【ランニング小説】ここから先は、私の時間 第27章 突然の知らせ
ここから先は、私の時間
前の話 第26章:いざ、水戸の大一番!大阪国際女子マラソンの舞台を掴みとれ
第27章 突然の知らせ
十一月の東京は、鮮やかな秋の名残を惜しむ間もなく、冷徹な冬の気配を街の隅々にまで滑り込ませつつあった。
水戸黄門漫遊マラソンから二週間ほどの時間が流れた頃、美由紀の日常は、一見するとそれまでと何ら変わりのない、平穏なサイクルへと戻っていた。しかし、彼女の頭の中は、来年一月の大阪国際女子マラソンで埋め尽くされていた。
つい数ヶ月前までは、別世界の住人たちが競い合うイベントだと信じ込んでいたその最高峰の舞台。その栄えあるスタートラインに、今度は「藤崎美由紀」という一人の市民ランナーとして立つことができる。その厳然たる事実は、どれほど時間が経過しても、彼女にとってどこか夢の続きのような、浮遊感を伴う出来事であり続けていた。
大手町のオフィスで日々の激務を終えると、彼女の足は、磁石に吸い寄せられるようにして自然と皇居へと向かった。独りで冷たい風を切りながらジョギングをこなすあいだも、脳裏を満たしているのは「大阪でどう戦うか」という具体的な戦略ばかりだった。休日になれば、書店で専門のランニング雑誌を買い漁り、トップアスリートたちのインタビュー記事を熱心に読み解きながら、本番までの残り二ヶ月少しという限られた時間のなかで、自らの肉体をさらに一段上のレベルへとビルドアップするためのメニューを、真剣に、そして貪欲に構築し続けていた。
しかし、人生というロードには、本人のどれほどの努力や、鋼のような根性をもってしても、1ミリたりともコントロールできない理不尽な急勾配や障害物が存在し、それはある日突然、何の前触れもなく、平穏な日常の真ん中に突き立てられることがあるということを。このときの美由紀は、まだ知る由もなかった。
大学時代、美由紀にとって最も心の距離が近く、お互いのすべてをさらけ出せる唯一無二の親友、それが梨沙だった。
二人が初めて言葉を交わしたのは、大学一年生の春、新緑が眩しい音楽サークルの新入生歓迎ライブの日だった。当時の美由紀は、今以上に内向的で人見知りが激しく、新しい環境に馴染むことに強い恐怖と緊張を覚える不器用な性格だった。先輩たちの華やかな演奏が行われる部室の片隅で、誰一人として話しかけることもできず、ただ小さくなって佇んでいた美由紀の隣へ、まるで何年も前からの幼馴染みのような気安さで、すっとやって来たのが梨沙だった。
「ねえねえ、あのステージの真ん中でギター弾いてる先輩さ、絶対裏でめちゃくちゃモテるタイプだよね」
初対面とは到底思えない、あまりにも唐突で、遠慮のないその物言いに、美由紀は緊張も忘れて思わず吹き出してしまった。
その日を境に、二人の距離は急速に縮まり、やがて切っても切れない関係になっていった。
サークルの練習が終われば、深夜まで開いている小汚いラーメン屋へ繰り出して未来を語り合い、ライブが間近に迫れば、スタジオの閉塞感のなかで朝が来るまで音合わせを繰り返した。打ち上げの席では、当然のように終電を逃し、始発の電車が動き出すまで駅前の喫茶店でくだらない恋愛話や将来の不安を語り明かすことも、二人のあいだではありふれた日常のひとコマだった。
恋の悩みに胸を痛めるときも、就職活動の理不尽さに心が折れそうになるときも、お互いを支える言葉の真ん中には、常に相手の存在があった。大学生活の四年間という青春のアルバムをめくったとき、どのページを切り取っても、美由紀の記憶のすぐ隣には、必ず梨沙の弾けるような笑顔があった。
二人の性格は、面白いほどに正反対だった。
