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考察『ノスフェラトゥ』――女性が欲望する怪奇映画

GEOでレンタルしてきたDVDで、ロバート・エガース監督の『ノスフェラトゥ』を観ました。前回感想を書いた『罪人たち』に続き、たまたま2作連続で吸血鬼ものという並びになりました。

これまでにも吸血鬼映画の感想を書く機会がありましたが、あらためて振り返ってみると、吸血鬼という題材は映画作家にとって、ゾンビものと並んで創作意欲を強くかき立てるテーマなのだと感じさせられます(もちろん商業的な要請もあるのでしょうが)。

今回の『ノスフェラトゥ』は、怪奇映画の古典として知られるF・W・ムルナウ版『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)を起点とし、その後に続くヴェルナー・ヘルツォーク版(1979)などの流れを踏まえながら、ノスフェラトゥというモンスターを通して映画がその時代ごとに何を描き得たのかを考えさせられる作品でした。本稿では、それぞれの作品を比較しつつ、エガース版がどのような現代性を獲得したのかについて考えてみたいと思います。


■1 吸血鬼映画が抱え続けた“女性像”という問題

まず確認しておきたいのは、吸血鬼映画における「女性キャラクターの位置づけ」です。ブラム・ストーカーが『吸血鬼ドラキュラ』を書いたのは1897年。ヴィクトリア朝の価値観が色濃く残る時代であり、女性は“守られる存在”であり、“性的には純潔であるべき”と強く規定されていました。そのため原作のミナやルーシーは、いずれも男性主人公の行動によって救われる受動的な存在で、彼女たちの欲望や意志は物語上ほとんど重視されていません。

この構造は映画史にもそのまま受け継がれました。F・W・ムルナウ版『吸血鬼ノスフェラトゥ』においてエレン(原作のミナ相当)は、清らかな自己犠牲を通して世界を救う“聖女”として描かれます。彼女の力は「欲望を持たないこと」「純潔であること」から生まれるとされており、まさにヴィクトリア朝的な倫理がそのまま投影されています。

ヘルツォーク版になると、女性の存在に「悲哀」や「情感」が与えられるようにはなるものの、やはり性的主体性や欲望は描かれず、物語の中での役割は依然として受動的です。吸血鬼という題材が持つ「性的支配」という暗喩があまりにも強いため、女性の欲望を描くと従来の構図が崩れてしまう。そのため映画は女性の主体性を描くことを避けてきました。

要するに、100年以上もの間、吸血鬼映画での女性は――

・誘惑される者
・犯される者
・犠牲となる者
・純潔の象徴として世界を救う者

という、男性中心の物語を動かす“装置”として扱われてきたのです。


ーーーーここからネタバレーーーー
















■2 エガース版の革新:エレンは“欲望する主体”である

――エレンが「欲望する主体」として描かれたこと

ロバート・エガース版『ノスフェラトゥ』がそれまでの作品と比較して画期的なのは、エレンが自分の意思と欲望を持つ人間として描かれた点にあります。

エガース版では、エレンはオルロックに“誘惑される”のではなく、“自らが望んで彼を迎え入れた”という過去を持ちます。
ここが決定的に重要です。

彼女は肉体的な渇望を抱えており、それを満たせる存在が夫であるトーマスではなく、オルロックであることを理解しています。
精神的愛と肉体的欲望が一致しないという現代的な矛盾を引き受けながら、エレンはその葛藤を抱えたまま主体的に行動します。

これは吸血鬼(ドラキュラ)映画においてほぼ前例のない女性キャラクターの位置づけです。女性が“誘惑される対象”ではなく、

自ら欲望し、選び、迎え入れる主体である。

さらに重要なのは、エレンが欲望を経験したうえで、最終的に“世界を救う”選択を下す点です。従来のように「聖女が世界を救う」のではなく、

“欲望を抱えたまま、世界を救う”

