映画『ザ・セル』「断面」の想像力
今、劇場で落下の王国 4Kデジタルリマスターが上映されていて、話題になっていますよね。
私自身もぜひ観に行きたいと思っているのですが、近所の劇場では午前中に1回だけの上映だったり、そもそも上映されていなかったりと、なかなかタイミングが合いません。
今年中には何とか足を運びたいと思いつつ、その流れでターセム・シン監督の前作をチェックしておこうと、Amazonプライムで『ザ・セル』観返してみました。
解説・あらすじ
「落下の王国」で知られるインド出身の映像作家ターセム・シンが2000年に手がけた映画監督デビュー作。連続殺人鬼の異様な精神世界に入り込んだ心理学者の運命を、独創的な世界観と映像美で描く。
若い女性を標的にした連続殺人事件が発生。誘拐された女性はガラス張りの「セル」に閉じ込められ、40時間が過ぎるとその中が水で満たされ溺死してしまう。FBIはカール・スターガーという男が犯人だと突き止め自宅に踏み込むが、精神疾患を抱える彼は意識を失い倒れていた。誘拐された女性の居場所を知るのは犯人だけであるため、捜査官ピーター・ノバックは最後の手段として、他人の潜在意識の中に入り込む特殊装置を開発している研究所を訪れる。そこで働く心理学者キャサリン・ディーンはスターガーの精神世界に侵入し、セルの隠し場所を聞き出そうとするが……。
心理学者キャサリンをジェニファー・ロペス、FBI捜査官ピーターをビンス・ボーン、殺人鬼スターガーをビンセント・ドノフリオが演じた。「ドラキュラ」の石岡瑛子が衣装デザインを担当。
2000年製作/109分/R15+/アメリカ
原題または英題:The Cell
配給:ギャガ・ヒューマックス共同
劇場公開日:2001年3月24日
実はこの作品、20年ほど前にレンタルDVDで一度観た記憶があります。
正直に言えば、そのときの記憶は
「何かシュールな世界観が面白かったな」
ぐらいの、かなり曖昧なものでした。
ところが20年ぶりに再鑑賞してみると、冒頭から強烈なイメージの奔流に掴まれました。
映像が古いどころか、むしろ今観るほうが映像のインパクトが増している。
それが、この映画の強さなのだとすぐに気づかされました。
■ 90年代サイコスリラーが行き着いた先
1990年代、『羊たちの沈黙』の大ヒットと、1995年の『セブン』の成功によって、連続殺人鬼を題材にしたサイコスリラーブームが巻き起こりました。
当時の作品を思い返すと、「プロファイリング」や「衝撃的などんでん返し」が、観客の期待値として強く刷り込まれていたことがわかります。
『ユージュアル・サスペクツ』や『シックス・センス』なども、その流れの中で語られる作品でしょう。日本でも『CURE』や『パーフェクトブルー』といった名作が生まれました。
ただ、正直に言えば、この一連のサイコキラーブームも、いま振り返ると
「またこの“タイプ”の映画か」
と感じてしまう作品も少なくありません。
90年代後半になると、ジャンルは急速に“型”として固定され、脚本やプロットの工夫だけで差別化することが難しくなっていきました。
そんな空気の中で登場したのが『ザ・セル』です。
本作は、捜査の精度や心理戦の巧妙さから、あえて距離を取っています。
代わりに選ばれたのは、観客の頭の中に直接残る視覚体験でした。
私は映画の冒頭で、「これはミステリーで勝負するタイプの映画ではないな」と直感しました。
■ 古びない映像表現としての『ザ・セル』
再鑑賞して最も驚かされたのは、アナログSFXによる映像表現が、まったく古びていないことです。
むしろ、最近のCG中心の映画よりも、触れたら痛そうで、匂いがしそうに感じられる。
2010年代以降、映画はデジタルVFXが急速に進化する一方で、どんな画像でもCGで作れてしまうことで、映像が軽く見えてしまう時代に突入しました。だからこそ、実体を伴った美術や衣装、重力を感じさせる空間設計が、強烈な説得力を持っていたのだと思います。
