【ランニング小説】ここから先は、私の時間 第26章 いざ、水戸の大一番!大阪国際女子マラソンの舞台を掴みとれ
ここから先は、私の時間
第26章 いざ、水戸の大一番!大阪国際女子マラソンの舞台を掴みとれ
空気を切り裂くような乾いた号砲が響き渡り、視界を埋め尽くす数千のランナーが一斉に巨大な生き物のように流動を始めた瞬間、美由紀の胸を支配していた最後の緊迫感は、嘘のように静かに霧散していった。代わりに、細胞の奥深くから、マグマのような高揚感がゆっくりと、しかし確実に湧き上がってくるのを感じていた。
いよいよ、この時が来た。
水戸黄門漫遊マラソン。
北海道マラソンの後、この日のために、多くの時間をランニングに捧げてきたのだ。駒沢公園での早朝ジョグ、休日の残暑の中、孤独に距離を重ねたあの日々も。仕事を終えた疲労困憊の身体で、織田フィールドのトラックにしがみつき、血の味がするまで追い込んだインターバル走も。
すべては、今日この42.195kmという一筋の舗装路の上で、すべての力を解き放つためにあった。そう思うと、美由紀の背筋は自然と美しく伸び、フォームに一本の揺るぎない芯が通った。
スタート直後の数kmは、完璧なまでに事前のシミュレーション通りだった。
周囲には、自分と全く同じ熱量と目標タイムを見据えたランナーたちが密集しており、無理に隙間を縫って前に出ようとしなくとも、集団の生み出す巡航速度そのものが、自然と彼女のターゲットペースへと導いてくれた。手首のランニングウォッチをチラ見する必要すらなかった。
美由紀は己の呼吸の深さ、そしてアスファルトから返ってくる反発の感触だけに意識を研ぎ澄まし、リズムを刻んだ。
夏のあいだ、限界まで肉体を苛め抜いてきた成果は、早くも証明されていた。1kmあたり「4分20秒」という、かつての自分なら数km持たずに自滅していたはずの高速域が、いまや特別なスピードではなく、まるで少し強めのジョグであるかのように身体に馴染んでいた。余計な力を使うことなく、ただ物理法則に従って身体が前方へと滑らかに運ばれていく感覚が、何よりも心地よく、美由紀を歓喜させた。
沿道を埋め尽くす水戸の市民からは、途切れることのない温かい声援が送られていた。手作りのカラフルな応援ボードを掲げる人、大太鼓を打ち鳴らして空気を震わせる人、小さな手を一生懸命に振る子どもから、パイプ椅子に腰掛けて温かい眼差しを向けるお年寄りまで。
彼らが放つ無償のエナジーが、美由紀の肉体を通過するたびに、彼女の走りをさらに軽やかに、鋭く尖らせていく。
10kmを通過しても、呼吸の波は驚くほどに平穏だった。
脚の筋肉にも、十分な弾力が残っている。
心拍数の跳ね上がりも、完全に想定の範囲内だ。
全身の細胞が、合唱するように美由紀の脳へ語りかけていた。
「今日のあんたは、いける」と。
12km付近の給水エイドが近付いたとき、美由紀は事前に叩き込んできたコースレビューの記述を思い出し、スピードを落とすことなく、迷わずテーブルの上のバナナへと手を伸ばした。
受け取ったバナナは、走りながら口にするには思っていた以上に大ぶりで、咀嚼しながら走る動作には多少のコツが必要だったが、それを丁寧に飲み込んでいくと、驚くほどの安心感が胃の腑から全身へと広がっていった。これから迎える、真の死闘となる後半戦に向けて、完璧なタイミングでエネルギーの補給を完了できたという確かな手応え。
静岡では補給に失敗して自滅した。北海道ではそれを猛省して改善した。そして三度目のフルマラソンとなる今回は、さらに先手を打った計画的かつ冷徹なエネルギーマネジメントを実行できている。その自身の「進化」の事実こそが、彼女に何よりも強固な精神的支柱を与えていた。
中間地点のマットを踏み越えた時、時計の液晶に表示されたタイムは、事前の理想プランを数十秒上回る完璧な数値を叩き出していた。92分という数字は北海道マラソンよりも5分早い。
速すぎる暴走ではない。しかし、微塵の遅れもない。これ以上ない理想の巡航。