という新しい倫理構造が提示されます。

これは従来の「聖女が世界を救う」という倫理構造を覆すものであり、本作に現代性を与えている最大の要因と言えるでしょう。


■3 なぜこの変化は「今」可能になったのか

――MeToo以降の文化的転換と観客の成熟

では、なぜこのような大きな刷新が“2020年代の今”になって実現したのでしょうか。

ひとつには、女性の性的主体性(sexual agency)が社会的に認められるようになったという背景があります。
MeToo以降、性的暴力を“娯楽”として消費する描写が批判され、代わりに女性自身の欲望・同意・選択を中心に物語を構築する作品が増えていきました。

そして、吸血鬼映画における「噛む/噛まれる」という関係は、それ自体が性的メタファーであり、本来なら女性側の欲望と不可分のはずです。しかし長い間、それを語ることはタブーでした。女性の欲望を描けば、社会的規範とも男性中心の物語構造とも衝突してしまうからです。

しかし現代の観客は、女性が複雑な欲望と主体性を持つことを自然に受け入れられるようになりました。その成熟があって初めて、エレンという欲望する女性”が、正面から描かれることが可能になったのだと思います。
言い換えれば、

エレンが“人間”としてスクリーンに立つためには100年以上の時間が必要だった

ということではないでしょうか。


■4 エガースという作家の特性

――抑圧・欲望・崩壊を描く映画作家

ここで、ロバート・エガース自身の作家性に触れたいと思います。
エガースはデビュー作『ウィッチ』以来、
・抑圧
・欲望
・禁忌
・人間の内側からの崩壊

といったテーマを一貫して扱ってきました。

『ウィッチ』では宗教的抑圧に苦しむ少女が“禁忌の欲望”を通して解放へと至り、
『ライトハウス』では孤立した男たちの狂気が、欲望と支配の関係として描かれ、
『ノースマン』では復讐の連鎖が人間性を蝕んでいきました。

つまりエガースは“古典を忠実に再演する作家”ではなく、
古典の奥に封じ込められ、語られてこなかった欲望や暴力を掘り起こす作家なのです。

吸血鬼(ドラキュラ)映画の最大の禁忌とは何か。
それは “女性の性欲” です。

エガースはこの禁忌に真っ向から切り込み、
これまで誰も描けなかったエレン像を作り上げました。


■5 暴力的エンタメの受容と表現の揺れ幅

とは言え、現代の映画文化は一枚岩ではありません。
女性の欲望を主体的に描く作品が増える一方で、女性への残酷描写をエンタメとして受容する作品(テリファーなど)も大きな人気を得ています。

こうした表現をすべて禁止すべきだとは絶対に思いません。
フィクションだからこそ成立する“誇張された暴力”を楽しむことは映画の存在する価値そのものと言っていいし、健全の名のもとに表現の自由が保たれなくなる社会はディストピアでしかないでしょう。

しかしその一方で、現実のSNSではミソジニスト男性による女性への攻撃が日常化し、価値観の変化に対する反発が大きく渦巻いている。
このギャップを見ていると、やはり私たちがいま生きている社会は、
女性の主体性が肯定される時代と、女性が消費される時代の端境期にある
のだと感じます。


■結語

ロバート・エガース版『ノスフェラトゥ』は、古典を再現するための作品ではありませんでした。それは、吸血鬼映画が長く抱えてきた欠落を見つめ直す試みであり、女性の欲望と選択を物語の中心に据えることで、初めて成立した新しい形の『ノスフェラトゥ』でした。

エガースは過去をなぞるのではなく、古典が語り残した余白を現代の感性で丁寧に掬い上げ、“今だからこそ語れる物語”として再構築しています。

そして、社会の変化への反発と、新しい価値観の芽生えが同時に存在するこの時代に、エガース版『ノスフェラトゥ』が提示した女性像の変化は、これからの恐怖映画がどこへ向かうのかを考えるうえで、ひとつの重要なマイルストーンになるのではないかと私は思います。


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