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感想『成功したオタク』推し活国家としての韓国と日本の対比

以前から気になっていた作品でしたが、Amazonプライム・ビデオで見放題配信が始まったので、さっそく鑑賞しました。


韓国のドキュメンタリー映画『成功したオタク(성덕/Fanatic)』は、単なるファン文化の記録映画ではありません。「推し活」という個人の情熱を通して、社会の倫理や司法の成熟度、そして対象を“愛すること”の意味を問い直している作品だと感じました。 ここでは、映画から私が受け取ったメッセージを整理して書いていきたいと思います。


1. “推し”によって成長した少女と、その崩壊

オ・セヨン監督は、かつてK-POPアイドル(チョン・ジュニョン)の熱心なファンでした。推しに会いたくて初めて電車に乗り、初めてソウルへ行き、初めて外泊をし、初めてアルバムを買い、初めて人を好きになる――たくさんの“初めて”のそばに彼がいました。
「学位で1位を取りなさい」「親孝行をしなさい」「ソウルの大学へ行きなさい」といった推しのメッセージに励まされ、努力を重ねてきたと語ります。アイドルの言葉は、思春期の彼女にとって“人生の羅針盤”でした。やがてその存在が映画を志す勇気となり、“映画を作る”という夢を叶える原動力にもなります。

しかし、その推しが性犯罪で糾弾されます。自分を支えてきた存在が、同時に社会の加害者でもあったという現実を前に、どのように折り合いをつければよいのか。 推しが犯罪者になったら、ファンも加害者になるのか。罪に加担したことになるのか。この問いに、メディアや世間に「批判される」対象としてではなく、自ら向き合ったのがオ・セヨン監督であり、監督は、自分と同じように傷ついたファンたちを訪ね、彼女たちの声を聞いていきます。

裏切られた怒り、擁護したい気持ち、ただ信じていた日々を思い出す哀しみ――それらの声は、ファンダムの表層に隠されてきた「癒やされない痛み」を可視化します。

旅の途中で印象的なのが、監督の母親との会話です。監督の母は静かに、「愛とは、自分を成長させるものでなくてはいけない」と語ります。そしてラストに近く監督は、「好きになった過程が大事で、好きになった感情によって自分がどんな人間になっていくかが大切だ」とモノローグで述べます。
この言葉は、愛する存在を失ったあとも、推しを愛した自分の時間は決して無駄ではないと伝えてくれる、“推す”という行為そのものの意味を問い直し、心に明かりを灯すような言葉だと感じました。


2. 韓国における「法」と「倫理」の機能

本作を通じて強く感じたのは、韓国社会における司法の即応性と透明性です。芸能人であっても、犯罪が疑われれば速やかに捜査・起訴・量刑が進み、「人気」や「影響力」が免罪符にはなりません。そこには「社会的影響力の大きい存在ほど、より厳格に裁かれるべきだ」という明確な倫理観が根づいているように思いました。

また、司法の動きと並行して、ファンや市民が“当事者”として議論を始める文化があることも印象的です。不正や加害に対して声を上げる行為が、政治でも芸能でも当たり前のように根づいています。推しの罪を直視し、それでもなお支えるファンがいる――監督がその心理を「朴槿恵元大統領を応援し続けた支持者」に重ねる視点は示唆に富んでいます。
それは、「信仰と倫理」「愛と現実」をどう両立させるのかという問いであり、“推し”という個人への忠誠が、ときに「個人崇拝」というかたちで社会構造を映し出すという寓話でもあります。


3. 日本に見る「曖昧な免責」と“忘却の装置”

一方、日本の芸能界を思うと、どうしても「曖昧さ」が浮かび上がります。性加害の疑惑が報じられた中居正広や松本人志らの件にしても、起訴や刑罰には至らず、真相は闇の中でフェードアウトしていくことがあります。芸能事務所、テレビ局、広告主、週刊誌などの間で、不文律の“沈黙の合意”が働き、問題が時間とともに風化していくように感じられるのです。