大阪国際女子マラソンの参加資格である「3時間7分切り」という、かつては雲の上の存在だった牙城を崩すための、完璧な包囲網が敷かれつつあった。
だが、美由紀は決して浮き足立たなかった。
フルマラソンという怪物が真の姿を現すのは、常にここから先であることを、彼女はこれまでの2戦で、嫌というほど身体に叩き込まれてきたからだ。
25km通過。肉体に、まだ明確な崩壊の兆しはない。
28km通過。フォームの軸は微塵もブレていない。
そして、数々のランナーの死屍累々が築かれる鬼門、30km地点を駆け抜けた時、美由紀の心に走ったのは、恐怖ではなく純粋な「驚き」だった。
静岡で完全に脚が動かなくなった、あの距離。北海道で凄まじい壁を感じて意識が朦朧とした、あの距離。
それなのに、今日の自分はまだ信じられないほど滑らかに動けている。脚の筋肉にはまだ明確な出力が残っている。呼吸も乱れていない。何より、精神の刃が、いささかも鈍ることなく前方を睨み据えている。そのことが、たまらなく嬉しかった。
31km付近、コース図で何度も警戒していた激しいアップダウンの坂が見えてきた時も、美由紀の心は凪のままだった。事前に動画で斜度や距離を頭に叩き込んでいたアドバンテージもあったが、何よりこの夏の特訓において、坂道を何度も駆け上がり、インターバルを何度も繰り返し、脚を破壊し尽くしてきた経験が、絶対的な自信の裏付けとなっていた。
上り坂では無理にタイムを維持しようとせず、ピッチを細かくして脚へのダメージを最小限に抑え、頂上を越えて下りに入っても、重力に任せて暴走することなく、体幹で重心を正確にコントロールしながら着地の衝撃をいなしていく。ロング走の最中に何度も何度も身体に覚え込ませたあの感覚が、いま、自動操縦のように完璧に再現されていた。
そして、レースは佳境の「千波湖」へと突入する。
多くのランナーが完全に脚を使い果たし、苦悶の表情で歩を緩め始める、この大会最大の難所だ。
実際、美由紀の肉体にも、ついに本格的な疲労の牙が突き立てられようとしていた。大腿四頭筋は焼き付くような重さを帯び始め、ふくらはぎの筋肉も限界手前の張りを訴えている。呼吸のゼーゼーという音が、自分の耳にもはっきりと届くほどに荒くなっていた。
それでも――北海道の終盤で味わった、あの肉体が完全に消滅していくかのような絶望的な枯渇とは、何かが決定的に違っていた。肉体の最も深いコアの部分に、まだ戦えるだけのエネルギーの塊が残っていることが、感覚として分かっていた。
だから、前へ進める。一歩も引く気はなかった。
「よし、ここからが勝負だ!」
美由紀は呟き、大きく呼吸して整え、気合いを入れ直した。
沿道からの歓声を全身に浴びながら、美由紀は狂ったように腕を振り、前を行くランナーを一人、また一人と抜き去っていった。
35kmを通過した時には、さすがに奇跡のような脚の軽快さは消え失せていた。しかし、頭のなかを支配していたのは、「ここが勝負、乗り越えてみせる」、マラソンという競技で自分に勝ちたいという執念だった。疲労はピークに達していたが、それが走る歓びを凌駕することはなかった。
千波湖も終盤、37km付近の給水が視界に入った時、美由紀の視線は吸い寄せられるように、ある液体の入った紙コップへと固定された。
「コーラだ」
限界まで追い込まれ、酸欠状態にある肉体と脳が、強烈に糖分と炭酸の刺激を求めて叫んでいた。
静岡の頃の自分なら、走るリズムが崩れることを恐れて躊躇したかもしれない。だが、今の美由紀に迷いはなかった。速度を最小限にコントロールしながら紙コップを鷲掴みにし、走りながらその漆黒の液体を喉の奥へと一気に流し込んだ。
突き抜けるような暴力的な甘さと、炭酸の刺激が食道を駆け抜ける。その強烈な美味さに、脳の細胞が一斉に覚醒していくような衝撃を覚えた。
しかし、その引き換えとして、勢いよく飲み干した拍子にコーラが指先にこぼれ、手がベタベタとした不快な感触に包まれてしまう。走るうちに指と指が貼り付くような感覚に、美由紀は苦悶のなかで思わず小さく苦笑した。
