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三重県・伊賀上野城──高石垣の切っ先

伊賀上野城は、白い天守で親しまれる一方で、本当の見どころは本丸西側にそびえる高石垣にある。
そこを追うと、筒井定次の城を土台に、藤堂高虎が非常時の拠点として城と城下町を作り替えた流れが見えてくる。

三重県伊賀市の上野盆地に立つ伊賀上野城は、山城の荒々しさより、盆地の中で急に立ち上がる輪郭の鋭さが印象に残る。
いま目に入りやすいのは白い天守だが、この城の芯にあるのは伊賀上野城を支える地形と、藤堂高虎が築いた高石垣の迫力になる。

しかもここは、ただ一つの城で完結していない。
城のまわりに広がった伊賀上野の町や、のちに城と結びつく伊賀者の記憶まで重ねると、この城が伊賀の中心を形づくった場所だったことが分かりやすくなる。

筒井定次の城はどこから始まったか

伊賀上野城の出発点を作ったのは筒井定次になる。
伊賀市の史跡案内では、定次は1585年に伊賀へ移され、上野盆地の中央に近い丘陵最高所へ上野城を築き、本丸北東に三層の天守を建てたとされている。

ここで大きいのは、最初の城がすでに盆地支配の拠点として置かれていた点にある。
定次は城の西と北の低地に自然発生的な集落を城下として使っており、のちの改修の前から本丸と町の関係が意識されていたことが見えてくる。

藤堂高虎は何をこの城に加えたか

城の性格を大きく変えたのが藤堂高虎だった。
伊賀市の歴史資料では、高虎は1608年に入部し、筒井定次の城を土台に、非常時の拠点として大きく改修を進めたとされている。
その中心が、本丸西側にめぐらせた約30メートルの高石垣になる。

藤堂高虎

さらに高虎は、城下町も南側へ移して守りの町へ組み替えた。
そのうえで五層天守まで計画したが、1612年に完成寸前で大暴風に倒れ、その後は再建されないまま石垣と城割りの強さだけが残った。

高石垣はどこで城の強さを見せるか

伊賀上野城でいちばん切っ先のように見えるのが、本丸西側の高石垣になる。
観光案内では、この石垣は内堀に落ち込むようにそびえ、高さ約30メートルで大阪城と並ぶ日本有数の規模を持つとされており、見た瞬間に城の守りの重さが伝わってくる。

伊賀上野城 高石垣

しかもこの城の面白さは、高い石垣だけで終わらない。
両端が少し前へ張り出して側面攻撃を意識したつくりまで含めて見ると、伊賀上野城では防御の工夫そのものが主役になっていることが分かる。

城下町と伊賀者の記憶はどう続くか

高虎が整えたのは城だけではなく城下町でもあった。
伊賀市の中心市街地計画では、現在の市街地は藤堂高虎が整えた上野城下町を土台として発展したとされ、城の外へ広がる町並みまで含めて伊賀上野の輪郭が作られていったことが分かる。

伊賀市 寺町通り

その城下では、旧伊賀衆の一部が伊賀者として位置づけられ、城内や江戸屋敷の警護、有事の探索を担った。
伊賀市の資料では、彼らが住んだ一角は忍町と呼ばれ、その名が今も残るとされており、伊賀上野城は忍びの記憶まで抱えた城下の中心として続いてきた。

高石垣が語る伊賀上野城の本質

切っ先のような高石垣が残っているからこそ、伊賀上野城は白い天守以上に城そのものの強さを感じさせる。
そこへ城下町と伊賀者の記憶まで重なることで、伊賀上野城は伊賀の歴史を一か所で抱える場所として見えてくる。

伊賀上野城は天守より石垣で読む城

この回の核心は、伊賀上野城を白い城としてではなく、藤堂高虎が非常時の拠点として作り替えた防御の城として読むところにある。
そこを押さえると、三重県のこの城が今も強く印象に残るのは、天守より先に高石垣と城下町の骨格がよく残っているからだと分かりやすくなる。

ひとつ上のまとめ:三重県

ひとつ上のまとめ:悠久の記憶・城

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