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歎異抄の旅(34)「我が人生は、一酔の夢」上杉謙信と『歎異抄』

 東京から北陸新幹線に乗り、新潟県上越市(じょうえつし)へ向かいます。
 上越妙高駅(じょうえつみょうこう)で降りると「上杉謙信(うえすぎけんしん)」の名が目に飛び込んできました。通路には「義の武将 謙信公」と書かれた旗が立ち並び、駅の東口には乗馬姿の謙信像が設置されています。
 戦国大名の中でも、最も有名な武将の一人に数えられる上杉謙信の拠点、春日山城(かすがやまじょう)が、この近くにあったのです。

上杉謙信の春日山城
 越後を統一し、最強の武将に

 上杉謙信は享禄(きょうろく)3年(1530)、春日山城で生まれました。
 父は越後(えちご・新潟)の国守(こくしゅ・現在の県知事に当たる役目)に等しい立場(守護代・しゅごだい)でしたが、一族や豪族の間で激しい争いが続き、国内は不安定でした。
 そんな中、謙信は19歳で家督(かとく)を継ぎます。戦が上手で、次々に国内の反乱を鎮圧し、越後の統一に成功したのです。22歳の時でした。
 これによって国力を充実させた謙信は、北陸地方を勢力下に収めただけでなく、大軍を率いて何度も関東方面へ出陣し、武田信玄(たけだしんげん)、北条氏康(ほうじょううじやす)、織田信長(おだのぶなが)などの武将から恐れられていました。
 上杉謙信の拠点であった春日山城跡は、上越妙高駅から、車で約20分の所にあります。

春日山への道は紅葉に彩られていた
春日山の中腹に建つ上杉謙信の銅像

 この城は標高182メートルの春日山の地形を巧みに利用した堅固な要塞で、難攻不落の名城といわれていました。
 現在、「日本100名城」「日本五大山城(やまじろ)」の一つに選ばれています。山の上に城は残っていませんが、頂上の本丸跡まで登るルートが整備されています。
 私が訪れたのは11月下旬。快晴でした。まぶしいほどの青空です。紅葉シーズンでしたので、山全体が赤、黄、緑と、カラフルに色づいています。
 ふもとから車で上ると、山の中腹に上杉謙信の銅像が建っていました。昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」の放送に合わせて制作されたものです。
「天と地と」は、海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)の同名の小説をドラマ化したもので、上杉謙信役を石坂浩二(いしざかこうじ)さん、武田信玄役を高橋幸治(たかはしこうじ)さんが演じて大ヒットしました。
 宿命のライバルであった謙信と信玄が川中島(現在の長野市川中島一帯)で激突。双方の兵が入り乱れて戦う中、白馬に乗った謙信が、ただ一騎で武田の本陣へ駆け込みます。
 そこには信玄が、泰然と床几(しょうぎ)に腰掛けていました。
 馬上から猛然と刃を振り下ろす謙信。
 軍配でガシッと受け止める信玄。
 緊迫した一騎打ちのシーンが印象に残っている人もあるのではないでしょうか。
 ハイキングを兼ねて、春日山に登るシニア層の人たちをよく見かけるのは、ドラマや小説で謙信のファンになった人が多いからかもしれません。

 車で上ることができるのは、謙信の銅像が建っている所までです。

車で上ることができるのは中腹まで。写真中央に建つ謙信像が目印

 すがすがしい風景を眺めながら、舗装された道を数百メートル歩くと、頂上への登山道が現れました。

本丸への登山道の入り口に立っている案内板
急な階段を上り切ると三の丸跡の平地に出る
三の丸から二の丸への坂道。左上に立っているのは大銀杏

 人一人がやっと通れるような細い階段や、曲がりくねった道を、三百数十メートル登ると、頂上にたどり着きます。本丸跡です。

頂上には本丸跡の石碑。かつての栄華を示す城は残っていない

 ここに立つと、上越市内が一望できます。遠くに日本海も見渡せます。
 この見晴らしのいい山頂に、謙信の城が築かれていたのです。関東、信濃(長野)、北陸への往来を一目で監視できるので、軍事的にも重要な場所でした。