この傾向は政治にも通じます。安倍晋三元首相の公文書改ざん問題や、いわゆる「裏金」問題などにおいて、政治責任の所在が曖昧なまま結論が見えにくくなる事例が何度も繰り返されてきました。法の裁きを受けないまま“灰色状態”が継続する構図は、司法よりも“空気”が日本社会を支配しているようにも見えます。

韓国では「法」が感情よりも優先されるのに対し、日本では「人気」や「情緒」が法の上に乗ってしまう場面がある――その違いは、単なる制度の差ではなく、社会が正義をどこに委ねているかという価値観の差なのだと感じます。


4. 「政治も推し活」の時代に

いまの日本では、SNS上で政治家や政党を“推す”文化が広がっています。しかし、その多くは韓国のような“監視と参加”を伴う市民的な推し活というよりも、“個人崇拝”に近い傾向があると感じます。政治家やタレントの不正を批判すると「アンチ扱い」され、「推しを守る」ことが善とされる場面も少なくありません

韓国のファンダムは、推しに対しても厳格です。不正があれば抗議トラックを手配し、署名を集め、謝罪や改善を具体的に求めます。そこには「推しとファンは対等である」という意識が根底にあります。
日本のファンダムはその逆で、物理的な距離は遠いのに、精神的には従属的になりがちです。「推しが全て」「推しを信じ抜くことが美徳」といった構造が、芸能だけでなく政治や宗教にも共通しているのではないかと考えさせられます。


5. 「愛」とは、自己を再生させる力

監督の母の言葉――「愛とは、自分を成長させるものでなくてはいけない」。この一言は、映画の倫理の中心に置かれているように思います。
「アイドル」という言葉は英語の“idol(偶像)”に由来し、本来は「崇拝の対象」や「神格化された存在」を意味します。現代の“推し活”が抱える難しさは、偶像を崇めるあまり、自分の倫理や判断を手放してしまう危うさにあります。

オ・セヨン監督は、偶像の崩壊を通して「信じるとは何か」「愛するとは何か」を丁寧に問い直します。推しを愛した時間は嘘ではありません。大切なのは、その愛をどう昇華し、自分をどう変えていくかという点です。そこにこそ、人が“成功したオタク”へと成熟していく道があるのだと感じました。


6. 結語──推し活と民主主義の成熟

『成功したオタク』は、ファン文化を通して社会を描く映画です。推しを愛することは、他者への想像力を育む行為であり、同時に倫理と責任を伴う社会的な営みでもあります。

韓国では“推し”が罪を犯した場合、司法と市民がそれを正面から受け止め、社会的対話が起こります。日本では、“推し”の問題が時間の中で輪郭を失っていくことが少なくありません。どちらが正しいと断じることはできませんが、法と倫理が機能する社会は、人々の愛を成熟させるのだと感じました。

オ・セヨン監督が描いたのは、「推しに裏切られたファンの痛み」だけではなく、「愛を通して人がどう成長できるか」という普遍的なテーマです。
“성덕=成功したオタク”とは、推しに会えた人のことではなく、推しを通して自分を知り、他者を理解できるようになった人のことなのだと思います。

本作を観終えて、私は、日本社会が真に成熟するためには、芸能も政治も「空気による裁き」ではなく、「法と倫理にもとづく裁き」に自覚的である必要があると感じました。 そして“推し活”も、愛を通して自分を成長させ、社会をよりよく変えるための行為へと意識を更新していけたら、より持続的で健やかな社会が訪れるのではないかと願ってやみません。

7. 余談──推し活を描いたキッズアニメ

少し余談になりますが、『成功したオタク』の“推しを失った痛みをどう抱えて生きるか”という問いは、今年公開の『映画キミとアイドルプリキュア♪ お待たせ!キミに届けるキラッキライブ!』のテーマにも通じているように思いました。

ドキュメンタリーとアニメという異なるジャンルでありながら、同時代の“ファンという生き方”をめぐる同根の問いを提示し、愛することの意味を静かに問い直しています、「推し活」についての興味深い作品ですので、よかったらこちらの作品もご覧ください。

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