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感想『映画キミとアイドルプリキュア♪ お待たせ!キミに届けるキラッキライブ!』推し活に“幸せな終わり”はあるのか?】

『映画キミとアイドルプリキュア♪ お待たせ!キミに届けるキラッキライブ!』を観て感じたのは、この作品が「推し活の終焉」という現代的で難しいテーマに真面目に取り組んでいるという点でした。

そもそも私はプリキュアシリーズの熱心なファンというわけではないのですが、過去には『キラキラ☆プリキュアアラモード』や『スタートウィンクルプリキュア』などの作品を娘と一緒に夢中で観ていました。その中でプリキュアは「誰にでも分け隔てなく手を差し伸べる、正義と友愛のヒーロー」として描かれてきた印象が強くあります。

だからこそ、今回の映画で「推し」や「ファンサ」という言葉が何度も繰り返されることには、正直違和感を覚えました。プリキュアが特定のファンとの“閉じた関係性”に留まってしまうように感じたからです。子どもたちにどういう視点で見せたいのだろう?と考えさせられました。

それでも見終えた後、最も強く心に残ったのは「推し活の終わり方」に対する作品の答えでした。実際の推し活は、多くの場合「飽きてしまう」か「スキャンダルによって闇落ちするか」という二択になりがちです。夢中になっていたものに疲れて離れてしまう“推し疲れ”。あるいは、長く推していた存在が不祥事を起こし、過去の応援がすべて否定されたように感じてしまう"絶望"。現実には、「推し活」を幸福に終えることは簡単ではありません。

この映画でも、「推し」を失ったキャラクターが闇落ちし、自暴自棄になり世を恨む姿が描かれました。けれども最終的に示されるのは、「推しが消えても、推していた時間の思いは自分の中に残り続ける」という希望です。推し活は消え去るのではなく、心の中で生き続ける──そこに幸せな「推し活」の終わりの可能性を示唆していました。

もちろん「推される側」が美しく幕を閉じることが前提の話なのかもしれません。しかし現実にも、長嶋茂雄や山口百恵、吉永小百合のように「推される価値ある存在」として生き抜いた人々がいます。そうした「アイドル」を推した人々は、この映画が示すような「幸せな終焉」を経験できるのでしょう。

個人的に胸を打たれたのは、、一度闇落ちしたキャラクターが「自分は推しに救われていた、幸せだった」という記憶を取り戻したのち、自分の本来の役割を取り戻し、その役割を終えることで使命を次世代に託してゆく。そして託された彼女が背負った「使命」は千年もの孤独を耐え続ける過酷なものです、それでも“推しを思う気持ち”があるからこそ耐え抜ける──。その姿には『葬送のフリーレン』におけるフリーレンと勇者ヒンメルの関係を思わせるものがあり、推しと推される側の関係を美しく描いた場面で、思わず涙腺がゆるみました。

ただ一方で、大人の私が深く感動するのとは裏腹に「このテーマを子どもたちはどう受け止めるのだろう?」という疑問も残りました。「推し活」は子どもにとってまだ遠い概念だからです。

それでも、この映画を観てプリキュアを好きになった子どもたちが、10年後、20年後に再び観返したとき、当時の自分と”推しのプリキュア”との再会が、この作品のシーンに重なり、思いが甦るはずです。そう考えると、この映画そのものが子供達に贈られた“思い出のタイムカプセル”になるのかもしれませんね。

余談──推し活の終焉を描いたドキュメンタリー

蛇足になりますが、映画キミプリで描かれた“推しを失ったファンの痛みをどう癒すか”というテーマは、2024年に日本公開された韓国のドキュメンタリー映画『成功したオタク』でも同様のテーマが描かれており興味深く感じました。(こちらの作品は推しが性犯罪を犯して逮捕されるという深刻なものですが・・・)

どちらの作品も、「推し」との関係を喪失の悲劇として終わらせるのではなく、“その愛が自分をどう成長させるか”という希望のかたちへと転換している点が印象的です。もしかしたら映画キミプリにも影響を与えているのでは?と思える部分もありますので、よかったらこちらの作品もご覧ください。


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