オフィスサンサーラとの25年 7 岩ちゃんがベンチャー・リンクに行った話とか
東京レディーコングへの道
私が突然「宝島」を辞めて、湯島に個人事務所を作って、わさわさやっているころ、友達のダイヤモンドの岩田誠一君も、会社を辞めてしまった。巷では、あの温厚で真面目な岩ちゃんを、胡散臭い新聞創刊話に乗せて、会社をやめさせたのは、大嶋だということになっていて、某業界では最近まで戦犯扱いを受けていたが、それは間違い。
岩ちゃんは、京都にある日本エル・シー・エーという会社の小林社長からの、熱烈なラブレターに心動かされて、小林氏が新しく創業した「ベンチャー・リンク」という会社に入り、そこの機関誌「ベンチャー・リンク」の編集長になった。
このときの小林社長の岩ちゃん宛の、分厚いラブレターを見せてもらった。なるほど、人間を口説く手紙とはこう書くものだという、お手本のような手紙だった。
端正な手書き文字で、自己紹介、そしてこれから起こす事業の概要、その可能性、その成功のために、なぜ岩ちゃんが必要か、ぜひとも必要かと、誠実に、熱烈に、書かれてあった。便箋10枚ほどもあるそのラブレターを、岩ちゃんは嬉しそうにポケットにしまった。
こんなに熱烈に口説かれたら、男として仕事冥利につきるな、そう思った。
この「ベンチャー・リンク」は、その後いろいろ物議をかもす会社になるが、創業時には明るい活気に満ちた場所だった。尋ねていくと、周りのスタッフは有能でチャーミングな女性たちで、その中心で岩ちゃんも、幸せそうだった。
私も当時は「ON THE LINE」の編集長だったけれど、「ベンチャー・リンク」誌の創刊を手伝ってくれと頼まれて、できることはした。
日本中のさまざまな中小企業の、多様な能力と、多様なニーズをリンクさせる会員システム作りと、その機関誌の創刊は、その時代のニーズに合った必要な事業に思えた。今思い出しても、本当に元気な時代だった。そこらいじゅうに、新しい事業を構想する若い経営者がいて、古臭い日本の金融のシステムに苛立っていたし、そんな停滞した環境に、新しいアイデアと金融と、経営ノウハウを注入していこうという事業構想には、確かにワクワクするものがあった。
そんな協力関係の途中から、私たち自身も、ベンチャービジネスの勢いに染まって行ったのかもしれない。2人の間で女性のための夕刊紙のアイデアが生まれて、それが、あれよあれよという間に、具体化していってしまった。これは、文字通り、具体化して行ってしまった、という感じで、このアイデアのために、誰かが動いてくれて、新しい可能性が拓けて、その可能性に乗ると、また誰かが、どんどん突き進んでくれて、次の可能性のフィールドが開ける。自分の力ではなくて、周りが広がっていく、そんな感じだった。
そしてついに、以前から親交のあった大手ノンバンクのO社から、正式に出資するとの返答があり、事業は一気に具体化することになった。
そんな最中に私は再婚もした
そんなものすごい勢いで自分も、時代も動いている最中、私は現在に至るパートナーと出会い、再婚をすることに。一方的に家出した身だったが、その後に間に人に入ってもらい、離婚することができた。息子への養育費の支払いと、定期的に会えることを約束する覚書を交わした。
それで、結婚相手はパンクロックを愛する、多分私よりも有能なフリーの編集・ライター。まあ、同業者同士の出会いだった。連載を何本も抱え、シリーズものの編集も抱えていて、私も忙しいが、彼女はもっと忙しい。でもお互いの状態が理解できたから、生活の場では補い合うことができた。
全く時の勢いとはしょうがないもので、結婚式とか、女性夕刊紙の企画の実現とか、岩ちゃんを、夕刊紙の新会社の社長にするとか、我々の新居を憧れの下町、谷中の一軒家に決めて、引っ越すとか。この谷中暮らしが、私を上野の失意の不忍池へと導くのだが、当時はそんな気配すらないし。
年が明けて、渋谷に夕刊紙のスタートアップのオフィスを開くとか、岩ちゃんがベンチャー・リンクの女性スタッフを引き抜いて、編集部に合流するとか、怒涛のような1988年だった。
ここから始まる「東京レディコング」の創刊から、あっと言う間のご臨終までのいきさつは、この前に書かれています。ぜひ、ご一読を。
それで、次回からは、「東京レディ・コング」のご臨終後、借金まみれからの、再起の物語に続きます。