「こんな極限状態で、私、なんて間抜けなことを気にしてるんだろう」
けれど、そんな些細なノイズを可笑しがれるだけの精神的余裕が、まだ自分に残っていることが嬉しかった。その小さな微笑みが、残り数kmの地獄を戦い抜くための、最後のガソリンとなった。
「あと皇居、たったの1周」
やがて、前方に薄暗い「梅香トンネル」の入り口が見えてきた。ここをくぐれば、文字通り残りはあとわずかだ。
トンネルの内部に足を踏み入れた瞬間、美由紀の全身を強烈な音響の壁が包み込んだ。ボランティアの学生たちの叫び声、黄色い歓声が、コンクリートの壁面に反響し、増幅され、まるで巨大なスタジアムの真ん中に放り出されたかのような地響きとなって迫ってくる。その圧倒的な人間の熱量が、疲弊しきった美由紀の皮膚から血管へと流れ込み、失われかけていた活力を強引に呼び覚ます。
「ありがとう」
元気をもらってトンネルを出た。
苦しい。脚はもう千切れそうだ。肺は火を噴いている。
それでも、絶対に止まりたくない。今日という日は、1ミリたりとも歩を緩めるわけにはいかない。
狂気にも似た執念だけで最後の折り返しを突き抜けると、その先には、このコースの象徴であり、ランナーたちを絶望のどん底に突き落とす最後の障壁が立ちはだかっていた。
通称『ボス坂』。
動画でも見た。レビューでも幾度となく読んだ。しかし、実際に40kmを走破した肉体の前に現れたその急勾配は、想像を絶する角度で天空へとそり立つ、容赦のない壁だった。
「これはマジ?」
視界に映るランナーたちの誰もが、生気を失った表情で歪んでいる。完全に足が止まり、前屈みになって歩いている者。文字通り、崩れ落ちるように立ち止まる者。
だが、そのときだった。
地獄のような坂道の応援のなかから、ひときわ突き抜けた大きな声が美由紀の鼓動を撃ち抜いた。
「1、2! 1、2!」
美由紀の肉体は、自らの意志を越えて、その狂おしいほど力強いリズムと同調を始めていた。
腕を激しく振る。膝を無理やり引き上げる。足を一歩、前へ叩きつける。
ただそれだけの単純な動作が、死ぬほど重く、苦しい。
それなのに、皆が刻む「1、2」のリズムに乗せられていると、不思議なほどに、死んでいたはずの脚が次から次へと前方へ繰り出されていく。
ここで終わって堪るものか。ここで怯んでなるものか。
美由紀は歯を食いしばり、血を吐くような思いで、その激坂を力強く一歩ずつ踏みしめ、上り詰めていった。
そして坂を上りきり角を曲がった長い直線の視界の先に、ついに、フィニッシュゲートがその姿を現した。
その瞬間、胸の最深部からせり上がってきた感情が何であるのか、美由紀自身にも判別がつかなかった。
歓喜なのか。安堵なのか。あるいは、それまでの苦痛の反動なのか。おそらく、そのすべてが混ざり合った、名前のない感情だった。無我夢中で全身を動かす。
フィニッシュラインのマットを全力で駆け抜けた直後、美由紀は手首の時計を見る余裕すらなく、ただただ酸素を求めて激しく肩を上下させ、数秒間、崩れ落ちるようにその場に立ち尽くした。世界が激しく回転していた。
やがて、かすむ視界のなかで、震える左手首を目の前へと引き寄せる。液晶画面に表示されていた、その運命の数字は――。
「3時間6分48秒」
3時間07分切り――大阪国際女子マラソン、出場資格獲得。
その事実を認識した瞬間、美由紀の瞳から、堰を切ったように熱い涙が溢れ出た。
あの春の日、皇居ランで半蔵門で止まった悔しさでランニングに取り憑かれた日から、今日この瞬間まで。自分が信じて積み重ねてきた地味で孤独な努力のすべてが、ついに、あの選ばれたエリートランナーだけが集う大きな夢の舞台へと、確かに繋がったのだ。
次の話 第27章:突然の知らせ
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いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。