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承久の乱──北条政子はなぜ院の命令に従わなかったのか

北条政子は、実朝の死後、皇子を鎌倉殿に迎える交渉が崩れると、幼い三寅を後継に据えた。承久の乱では、義時追討の命令を朝廷そのものへの服従問題にせず、道理に反する命令と位置づけ、御家人に頼朝以来の秩序を守るよう求めた。

源頼朝の妻であった北条政子は、頼朝の死後も鎌倉幕府の政治に関わり続けた。二代将軍頼家、三代将軍源実朝を支えたが、二人の息子はいずれも政子より先に世を去った。実朝が暗殺されると、頼朝の直系男子が鎌倉殿を継ぐ道は途絶えた。

このとき政子が向き合ったのが、京都で院政を行っていた後鳥羽院だった。政子は当初、院の皇子を鎌倉殿に迎えることで幕府を存続させようとした。しかし、その交渉はまとまらず、やがて後鳥羽院は政子の弟・北条義時の追討を命じる。朝廷の権威を必要とした政子が、なぜ院の命令に従わなかったのかをたどる。

実朝の後継を朝廷に求めた政子

三代将軍源実朝には、幕府を継ぐ子がいなかった。建保6年(1218)、政子は上洛し、後鳥羽院の近くで大きな影響力を持っていた藤原兼子と会った。『吾妻鏡』は、このとき政子が、将来は院の皇子を実朝の後継として鎌倉へ迎える構想について相談したと伝えている。

親王将軍の構想には、頼朝の直系男子が絶えた後も、鎌倉殿に高い家格と朝廷から認められる権威を持たせる意味があった。政子は北条氏の男子を将軍に立てるのではなく、皇族を幕府の頂点に迎えようとした。朝廷と対立するのではなく、その権威を借りて頼朝以来の政権を存続させようとしたのである。

親王将軍を迎えられず、三寅を選ぶ

承久元年(1219)、実朝は鶴岡八幡宮で、頼家の子である公暁に殺害された。幕府は後鳥羽院へ皇子の下向を求めたが、交渉はまとまらなかった。後鳥羽院は皇子の下向を保留する一方、摂津国の長江・倉橋荘に置かれた地頭の交代を求めた。幕府がこの要求を拒んだことで、公武の対立は深まっていった。

皇子を迎えられなかった幕府が選んだのは、摂関家の九条道家の子で、頼朝の遠縁にあたる幼い三寅だった。三寅は後に九条頼経と名乗るが、鎌倉へ下った時点では数え年で二歳だった。すぐに征夷大将軍となったのではなく、まず鎌倉殿の後継として迎えられ、政子がその後見を担った。正式に将軍へ任じられたのは嘉禄2年(1226)である。

九条頼経

義時追討の命令を幕府全体の危機へ変える

承久3年(1221)、後鳥羽院は北条義時の追討を命じた。義時個人を対象とする院宣が有力御家人へ送られ、全国の守護・地頭などへ向けた官宣旨も出された。義時を幕府から切り離し、東国の武士を院方へ従わせようとする命令だったと考えられている。

政子は、これを弟一人の問題として御家人へ訴えなかった。『吾妻鏡』では、政子の言葉を安達景盛が御家人たちへ伝えたとされる。政子は、頼朝によって官位や所領を得た恩を思い起こさせ、義時追討の命令を非義の綸旨、つまり道理に反する命令と位置づけた。そして、院へ従う者はその場で申し出るよう求めたという。

ここで政子は、天皇や朝廷の権威そのものを否定したわけではない。命令が朝廷から出されたという理由だけで受け入れるのではなく、誰の訴えによって出され、何を壊そうとしているのかを問うた。義時追討を、北条氏だけでなく、頼朝以来の所領秩序と鎌倉殿を支える御家人全体の問題へ置き換えたのである。

承久の乱後に変わった朝廷と幕府の関係

幕府軍は京都へ進み、承久の乱は鎌倉方の勝利に終わった。後鳥羽院と順徳院は配流され、乱への関与が薄かった土御門院も、父や弟と運命をともにすることを望み、都を離れた。在位していた仲恭天皇は、幕府の意向によって退位させられた。

幕府は、後鳥羽院の兄である守貞親王の皇子を支持し、後堀河天皇として即位させた。この戦後処理では、幕府が天皇と院政を担う人物の交代に直接関与した。ただし、これによって幕府が以後すべての皇位継承を自由に決めるようになったわけではない。承久の乱後の非常措置として、朝廷へ大きく介入したのである。

京都には六波羅探題が置かれ、朝廷の動向を把握し、西国の御家人を統率する幕府の拠点となった。一方で、幕府は朝廷を廃止せず、官位の授与や将軍任命など、天皇を中心とする権威も残した。公武の役割が明確に分割されたわけではないが、院が一方的に御家人を動かし、幕府の中枢を排除することは難しくなった。

政子が御家人に守らせたもの

政子が御家人に訴えたのは、弟を助けるという北条家だけの事情ではなかった。源頼朝が東国武士の所領を認め、働きに報いてきた関係を守ることだった。義時が院の命令によって排除されれば、誰が御家人の所領と立場を保障するのか分からなくなる。

政子は御家人に、朝廷と北条氏のどちらを好むかではなく、自分たちが何によって武士としての立場を得たのかを問い直させた。院の命令に逆らえば朝敵とされるかもしれない。その不安を、頼朝から受けた恩と、鎌倉を守る責任へ変えたことが、幕府方の結束につながった。

朝廷の権威を残し、院の命令を退ける

北条政子は、初めから京都との対決を望んでいたわけではない。実朝の後継を得るために院方と交渉し、公家の家格を持つ三寅を鎌倉殿に迎えた。政子にとって朝廷の権威は、幕府の継承を支えるために必要だった。

しかし、その権威が義時追討に使われると、政子は命令の内容を「道理に反する」と訴えた。武家政権を守ることは、天皇や朝廷を否定することではない。朝廷を敬いながらも、御家人の所領と鎌倉の政治を壊す命令には従わない。その判断によって、承久の乱後の朝廷と幕府の関係は大きく変わった。

前回:尼将軍の檄文──御家人を束ねる言葉

次回:北条政子──なぜ将軍でも執権でもなく幕府を動かせたのか

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