。そのすべての出発点に、「もう一つの言語を持った」という事実があった。
「言語を一つ増やすということは、人生の選択肢を倍、いや何十倍にするということです。」
日本の大学には今、英語で授業を受けられるプログラムが急増している。韓国から日本に在籍する留学生は2023年以降回復傾向にあり、現在1万3,000〜1万5,000人規模で推移している。就職難が深刻な韓国で、最初から日本企業への就職を見据えて日本の大学を選ぶ学生が確実に増えている。
「皆さんが今日本語を学んでいることは、ただの選択科目じゃない。これは世界へのパスポートです。」
事前にイ先生から聞いていた。英語が苦手な子が多い、と。だからこそ、こう伝えた。 「面倒だから、苦手だからと逃げるか。それとも、新しい世界を知るための最強のチケットだと考えるか。英語も日本語も、道具です。その道具を使いこなした先に、世界がある。決めるのは君たちだ。」
教室の空気が、少し変わった気がした。
さらに、一人旅の話をした。 言葉が通じない異国の街で、道に迷い、地元のおじさんやおばあちゃんに食べ物を分けてもらったり、助けてもらった日のこと。言葉は半分しか通じなかったのに、気持ちは100%伝わった、あの感覚。
「AIは完璧に翻訳してくれる。でも、見知らぬ誰かと、言葉の壁を越えて笑い合う『体温のある経験』は、君たちが自分の足でそこへ行かない限り、絶対に手に入らない。その経験こそが、君たちを他の誰とも違う人間にする。」
気がつけば、13人の瞳から「ぼーっとした色」は消えていた。食い入るように、私の言葉を追っていた。
■ 10%の違いか、90%の同じ心か
講義の終盤、私は最後の一枚のスライドを出した。 「結論:たかだか5〜10%の違いにフォーカスするのか、同じ90%にフォーカスするのか」
「皆さん、日本と韓国って、そんなに違うと思いますか?」
教室に、静寂が落ちた。
「進学のプレッシャー、好きな人への気持ち、親への反発と感謝、将来の不安、友達との悩み——君たちが日々感じていること、全部、日本の高校生も同じように感じています。」
私は、彼ら一人ひとりの目を見た。
「国籍や文化が違っても、人間が抱える悩みの90〜95%は完全に同じです。残りのわずか10%の『違い』に目を向けて争うのか、90%の『同じ心』に目を向けて手を取り合うのか。日本語を学んでいる君たちは、間違いなく、その90%の同じ心に気づける側の人間になれる。」

教室は、水を打ったように静まり返っていた。 無関心の静けさではない。13人の若者が、自分自身の人生のベクトルが大きく向きを変える音を、心の中で聞いている静けさだった。
■ 扉を開けた人間にしか、見えない景色
帰り道、イ先生が「活を入れてほしい」と言ったその言葉の意味が、ソウルの風の中でじわじわと沁みてきた。先生はあの子たちの可能性を、誰より信じていたのだ。だから頼んできた。
韓国では今、55万人を超える人々が日本語を学んでいる。その大半は10代の若者たちだ。少子化が直撃し、日本への留学生数もかつてのピークにはまだ届いていない。数字だけ見れば、逆風の時代だ。
だが、数字には映らないものがある。 打算で選ぶ時代は終わった。彼らは今、純粋な引力で「日本語」という扉の前に立っている。ただ、その扉の重さに少し戸惑い、開け方がわからないだけなのだ。
その「引力」を、我々大人が愛情を持って育ててやらなければならない。
言語を学ぶとは、別の世界への扉を一枚、自分の手で開けることだ。その扉の向こうに何があるかは、開けてみなければわからない。 でも、一つだけ確かなことがある。
扉を開けた人間にしか、見えない景色がある。
三十年前、不純な動機で韓国語の扉を開けた私が、今こうして彼らの前に立っているように。
今日の13人が、いつかその美しい景色を見てくれることを。そしてこれからも、多くの「未来のパートナー」たちに出会えることを、心から願っている。
📍 2026年4月15日 ソウル・禾谷(ファゴク)高等学校にて
(GTS Advisory 代表 / 木村 正博)
【読者の皆さまへ】 この記事は「創作大賞2026」に応募しています。 もし若い世代との「90%の同じ心」を感じていただけましたら、ぜひ画面下の「スキ(ハートマーク)」を押して応援していただけると、大きな励みになります!
参考資料:国際交流基金「海外日本語教育機関調査(2021年度・2024年度)」、JASSO「外国人留学生在籍状況調査」