本丸跡からは、上越市内が一望できる

敵の苦境を救うべきか?
  謙信が信玄へ送った手紙

 上杉謙信と武田信玄が、川中島で5回めの戦いを終えてから数年後のことです。信玄は、かつてない危機に襲われていました。領内に「塩」がなくなったのです。
 塩は「生命の糧」ともいわれ、水や空気とともに、人間が生きていくのに欠かせないものです。
 信玄の領国は海に面していないので、塩を作ることができません。それまで、太平洋側からの輸送に頼っていました。
 この急所を見抜いた今川氏と北条氏が連携し、信玄の領国への塩の輸送を全面的に禁止してしまったのです。正面から戦ってもかなわない相手への意外な戦略でした。
 苦境に落ちた信玄の姿を、吉川英治(よしかわえいじ)は小説『上杉謙信』に、次のように描いています。
     ◆    ◆
 永禄(えいろく)十一年から元亀(げんき)元年(1568年から1570年)にわたるあいだ、この長い年月、甲州(こうしゅう・現在の山梨県)には塩の無い生活が始まっていた。国中、塩攻めになったのである。
 足長な(各地へよく遠征するという意味)信玄が、駿河(するが・現在の静岡県東部)へ兵馬を出したことから、敵方の苦策によって、反噬(はんぜい・反撃)をうけたのだった。今川、北条の二家が相提携(あいていけい)して、
「信玄の勢力下へは、一合の塩も入れるな」
 と、甲信(こうしん・現在の山梨県、長野県)二国と上州(じょうしゅう・現在の群馬県)の一部にかけて、厳重な輸送停止を実行し、もし眼をかすめて一握りの塩でも敵に売った者があれば、斬罪(ざんざい)に処すると発令した。
 半年や一年は貯蔵で凌(しの)げた。また山中や河川で小量な闇取引も行われた。けれど足かけ三年にもなると、さすがの信玄も困惑した。三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない彼も、
「いかにせん乎(か)」
 と、日々屈託顔(くったくがお)に見えた。
 由来、甲信上毛は、塩ばかりでなく海産物はすべて、北条、今川家の領に依存していたので、この苦痛は徹底的にこたえた。領民の皮膚は目に見えて青味を帯び、病人は急に殖(ふ)え出した。わけても、味噌、漬物が喰えないことは、百姓の生活を致命的におびやかした。従って、農産も減退するし士気はふるわず、さしもの甲府(こうふ・ここでは、甲府を拠点とする信玄のこと)も自滅のほかなかった。
(吉川英治『上杉謙信』より)
     ◆    ◆
 宿敵・信玄が危機に瀕していることを、謙信は、よく把握していました。
 家臣からは、
「今こそ、信玄を討ち破る好機です。甲斐(かい・現在の山梨県)へ攻め込みましょう」
という声が出ましたが、謙信は、あえて兵馬を動かしませんでした。
 それどころか、信玄に次のような書状を送ったのです。
「聞くところによると、北条、今川両氏が相謀(あいはか)って、塩を止め、君を苦しめているという。これは、極めて卑劣な行為である。
 君と我の争いは、弓矢において決するものであって、米や塩は関係ない。今から、我が国の塩を送る。
 君の士卒、兵馬を、一層強化されるがよい。再び戦陣で堂々と相まみえよう」

 日本海側から、甲斐へ大量の塩が運ばれました。
 謙信と信玄が、互いを高め合う真のライバルだったからこそ、生まれたエピソードです。
 これが、「敵に塩を送る」ということわざのいわれです。敵が苦しんでいる時は、その弱みにつけ込まずに助ける、という意味で使われています。

謙信の辞世の漢詩
 四十九年の人生は、一盃の酒

 武田信玄と激しく戦い、織田信長に恐れられたほどの上杉謙信も、病にはかてませんでした。49歳の若さで亡くなっています。
 病床の枕の下には、次のような辞世の漢詩が置かれていました。

我が一期(いちご)の栄(さかえ)は
一盃(いっぱい)の酒
四十九年は
一酔(いっすい)の間
生を知らず
死をまた知らず
歳月ただこれ夢中のごとし

(新井白石(あらいはくせき・江戸時代の政治家)著『藩翰譜(はんかんふ)』より)

(意訳)
 人は私の一生を見て、華やかだった、大成功だったと言うかもしれないが、今、思い返すと、酒を一盃飲んだくらいの楽しみでしかなかった。
 四十九年の人生といっても、ほんのしばらくの間、酒に酔っているのと同じくらい儚(はかな)いものだったな。
 私はまだ、「生きる」とは何かが分からない。どうすれば悔いのない生き方になるのだろうか。
 また、「死」も分からない。死んだらどうなるのだろうか。
 まるで夢の中にいるように、歳月だけが、あっという間に過ぎ去った一生であった。

 謙信は酒好きだったそうです。大きな杯(さかずき)に、なみなみと酒をついで飲んでいたといわれています。だから辞世の漢詩にも、人生を、酔(よ)いが覚めた時の儚さ、むなしさに例えたのでしょう。
 謙信が最後に感じ取った人間の有り様は、まさに『歎異抄(たんにしょう)』の次の言葉に通じるものです。

(原文)
 煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわご
と・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞ、まことにておわします。

『歎異抄』後序

(意訳)
 いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ。

*火宅……火のついた家のこと
*煩悩……欲や怒り、ねたみ、そねみの心
※意訳は、高森顕徹著『歎異抄をひらく』より

ハイキングコースとしての春日山は自然の宝庫

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