美由紀は何か新しい行動を起こす前に、必ず精緻な計画を立て、リスクを排除し、失敗しないための石橋を叩いて渡るタイプ。対する梨沙は、「とりあえず面白そうだから飛び込んでみて、大怪我したらそのときに考えればいいじゃん」と言ってのける、天性の楽天家であり、行動派だった。その梨沙の持つ圧倒的なまでの向こう見ずな明るさに、美由紀がこれまで何度窮地を救われ、狭い殻から引っ張り出してもらったか知れなかった。
美由紀が仕事や人間関係で深く落ち込んでいる時には、梨沙がくだらないギャグで腹の底から笑わせてくれたし、逆に梨沙が人知れず深い悩みを抱えているときには、美由紀が夜通し彼女の言葉に耳を傾けた。だからこそ、二人は「親友」という言葉の定義を越えた、魂の片割れのような存在だったのだ。
大学を卒業し、別々の道を歩み始めてからも、その絆の強さが揺らぐことはなかった。
社会人という荒波に揉まれるなかで、学生時代のように頻繁に顔を合わせることは難しくなったものの、数ヶ月に一度は必ずお洒落なレストランや居酒屋でテーブルを挟み、お互いの近況を容赦なく報告し合う時間が自然と続いていた。お互いの誕生日には、0時を回った瞬間に必ずメッセージを送り合い、一年の終わりにはどちらかの部屋でその年の出来事を総括することが、暗黙の恒例行事となっていた。
大手証券会社の営業職という、数字のプレッシャーに追われる日々の苦労を美由紀がポツリとこぼせば、梨沙は「美由紀は真面目すぎて、肩に力が入りすぎなんだよ」と笑いながらワイングラスを傾けて聞いてくれたし、逆に梨沙が職場の理不尽な人間関係に遭遇して怒りを爆発させた時には、美由紀が夜遅くまで電話を繋いだまま、彼女の心が落ち着くまで相槌を打ち続けた。
そんな関係が、気が付けば7年近くも続いていたのだ。美由紀の青春の変遷を、最も近くで、最も正確に見守り続けてきた絶対の証人。それが梨沙という存在だった。
当然、美由紀がランニングという未知の趣味にのめり込んでいく過程も、梨沙はすべて特等席で眺めていた。
社会人二年目の春、会社のイベントで初めて皇居を走り、息も絶え絶えになりながら帰宅した日も、美由紀が真っ先に電話で報告したのはサトシではなく梨沙だった。そのとき、梨沙は受話器の向こうで大爆笑しながら、こう言い放ったのだ。
「あの運動大嫌いだった美由紀が皇居ラン? どうせ三日坊主で、来週にはシューズがクローゼットの肥やしになってる方に、私は賭けるね」
しかし、その梨沙の予言は、これ以上ないほど鮮やかに裏切られることになる。
美由紀はランニングの魅力に文字通り取り憑かれ、ハーフマラソンの過酷さを知り、静岡マラソンで42.195kmの地獄を這うようにして完走。さらに過酷な夏の北海道マラソンではサブ3.5を達成し、そしてついには、先日の水戸黄門漫遊マラソンで3時間6分48秒という記録を叩き出し、大阪国際女子マラソンへの出場資格という、市民ランナーの最高峰の勲章まで手に入れてしまった。
その美由紀の「異常なまでの進化」のステップを、梨沙はまるで自分のことのように喜び、祝福してくれた。
静岡マラソンを完走した時は「ちょっと待って、私の親友が本当に別次元のアスリートになっていくんだけど、サイン今のうちに貰っといた方がいい?」と目を丸くして驚き、北海道マラソンの結果を伝えた時には、「私だったら42kmなんて、エアコンの効いた車で移動するのだって嫌なのに、自分の足で3時間ちょっとで走り抜けるなんて、もう尊敬を通り越して恐怖すら覚えるわ」と、いつもの調子で軽快に笑い飛ばしてくれたのだ。
十一月中旬の、よく晴れた昼休み。
美由紀のスマートフォンに届いたその一通の通知に、彼女はかつてない冷たい違和感を覚えた。
