ハウス・オブ・ダイナマイト/トランプには核スイッチは押させない
Netflixでキャスリン・ビグローの新作が!
今月号の『映画秘宝』で『ハウス・オブ・ダイナマイト』の情報を知り、「なんじゃ?ホワイトハウスへの爆弾テロ映画か?」と想像したが、見始めてすぐに、この作品が核戦争の恐怖を描く映画であることに気づいた。
そして観終えた今、ハリウッド映画が久しく真面目に描いてこなかった“アメリカの核戦争”に正面から取り組んだ作品だと感じている。
アメリカ映画史における「核戦争の恐怖」は、常にその時代の政治的不安と表裏一体に存在してきた。『ハウス・オブ・ダイナマイト』は、その系譜の上に立ちながら、長らくアメリカが避け続けてきた「悪夢」を真正面から描き出した作品だ。 以下では、この映画がどのような映画的文脈の果てに誕生したのか、その系譜をたどってみたい。
1960年代:冷戦下における“人類滅亡”の自覚
『博士の異常な愛情(Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb, 1964)』
『未知への飛行(Fail-Safe, 1964)』
キューバ危機(1962)を経て、「人類滅亡は現実に起こり得る」という意識が社会全体を覆っていた時代。この時期のアメリカ映画が描く「核の恐怖」は、敵国への恐怖よりもむしろ自国の誤作動と狂気に向けられていた。
『博士の異常な愛情』では、核抑止論の虚無をブラックコメディとして描き、笑いながらも絶望を突きつける。
一方、『未知への飛行』は同じ題材をリアルな緊迫感で描き、誤爆によるモスクワ攻撃という悲劇を冷徹に見つめた。この時代の恐怖は「敵国」ではなく、「理性を失った自分たち自身」にあった。
1970年代:権力とテクノロジーへの不信
『地球爆破作戦(Colossus: The Forbin Project, 1970)』
冷戦の長期化、ベトナム戦争、そしてウォーターゲート事件――国家への信頼が音を立てて崩れた70年台。核発射システムをAIに委ねた結果、人類が自らの創造物に支配されるというこの作品は、「核をコントロールする権力」そのものへの不信を先取りした警告だった。この時期、恐怖の対象は“核戦争”そのものではなく、それを管理する体制とテクノロジーの暴走へと移っていく。
1980年代:再燃する冷戦と、一般市民の被曝
『ザ・デイ・アフター(The Day After, 1983/TV映画)』
レーガン政権下、米ソ対立が再び激化し、「いつ核戦争が起きてもおかしくない」空気が社会を覆った。『ザ・デイ・アフター』は中部アメリカの平凡な一般市民が核攻撃を受ける様を克明に描き、放送当時1億人が視聴。
レーガン大統領が核政策を再考するほどの社会的衝撃を与えた。
ただし日本人の視点から見ると、放射能の脅威がやや過小に描かれ、アメリカ社会における「核被害のリアリティの欠如」も感じさせる。
1990年代:核は“恐怖”から“道具”へ
『トゥルーライズ(True Lies, 1994)』
『ブロークン・アロー(Broken Arrow, 1996)』
『ピースメーカー(The Peacemaker, 1997)』
ソ連崩壊と冷戦終結によって、「核戦争のリアリティ」は失われた。
この時期の映画では、核兵器は“悪党から奪い返すガジェット”として消費され、もはや「人類滅亡の象徴」ではなく、「スリルを高めるマクガフィン」と化していた。
『トゥルーライズ』では核弾頭がコメディ的誇張の中で扱われ、『ブロークン・アロー』では盗まれた核弾頭を奪い返すアクション劇、『ピースメーカー』では核密輸をめぐるスリラーが展開する。
振り返れば、核を「恐怖」ではなく「娯楽」として扱えた牧歌的な時代だったとも言える。
2000〜2010年代:9.11以降、“国家”から“テロ”へ
『トータル・フィアーズ(The Sum of All Fears, 2002)』
