ミステリ-作品を読んで自分の見方の偏りをとらえなす~折原一さん「101号室の女」を読んで
ミステリー作品や探偵小説を楽しめることは、ある意味、幸せだなあと思います。
小学生の頃、江戸川乱歩の少年探偵団(怪人二十面相)シリーズが好きでした。
中学生の頃、シャーロック・ホームズの作品も読むようになりました。こちらは実際に殺人事件も起きて、その解決などが多く描かれていて、ちょっとドキドキしたのを覚えています。事件解決も楽しかったですが、何より、ホームズの観察眼に憧れました。どうして服の袖口の汚れやら、ひもの結び方やらで、その人物の職業やその日、何をしていたかが分かるのか、驚くと同時に、自分でもできるようになりたい!と、わけもなく、辺りにあるものをじっと見続けたり、友達の服装や電車に乗っている人の様子から、その人の気分や職業などを想像したりしたこともありました。
それからしばらく、いや、かなりの時間、ミステリー作品からは遠ざかりました。
ただ、何がきっかけだったかは分かりませんが、松本清張さんの「砂の器」や上川達隆也さん主演の「火車」などのテレビドラマを見て、なぞ解きの面白さ、事件解決のカタルシスを感じて、また、ミステリー作品を読みたくなりました。

それがちょうど、15年ぐらい前。
そこから、初めてアガサ・クリスティの本を読むようになりました。とにかく刊行されている本が多いので、それこそ、次々に読んでいきました。「オリエント急行殺人事件」では、犯人は一人か二人だろうという、自分の固定観念、思い込みが正されました。自分の気付かないところで「前提」を持っていて、その前提を基に物事を見ている危うさについて考えさせられました。「ABC殺人事件」では、出来事をつなげてしまうことで、逆に、真実が隠されてしまうことを知りました。「そして誰もいなくなった」では、フィクションと知りつつも本当に怖い思いをしました。そして、共感はできなくても、犯人の動機については、一定程度の理解はできるかもと思えました。


まだ、全ての本を読み終わっていないですが、クリスティー作品に魅せられたことで、他の作者にも目が向くようになり、東野圭吾さんや宮部みゆきさんの作品も多く読むようになりました。
東野圭吾さんは、多種多様な作品があり、毎回、新しい発見がありました。特に理系出身の作者ということもあってか、物語の構成や伏線回収の見事さに、毎回、毎回、うならされ、殺人事件の解決ばかりではなく、ファンタジーや原発、クローン、ジェンダー、脳死、コロナ禍の世の中など、現代社会の問題を物語という形で提示していたので、読みながら、なぞ解きをしながら勉強にもなりました。
池井戸潤さんの「金融ミステリー」、知念実希人さん、海堂尊さんらの「医療ミステリー」、西村京太郎さんの「鉄道ミステリー」など、同じミステリーでも、様々なジャンルがあって、世界も広がりました。
たくさん、ミステリー作品を読むようになって、殺人事件やトラブルが起こる物語を読むことが好きなんて、何の役に立つの?ちょっとこわくない?と思うこともありましたが、やっぱり、最後に探偵役の人が事件解決をし、謎が解ける場面に「自分も居合わせる」ことで、心躍って、また自分でも「解決したくなって」、次のミステリー本を探してしまいます。
ミステリー作品を読む時間を使って、ビジネス書や何かのハウツー本、資格試験の勉強をした方が「得」ではないかとすら思うこともありますが、やっぱり、次の作品を求めてしまいます。
でも、改めて考えるとミステリーに、学べることもあります。
ミステリー作品を読む中で、自然と「心理分析」をするようになりました。どうして(どういう気持ちがあって)、そんな行動をとったのか。もちろん、共感できることもあれば、全く理解できないこともあります。ただ、現実世界でも、感情移入することで、「相手を理解しよう」という気持ちや姿勢は、今まで以上にもてるようになってきた気がします。また、、出来事の背景について知ろうとする力もついてきたように思います。