『ザ・セル』の映像がいま見ても「本当にそこに存在している」と感じられるのは、その多くが物理的な造形に支えられているからでしょう。
この一点において、ターセム・シン監督の狙いは、すでに当時から達成されていたと感じます。
■ 「脚本が弱い」という批判は本当に妥当なのか
本作について語られるとき、しばしば
「映画としては脚本が弱い」
という批判を耳にします。
ですが、私はこの言葉にどこか居心地の悪さを覚えます。
それは本作が破綻しているからではなく、そもそも制作の意図が違うように感じるからです。
『羊たちの沈黙』と同じ物差しで測り、捜査劇としての完成度を基準に語ると、確かに物足りなく見えるかもしれません。
しかし『ザ・セル』が追求しているのは、プロットではなく、人間の内面をどう可視化するかという観点です。
「脚本が弱い」という評価の背後には、作品そのものよりも、カルト的な評価や持ち上げられ方への反発が混じっているように感じることもあります。
少なくとも私には、『ザ・セル』が脚本至上主義で評価されるべき映画だとは思えませんでした。
ーーーーここからネタバレーーーー
■ 2000年前後という時代が生んだ「断面」の想像力
作中で繰り返し現れるCTスキャンによる「頭蓋の断面」、そしてダミアン・ハーストの作品を思わせる「馬の輪切り」のイメージは、本作を象徴するモチーフです。
正直に言えば、初見時はかなり気持ち悪かった。
ですが、目を背けたくなるのに、なぜか視線を外せない。
これらは単なるショッキングな残酷描写ではありません。
健全に見える肉体の〈外面〉と、その〈内面〉に潜むグロテスクさを可視化するための表現です。断面化された馬の内臓がなお呼吸を続けている場面は、「死」の只中に残る「生」を、容赦なく突きつけてきます。
90年代後半から2000年前後にかけて、CTやMRIといった医療画像が一般化し、「身体の内部を画像として見る」感覚が共有され始めました。
そのため『ザ・セル』の断面表現は、突飛な抽象ではなく、直感的に理解できる不気味さとして成立しています。
この断面のイメージは、作品の人物造形とも強く結びついています。
一見すると気弱で無害に見える青年カール・スターガーという〈外面〉と、その内側に広がる歪でグロテスクな精神世界という〈内面〉。
映画はこの乖離を、説明ではなくイメージの連なりによって語っています。
■ 連続殺人鬼への同情という危うさ
もっとも、本作が完全に無批判でいられる作品だとは思いません。
連続殺人鬼の動機を幼少期の虐待に求め、主人公が彼に同情的な感情を抱く構造には、確かに危うさがあります。
特に、女性の身体が「恐怖のキャンバス」として消費されているように見える点については、その残酷さが
「犯人の精神世界の告発」なのか、
それとも「観客の快楽」に寄っていないか、
という問いが生じるのも自然でしょう。
ただ、本作が誠実だと感じるのは、その危うさを無自覚に踏み越えない点です。キャサリンは受動的な被害者ではなく、“救済する側”として主体性を持っています。
彼女は少年期のカールに共感し、その精神世界を自らの内側に招き入れます。しかし、その理解は免罪にはつながらない。
彼女は彼の地獄を見届けたうえで、凶行を止めるために、最終的にはとどめを刺す選択をします。
この結末は、単なるリベンジポルノや感傷的な救済に終わらない、ぎりぎりのフェアさを保っているように思えました。
■ 結語
『ザ・セル』は、事件解決の巧みさよりも、
一度見たら頭から離れない内面世界のイメージを観客に残す映画です。
2000年前後という時代は、その表現が最も強い説得力を持ち得た、特殊な交差点でした。脚本が弱いかどうかではなく、この映画が何をテーマとして選び、何を視覚化しようとしたのか。
そこを見誤らなければ、『ザ・セル』がいまなお語られ続ける理由は、十分に理解できるはずです。
そう考えると、ターセム・シン監督の『落下の王国 4Kデジタルリマスター』が、ますます観たくなってきた私なのでした。