丸の内のオフィスビルの地下にある、お気に入りのカフェへと向かう混雑した通路のなかで、ポケットのスマートフォンが短く、重く震えた。画面を表示させると、送り主の名前には「梨沙」とあった。
メッセージの本文は、あまりにも簡素だった。
『時間ある時に電話できる?』
たったそれだけの、味気ない文字列。
だが、美由紀はその場に足を止め、周囲の会社員たちの流れに取り残された。心臓の鼓動が、嫌なリズムで跳ね上がるのを感じた。
梨沙は、このような回りくどく、含みを持たせた連絡の仕方をする人間ではなかった。食事の誘いなら「今週金曜空いてる?」と具体的に送ってくるし、愚痴や相談があるなら「今夜、緊急で話聞いて!」と感情のままにぶつけてくる。用件の本質を曖昧な霧に包んだまま、相手の都合を伺うような、そんな気遣いという名の「壁」を作ることは、彼女の辞書にはないはずだった。
だからこそ、その短い一文の裏に隠された、得体の知れない「重さ」が、美由紀の胸の奥底に鋭い棘となって突き刺さった。
その日の夜、仕事を大急ぎで片付けて自宅へと滑り込んだ美由紀は、上着を脱ぐのもそこそこに、すぐに梨沙の番号をタップした。
コール音が数回鳴ったあと、繋がった受話器の向こうから聞こえてきた梨沙の声は、最初の十分ほどはいつもと全く変わらない、聞き慣れたトーンだった。最近ハマっているテレビドラマの文句や、共通の知人の結婚式の噂話などでひとしきり笑い合い、話題が水戸黄門漫遊マラソンのことに及んだときには、梨沙が「これから私の周りで『俺、マラソン走ったことあるんだよね』ってイキる男が現れたら、すかさず美由紀の3時間の記録を突きつけて黙らせるわ」と、いつも通りの小気味よい冗談まで飛ばしていた。
その梨沙のいつもと変わらぬ調子に、美由紀も「なんだ、私の取り越し苦労だったか」と、胸の奥の支えをすっと下ろし、安堵しかけていた。
しかし、会話の潮目が、不意に途切れた。
受話器の向こう側で、梨沙がふっと沈黙し、小さく、深く息を吸い込む気配が伝わってきた。そして、これまでに一度も聞いたことのないような、低く、凪いだ静かな声で、彼女はこう告げた。
「……実はね、美由紀。私、近いうちに入院することになったんだ」
その瞬間、美由紀の思考は、すべての機能を停止した。喉の奥が完全に干からび、言葉という形を持った音が、1文字も出てこなかった。
梨沙はその後も、淡々と、まるで他人のカルテを読み上げるかのような落ち着いた口調で、医師から告げられた具体的な病名のこと、これからどのような精密検査を行う予定なのか、そして今後想定される治療のスケジュールについて説明を続けてくれた。しかし、美由紀の脳のなかでは、最初に突きつけられた「入院」という二文字の響きだけが、何度も何度も反響し続けていた。彼女の口から紡がれる専門的な医療用語やこれからの段取りは、まるで遥か遠くの嵐のなかから聞こえてくる、意味を持たない雑音のようにしか脳に届かなかった。
決して、軽い病気ではない。それだけは、嫌というほど理解できた。
電話を切ったあとも、美由紀は照明を落としたソファの上から、しばらくの間、身動き一つすることができなかった。
美由紀の脳裏には、大学の部室の片隅で自分に最初の一声をかけてくれたあの日の梨沙の姿や、自分の自己ベスト更新を飛び跳ねて喜んでくれた彼女の顔が、止めどなく溢れ出していた。
そして、この夜、美由紀は、一睡もすることができなかった。
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いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。