『アメリカン・アサシン(American Assassin, 2017)』
『4デイズ(Unthinkable, 2010)』
9.11テロ以降、恐怖の主体は国家ではなく無秩序なテロリズムへと転移した。『サム・オブ・オール・フィアーズ』では、テロ組織が失われた核弾頭を入手し、アメリカ国内での爆破を狙う。『アメリカン・アサシン』は、核開発をめぐる諜報戦を描き、『4デイズ』はテロリストが複数の都市に核爆弾を仕掛け、政府が拷問をもって情報を引き出そうとする倫理的サスペンスである。
この時代、核の恐怖は“爆弾そのもの”ではなく、極限状況下で理性を失う人間―その心理的崩壊へと焦点が移っていく。「もし核が未知の敵の手に渡ったら?」という問いが、もっともリアリティを持った時代であった。
2020年代:アメリカが「被爆者」になるという想像
そして2025年、『ハウス・オブ・ダイナマイト(House of Dynamite, 2025)』の登場だ。本作では90年代以降、「核兵器がアメリカに向けて撃たれる」という、アメリカ人が真剣に向き合ってこなかった恐怖が描かれる。北朝鮮の核開発、ウクライナやパレスチナをめぐる戦争― 核による抑止がもはや機能していない現実が、この映画を生んだ社会的背景にあると感じられる。
印象的だったのは、大統領(アルバレス・ジルバ)の言葉だ。
「核反撃の用意をしていれば戦争は起こらないと思っていた。いま、ありえないことが起きている。だがこれが現実だ。」
―このセリフは、“核抑止”という幻想の崩壊を象徴している。
そして彼が「報復をしないことは市民が許さないだろう」と語る場面には、9.11以降のアメリカ社会が抱える、やられたらやり返す”という呪縛が映し出されている。
思い返せば、アメリカはブッシュ政権下「テロとの戦い」の名の下に、存在しなかった“大量破壊兵器”を理由にイラクを破壊し尽くし、中東を怨嗟の連鎖に巻き込んだ。その罪の意識が、本作における“自国への報復”という形で回帰しているようにも思える。
オバマ的大統領という選択の意味
興味深いのは、本作の大統領がトランプでもバイデンでもなく、オバマを思わせる黒人大統領として描かれている点だ。
もしトランプ的指導者であれば、迎撃失敗の時点で「報復」という即断を下しただろう。だが、本作のラストにおける報復か否かの葛藤こそが、この映画の核心である。そこにはトランプの出番は無いのだ。
結論―暴力を求める人間の“欲望”を見つめて
キャスリン・ビグローは、核攻撃に対する報復という行為に善悪の判断を下してはいない。むしろ描かれているのは、「正義を遂行する過程で暴力を正当化してしまう人間の欲望」だ。
『ハート・ロッカー(The Hurt Locker, 2008)』や『ゼロ・ダーク・サーティ(Zero Dark Thirty, 2012)』に通じるように、ビグローの関心は、国家や政治よりも暴力を行使する人間の心理に向けられている。
『ハウス・オブ・ダイナマイト』でも、核という究極の暴力装置を前にしたアメリカ人が、「正義」を名乗りながらその力を過信し、結果として自らを滅びへ導いていく過程が描かれる。
この映画の結末は善悪を明確に分けることを拒み、観客に判断を委ねる。
それは政治的メッセージというよりも、「なぜ人間は暴力を必要としてしまうのか」という、ビグローが長年問い続けてきたテーマへの回帰だ。
この映画を観たアメリカの観客は何を思うのだろうか。「こんな事態を防ぐためには国防をさらに強化し、敵性国家には先制攻撃も辞さない強硬さが必要だ」と考えるのか。
それとも「こうした事態を避けるために、対話と核廃絶への取り組みこそが大切だ」と感じるのか。
ビグローはどちらにも明確な態度を示さない。
しかし、観客がその議論を始めること――
まさにそこにこそ、ビグローの狙いがあるのだと私は思う。
