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【ランニング小説】ここから先は、私の時間 第25章 大一番に向けて高まる気持ち

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第25章 大一番に向けて高まる気持ち

彼女の集中力は、水戸黄門漫遊マラソンに向けて、この上なく高まっていた。

その理由は、単に「もっと速くなりたい」という純粋な向上心からだけではなかった。
あの日、札幌のカフェで偶然知ってしまった、ある一つの「ルール」が、彼女の魂を激しく揺さぶリ続けていたからだ。

大阪国際女子マラソン。
ランニングを始め、女性ランナーのSNSに出会った時は、選ばれしエリートランナーたちだけが走ることを許された聖域だと思い込んでいた。しかし、そのきらびやかな舞台への扉は、実は一般の市民ランナーの前にも、等しく開かれているのだ。その参入障壁となる条件が、「フルマラソン3時間07分以内」という極めて明確で、それゆえに過酷な数字であると知った瞬間から、美由紀の胸の奥底で、一度灯った火種が激しく燃え盛っていた。

北海道の3時間16分から考えれば、9分という差は決して生半可なものではない。常識的に考えれば、ランニングを始めてわずか1年半の人間が挑むには、高すぎるどころか無謀な壁と言ってよかった。しかし、不思議なほどに、美由紀の心は「無理だ」と叫ばなかった。
半年前、初めてフルマラソンを走った静岡での記録は3時間42分。そこから半年にも満たない期間で、自分は26分ものタイムを削り取ってみせたのだ。
ならば、あと9分。厳密に言うと9分5秒。
決して簡単ではない。血の滲むような日々になるだろう。しかし、そこに挑む価値は、お釣りが来るほどにある。心から、そう思えた。自分との戦い。

それからの美由紀は、まるで国家試験を目前に控えた受験生のような、取り憑かれたような日々を送ることになった。
通勤電車の吊り革に掴まっている時も、オフィスでのわずかな昼休みのあいだも、泥のように眠る前の数分間でさえ、気が付けばスマートフォンで水戸黄門漫遊マラソンに関する情報を漁り、水戸で3時間7分を切るための必要なすべての要素を脳内で反芻し続けていた。

平日は、相変わらず丸の内のオフィスで、冷徹な数字と顧客への提案に向き合う実務の日々だ。営業中も頭の片隅では「4分25秒」というターゲットペースの残像が明滅していた。会議室へと向かう長い廊下を歩いているときでさえ、自分の歩調を無意識にランニングのピッチへと重ね合わせながら、「前半のハーフをどう運ぶべきか」「千波湖周辺の終盤にどうやって脚を残すか」というシミュレーションに没頭している自分に気付き、思わず自嘲気味に苦笑を漏らすことも一度や二度ではなかった。
「まさか、私がここまで走ることに狂わされるなんてね」

最初はほんの軽い気持ちだった。会社のイベントに誘われて行った皇居ラン。素敵な景色に触れ、週末に少しだけ皇居の周りで汗を流せれば、それで十分な気分転換になるだけのはずだった。
それが今や、日本のトップエリート女子たちが集う「大阪」という巨大な頂を見上げている。人生のシナリオというものは、どこで急展開を迎えるか本当に分からないものだと、美由紀はしみじみと感じていた。

だが、その夢のような目標を引き寄せるためには、お題目のような憧れや熱意だけでは1ミリも足りないことを、美由紀はこれまでの経験から痛いほど理解していた。だからこそ彼女は、北海道マラソンまでの成功の軌跡を細かく分析し、自分がこれまで行ってきた地味な努力の本質を、一冊のノートに淡々と整理していった。

月間300kmを超える走行距離。
毎週、心肺がちぎれそうになるまで追い込むインターバル走。
週末の朝は、定期的な30kmのロング走。
そして、どれほど疲れていても一日たりとも欠かさなかったプランク。
走り出す前に、必ず筋肉へ刺激を入れるためのランジウォーク。
SNSで見かけるような、華やかで映える練習など一つもない。

