ありえない物語が、なぜこんなにリアルなのか 第2部 荒唐無稽だからこそ、本音がまっすぐ届く
はじめに──本音は、直接言えない
現実の生活のなかで、「全部投げ出して逃げたい」「本当は怖いけど助けに行きたい」「誰かに自分を支えてほしい」「誰かを守るために誰かを傷つけてしまっている」といった本音を、そのまま口にすることはあまりありません。
立場や人間関係、常識への遠慮が先に立ち、自分の中で飲み込んでしまうことが多いからです。
ところが、現実には存在しない主人公たち――魔法使いの少年、銀河のガンマン、小さなホビット、森を切り開く女領主――は、私たちのかわりに、そうした本音を驚くほど素直な形で引き受けてくれます。
この第2部では、「荒唐無稽な主人公=本音の代弁者」という視点から、いくつかの典型的な場面を見ていきたいと思います。
1章 ハリー・ポッター ― 「逃げたい気持ち」の代弁
ハリー・ポッターは、世界を救う“選ばれし少年”であると同時に、「居場所のない子ども」として物語を始めます。
1-1. 「ここにいていいのか」という不安
シリーズ初期のハリーは、
ダーズリー家で虐げられ、「自分は価値のない存在だ」と刷り込まれている。
魔法界に来ても、「自分は本当にここにいていいのか」「まわりの期待に応えられないのではないか」という不安を抱え続けています。
これは、魔法云々というより、「新しい環境に放り込まれた子どもの不安」の非常に素朴な描写です。
1-2. 「全部投げ出してしまいたい」という本音
シリーズが進むなかで、重圧や喪失を重ねたハリーは、「もう全部やめてしまいたい」「ここから消えてしまいたい」と漏らす場面を何度か持ちます。
自分だけが狙われる恐怖
周囲の犠牲への罪悪感
「自分がここにいること自体が迷惑なのではないか」という自己否定
こうした感情は、現実の子どもや大人も抱えうるものですが、真正面から言葉にするのは難しい。
だからこそ、「魔法世界のヒーロー」であるハリーがそれを口にした瞬間に、私たちは安心して自分の「逃げたい気持ち」をそこに重ねることができます。
荒唐無稽な魔法学校という設定が、現実の学校や職場では言いづらい心情を、安全な距離感を保ったまま、むしろ生々しく映し出している例だと思います。
2章 ハン・ソロ ― 「逃げ腰のやさしさ」の代弁
スター・ウォーズのハン・ソロは、「本音の代弁者」として非常にわかりやすいキャラクターです。
2-1. 「金のために動く男」としての仮面
物語の序盤、ハン・ソロは
自分は金と船のことしか興味がない
反乱軍の大義にも、フォースにも興味はない
という態度を取り続けます。
彼は、「格好つけたいけれど、本当は怖いし面倒に巻き込まれたくない」という、ごく人間的な逃げ腰を、わかりやすい仮面として体現しています。
2-2. クライマックスで戻ってくる「みっともない優しさ」
ところが『新たなる希望』のクライマックス、デス・スター攻撃の場面で、
自分はもう報酬をもらった、危険な戦いには関わらない、と一度は去ったハンが、
誰も期待していないタイミングで戻ってきて、命懸けでルークを援護する、という転換が描かれます。
ここにあるのは、「最初からヒーローだったわけではない人物が、最後の一線で友だちを見捨てられない」という非常に人間くさい瞬間です。
現実の私たちも、「最初は避けようとしたのに、結局誰かを助けてしまった」という経験を持つことがありますが、それを自分で自分に対して格好よく語るのは難しい。
ハン・ソロという荒唐無稽な「銀河のガンマン」は、そのみっともない優しさを、堂々と物語の中心に置いてくれます。
彼を見ることで、「逃げ腰でいい加減な自分の中にも、捨てたもんじゃない部分があるかもしれない」と、少しだけ自分を許せる余地が生まれるのではないでしょうか。
3章 サムとフロド ― 「誰かに支えてほしい」という願い