宮部みゆきさんは「理由」という作品の中で
『「マスコミ」という機能を通してしまうと、本当のこと」は何ひとつ伝わらないということ。伝わるのは「本当らしく見えること」ばかりだ。そして、「本当らしく見えること」は、しばしば全くの「空」のなかから取り出される。』
と書いてありました。
出来事の当事者でなければ分からないことはたくさんあります。でも、マスコミ報道があると、「分かったつもり」になってしまいます。自分がもっているフレーム、考え方だけで「理解したつもり」になってしまい、もっといえば、マスコミの論調に流されてしまいます。
ミステリー作品でよくある「ミスリード」と同じで、ひょっとしたら、「世論操作」「印象操作」されているのかもと、いい意味で疑うことができる(全て鵜呑みにしない)ようになりました。
世界の様子を見ても、戦争や事件、トラブルの渦中にいたとしたら、あるいは、自分が死に直面したり、病気で疲弊していたりしたら、とてもミステリー作品を読むどころではなくなりますし、読もうとは思わないでしょう。
自分を取り巻く世界が平穏な時に探偵小説を楽しめます。
ミステリー作品・探偵小説を楽しめているということは、今、平穏な日々が保たれているといえます。
さて、先日、初めて、折原一さんの作品を読みました。
「101号室の女」。
冒頭から始まる怪しげで、不気味で、何かが起こりそうな予感を喚起する文章。・・・圧倒的な吸引力で、そのまま、あっという間に物語の世界に引きずり込まれます。
9つの短編が収められていますが、どれも読み始めたが最後、すぐにでも次のページをめくりたくなるような仕掛けがちりばめられています。こちらの心臓の拍動も高まってしまうようなストーリー展開とラストの大どんでん返し、様々な伏線をダイナミックに、そして見事に回収する物語の多重構造が見事です。
9つも話があると、前の衝撃の余韻に浸りつつ、今度も一筋縄ではいかないだろうなと予測し、次はどんな展開で話が進むのか、どんなラスト、衝撃が待っているのか身構えて読むのですが、それを上回る意外な真相が準備されていて、次の作品、さらに次・・・と読み進めてしまいます。
あらすじは次の通り。
サスペンス映画の傑作「サイコ」を見事に彷彿させる表題作「101号の女」、夕暮れの公園で空のベビーカーを押す男の謎に迫る「眠れ、わが子よ」、凶暴な脱獄囚が分かれた女に刻々と近づく恐怖を描く「網走まで」等、全9編を収録。巧妙な伏線とラストのどんでん返しで読者を欺く、折原マジックの集大成。
「ルビンの壺」とはデンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した図形。見方によって、壺に見えたり、顔(向きあった二人)に見えたりする不思議な絵です。1枚の絵の中に2つの「現実」があるのですが、脳の認知機能には限界があり、いわゆる盲点があって、1つのものを認知することで、他のものが目に入らなくなります。
折原さんの作品も同じで、様々な伏線や仕掛けによって、物語のラストで「見ていた絵の意味が変わる」ように、物語に与えられていた意味が変わります。180度変わります。そう、突然、ぐるりと世界がひっくり返ります。
これが読んでいて快感なのですが、同時に、現実世界で、人と対する時も自分が偏った見方をしていないか、注意が必要だとも教えてくれます。
夜空に月を見ますが、月はいつもその表側しか姿を見せていません。
そう月の裏側を見ないまま、私たちは月の事を「すべて知っている」と錯覚しています。
同じように、人の事をある一面だけを見て、「決めつけている」事が多々あります。
知ったつもりになっているなっていることが多々あります。
何が見えるか、どう見えるかは、かなりの部分で自分の「見方」に左右されます。
こんな自分の見方の癖、偏りを見直させてくれます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます
皆様の心に残る一言・学びがあれば幸いです