美由紀について、特筆すべきことは、これをたった独りでこなしているところだ。ランニングクラブやサークル、練習会には一度も参加していない。マラソンは孤独な戦いだ。特に後半は独りで、自分との勝負になる。
美由紀は、自分で練習メニューを考え、それを真面目に淡々と独りでこなしてきた。結局のところ、走るという行為は、誰の目にも留まらない退屈な反復と、地味な肉体への投資の積み重ねの先にしか、結果という果実を実らせないのだ。その真理が分かっていたからこそ、美由紀は水戸に向けて特別な練習を探す愚を犯さなかった。これまで自分が信じてやってきたことを、ただただ愚直に、より精密に磨き上げることだけを選んだ。

平日の朝、まだ街が深い眠りのなかに沈んでいる暗がりのなかで目を覚まし、冷え込み始めた駒沢公園を一人黙々と走る。
仕事を終えた夜には、皇居でマラソンペースで一周、もしくは代々木公園の織田フィールドへ駆け込み、トラックのライトに照らされながら限界ギリギリのインターバル練習をこなす。
土日になれば、仕事の疲労が溜まった身体に鞭を打ち、駒沢公園でロング走を積み重ねる。
そんな狂気じみたスケジュールが、彼女の日常において当たり前のルーチンになっていった。
当然、月間300kmを超える強度の練習が、肉体に負担を与えないはずがない。時には朝、全身を強烈な倦怠感が襲い、ベッドから這い上がることすら億劫になる日もあった。

それでも、美由紀の足が止まらなかったのは、自分自身の肉体が一歩進むごとに、確実に「深化」していく確かな手応えがあったからだ。
皇居の坂を駆け上がっても、以前のように呼吸の乱れが起きない。
向かい風のなかを突っ走っても、体幹がブレず、脚に余力が残る。
30kmを走り抜けた翌朝でも、何事もなかったかのように普通の足取りで通勤できる。
そうした、自分にしか分からない微細な変化の積み重ねが、彼女のなかに、鉄のように強固な自信を形成していった。

そして何より、美由紀の背中を静かに支え続けていたのは、サトシという存在だった。
「なんかさ、最近の美由紀、本当に本物のアスリートみたいだな」
ある日の週末、夕食の席で、サトシから不意にそう告げられた。美由紀は箸を持ったまま、「何言ってるのよ、ただのしがない会社員だよ」と笑って受け流したが、サトシの瞳の奥にある光が、冗談やからかいではなく、心からの敬意を孕んだ本気のものであることに気付き、急に顔が熱くなるのを感じた。
「普通の会社員は、仕事しながら月に300kmも走らないと思うぞ」
「走る人は、それくらい普通に走るよ」
「いや、世間一般の基準から見たら、完全に少数派のハードコアランナーだよ」
そんな、なんてことのない軽口の応酬。けれど、サトシが自分の無謀とも言える挑戦を、茶化すこともなく、心から応援し、見守ってくれているというその事実が、美由紀にとってはどんな高級なサプリメントよりも、深く心の栄養になっていた。

レースを翌週に控えた月曜日、美由紀は意識的に練習量を落とし始めた。いわゆるテーパリングの期間だ。
これまでの過酷なトレーニングで肉体の深部に溜まりきった疲労を、一滴残らず抜き去り、本番当日に細胞の一つ一つが最も爆発的なエネルギーを放つよう、コンディションをピークへと持っていくための繊細な調整期間。

月曜日から水曜日までは、あえて何もしない完全休養。木曜日に3kmだけ、レースペースの感覚を確かめるように軽く身体を動かし、金曜日に再び静養。土曜日の前日は、5kmほどの軽いジョギングに留めた。走り終えた時、「もう少し走りたい、身体が疼く」という飢餓感を残した状態で終えることこそが理想の調整であるということを、美由紀はここまでの経験から正しく学び取っていた。
肉体の状態は、自分でも恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。

膝の違和感は皆無。足裏のアーチにも嫌な張りはない。夏場から引きずっていた蓄積疲労は、テーパリングによって嘘のように霧散し、一歩踏み出すごとに、まるでバネが仕込まれているかのような軽やかな躍動感が全身を巡っていた。
「今回は万全だ」
内側から湧き上がる確かな手応えに、美由紀の胸は震えていた。