ロード・オブ・ザ・リングのフロドとサムの関係は、「弱さ」と「支えられたい願い」を代弁する強烈な例です。
3-1. 「指輪は運べないが、あんたを担いでいく」
モルドールの荒野で、フロドがほとんど歩けなくなったとき、サムはこう言います。
「指輪は運べないが、あんたなら運べる。だから、あんたを担いでいく。」
これは、ファンタジーのクライマックスとして知られた場面ですが、そこで表現されている感情は極めて現実的です。
自分の荷物(責任・問題)は、自分自身で背負うしかない。
それでも、自分という存在だけは、誰かに支えてもらいたい。
この願いを、現実の人間関係のなかでそのまま口にするのは、なかなか気恥ずかしいものです。
しかし、小さなホビットと魔法の指輪の旅という荒唐無稽な枠組みの中なら、その言葉は素直に受け止めることができます。
3-2. 「自分一人で頑張れ」という圧へのカウンター
現代社会では、「自分のことは自分で」「迷惑をかけるな」といった自己責任の言説が強く、
「誰かに支えてほしい」「誰かに担いでほしい」と願うこと自体が、甘えとして否定されがちです。
サムの台詞は、その風潮に対して、
負えない荷物は誰にも代わりに負えないが、
荷物を負っている人そのものを支えることはできる
という、極めてシンプルで、しかしなかなか言葉にされない真実を示しています。
ここでも、荒唐無稽な物語が、現実では口にしづらい本音を、代わりに、しかも非常に美しい形で代弁してくれていると言えます。
4章 エボシ御前 ― 「誰かを守るために誰かを傷つけてしまう」現実
『もののけ姫』のエボシ御前は、「善悪」で割り切れない現実の葛藤を、そのまま抱えた人物です。
4-1. 守る相手と、傷つける相手
エボシはタタラ場の長として、病者や元遊女を集め、彼女たちに仕事と居場所を与えています。
一方で、森を切り開き、鉄を作るために自然とそこに生きる神々や動物を傷つけています。
彼女の行動は、
「町の人々を守る」という本気の責任感と、
「森を破壊する」という取り返しのつかない選択
の両方を同時に含んでいます。
4-2. 「正しい側にはいない自分」の代弁
現実の私たちも、
仕事を通じて誰かの生活を支えながら、別の誰かには負担を強いている
自分の快適さや安全の裏側で、環境や他地域に犠牲を強いている
といった構造の中で生きています。
しかし、そのことを直視し、「自分もまたエボシ的な立場に立っている」と言うのは、かなり勇気のいることです。
エボシ御前は、荒唐無稽な歴史ファンタジーの中で、
「自分は自分の人々を守る」という誇り
「そのために森と神々を殺している」という負い目
を引き受けることで、「本当は自分もそうかもしれない」という感覚を観客の中に呼び起こします。
ここでも、フィクションが現実の倫理的葛藤を、そのままの生々しさで代弁しているのだと思います。
5章 荒唐無稽=本音の避難所
ここまで見てきた主人公たちは、どれも現実には存在しない人物です。
しかし彼らは、
逃げたい気持ち
みっともない優しさ
誰かに支えてほしい願い
誰かを守ることで誰かを傷つけてしまう後ろめたさ
といった、私たち自身の本音を、そのままのかたちで引き受けてくれています。
言い換えるなら、荒唐無稽な主人公と設定は、「本音の避難所」として機能しているのだと思います。
現実そのままでは恥ずかしくて言えないことや、責められそうで怖くて言えない感情を、仮面をかぶった形で堂々と舞台に載せるための工夫。
だからこそ、荒唐無稽な物語ほど、「心のリアリティ」が強く感じられるのではないでしょうか。
第3部では、この「心のリアリティ」が欠けてしまったときに何が起きるのか――現実的なのに薄く感じる物語、観るにたえない物語、そして受け手のレディネスについて考えてみたいと思います。
第1部です👇
第3部です👇
