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群馬県・少林山達磨寺──転びながら立つ願掛け

少林山達磨寺は、だるまで知られる寺というだけではなく、心越禅師を開山に迎えて始まった禅寺でもある。
そこを追うと、縁起だるまが願掛けの形として広がった背景に、飢饉の時代を越えようとした祈りと暮らしの知恵が見えてくる。

群馬県高崎市の少林山達磨寺は、石段の先に堂が重なり、境内のあちこちに達磨が並ぶ寺になる。
見た瞬間にだるまの寺だと分かるが、土産物の印象だけで終わらず、黄檗宗の禅寺としての筋もはっきり残っている。

この寺の面白さは、倒れない縁起物として知られるだるまが、最初から飾りだったわけではないところにある。
開山の心越禅師、飢饉後の農民救済、そして願いを託す習わしが重なって、転びながら立つ寺の姿が形づくられていった。

心越禅師はなぜこの寺の開山になったか

少林山達磨寺の始まりは1697年になる。
公式由緒では、鼻高の観音堂周辺が達磨出現の霊地として少林山と呼ばれるようになり、領主の酒井忠挙が東皐心越禅師を開山に仰いで、弟子の天湫和尚を招き少林山達磨寺を開創したと伝えられている。

東皐心越禅師

ここで大きいのは、寺の出発点に達磨像の霊験と禅の系譜が一緒に置かれている点にある。
観音堂の伝承の上に達磨大師の像が重なり、そこへ心越禅師の名が結びついたことで、この寺は願掛けだけでなく、禅寺としての骨格も持つ場所になった。

だるまはどう願掛けの形になったか

少林山達磨寺が広く知られる理由は、縁起だるま発祥の寺として語られてきたことにある。
公式案内では、だるまは達磨大師の坐禅像をもとに広がったもので、眉は鶴、ひげは亀を表し、家内安全や商売繁盛などの願いを書き入れる縁起物として説明されている。

達磨大師

つまりこの寺のだるまは、ただ丸くて倒れにくい玩具ではない。
願掛けを形にし、願いがかなって両目を入れるまでを一つの流れにしたことで、達磨寺の信仰は手に持てる縁起物として各地へ広がりやすくなった。

東嶽和尚は何を農民に広げたか

少林山達磨寺の歴史で欠かせないのが東嶽和尚になる。
公式サイトと高崎観光協会は、天明年間の飢饉のあと、九代目住職の東嶽和尚が農民救済のため、心越禅師の一筆達磨像をもとに木型を彫り、張子だるまの作り方を伝えたと案内している。

ここで面白いのは、寺の祈りが生活の立て直しと結びついたところにある。
だるま作りは信仰の象徴であると同時に、苦しい時代を越えるための副業にもなり、農民救済だるま作りが同じ場所で結びついて、高崎の名物へ育っていった。

七草大祭だるま市は何を今へ残したか

少林山達磨寺では、毎年1月6日と7日に【少林山七草大祭だるま市】が行われる。
公式の年間行事と祈祷案内では、1月7日午前2時を本尊降臨の吉日として星祭大祈祷が営まれ、開創当時から続く七草大祭に、だるま市が重なって現在の大きな行事になったことが示されている。

この行事が重いのは、寺の由緒と町のにぎわいが一つになって続いている点にある。
年の初めに願いを託し、古いだるまを納め、新しいだるまを迎える流れが毎年くり返されるからこそ、七草大祭は今も高崎の冬を代表する景色として強く残っている。

願いを持ち帰れる寺

少林山達磨寺の強さは、禅寺としての由緒と、だるまを通して願いを持ち帰れる形が重なっているところにある。
だから縁起だるまは土産ではなく、転んでも立ち直る祈りを手元へ移した象徴として今も生きている。

転びながら立つ祈りのかたち

この回の核心は、少林山達磨寺をだるまの寺としてだけでなく、心越禅師を開山にいただく禅寺と、東嶽和尚の救済の知恵が重なった場として読むところにある。
そこを押さえると、少林山達磨寺のだるまは縁起物である前に、苦しい時代でも立ち上がろうとする願いの形だったことが見えやすくなる。

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