レース前夜、リビングのテーブルの上に、明日の戦闘服となるウェアや、ゼッケン、入念に選び抜いた補給食のジェルを最終確認しながらきれいに並べていく。不思議なほどに、かつてのような緊張はなかった。そこにあったのは、純粋な「期待」の膨らみだった。
静岡の時は、ただ完走できるかどうかの恐怖に怯えていた。
北海道の時は、容赦ない酷暑への警戒感に神経をとがらせていた。
しかし、今回の水戸は違う。私は守るために行くのではない。自分の限界を叩き潰し、勝負を仕掛けに行くのだ。そんな狩人のような感覚が、彼女の支配的な感情になっていた。

ベッドに入ったあとも、しばらくの間、意識は覚醒したままだった。けれど、それは不安による不眠ではなかった。明日のレースの展開を頭の中でトレースするたびに、胸の鼓動が興奮で跳ね上がってしまうからだった。
千波湖の美しい景色。
終盤の梅香トンネル。
そして、ゴール直前に待ち受けるという、あの悪名高き最後の激坂。

これまでに動画や先人のSNSで何十回と網羅してきたコースの景色が、目を閉じた瞼の裏に鮮明な3D映像となって浮かび上がる。美由紀はそっと胸に手を当て、深く静かに息を吸いながら、意識を眠りの淵へと沈めていった。

午前4時。スマートフォンのアラームが鳴る寸前、美由紀は自然とパチリと目を覚ました。
外はまだ漆黒の闇に包まれていたが、ベッドから足を下ろした瞬間に、肉体が最高の状態を維持していることが分かった。どこにも重さがない。
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分の瞳を見つめる。しっかりと力が宿っていた。用意しておいたおにぎりを、一口ずつゆっくりと咀嚼し、時間をかけて胃へと送り込んでいく。窓の外をふと見上げると、東の空がわずかに白み始めていた。これから始まる、美由紀の人生にとって最も長い一日の始まりを告げるような、静謐な夜明けだった。
完璧に支度を整え、玄関のドアを閉めた美由紀は、そのまま上野駅へと向かった。

早朝のホームには、明らかに一般の乗客とは一線を画す雰囲気をまとった、引き締まった体躯のランナーたちが数多く列を作っていた。誰もが口数は少なく、少し緊張の混じった硬い表情で電車の到着を待っている。その張り詰めた空気感は、不思議と美由紀の肌に心地よく馴染んだ。自分だけが孤独に戦っているのではない。ここにいる全員が、それぞれの限界を越えるために、同じ戦場へと向かっているのだ。そう思うだけで、心のさざ波がすっと静まり、凪のような平穏が訪れた。

やがて、滑り込んできた特急『ときわ』に乗り込み、指定された座席に腰を下ろす。
ゆっくりと走り出した列車の車窓から、都会のビル群が少しずつ遠ざかっていくのを眺めながら、美由紀はここまでの日々に想いを馳せていた。

気が付けば、窓の外には茨城県ののどかな田園風景が広がり始めていた。
ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。画面を開くと、サトシからのメッセージが一件。
『楽しんでこい』
相変わらず、拍気抜けするほど短い。けれど、今の美由紀にとっては、どんな長文の激励よりも、その一言だけで十分だった。
美由紀は小さく微笑みながら、『行ってきます』とだけ返信し、再び流れる車窓の景色へと視線を戻した。

午前7時53分、特急は定刻通り水戸駅のプラットホームへと滑り込んだ。
改札を抜け、駅前広場へと踏み出した美由紀は、真っ先に空を見上げた。数日前までの週間予報では雨マークがついていたのが嘘のように、そこにはどこまでも高く、どこまでも澄み切った、完璧な秋の青空が広がっていた。凛とした冷たい空気が、肺の隅々にまで染み渡る。
最高のマラソン日和だった。胸の奥に燻っていた最後の迷いが、その風に吹かれて綺麗に消え去っていった。

次の話 第26章:いざ、水戸の大一番!大阪国際女子マラソンの舞台を掴みとれ

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viva la vida いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。