【ランニング小説】ここから先は、私の時間 第28章 揺らぐ日々
ここから先は、私の時間
第28章 揺らぐ日々
病院からの帰り道、美由紀は有楽町駅のプラットホームの真ん中で、幽霊のように長い間立ち尽くしていた。
目の前には、仕事帰りの疲れ切った会社員たちをすし詰めにした山手線が滑り込み、ドアが開くと同時に人々が濁流のように足早に乗り込んでいく。しかし、そのありふれた都会の日常の光景は、今の美由紀にとっては、まるで薄いガラス越しに眺める遠い異世界の出来事のようにしか感じられなかった。頭のなかを占めていたのは、ほんの少し前まで、白いカーテンで仕切られた無機質な病室のなかで交わしていた、梨沙との会話の残像だけだった。
病室のベッドの上にいた梨沙は、美由紀が部屋に入った瞬間から、いつも通りにケラケラと笑っていた。看護師の愚痴を言い、病院食の味気なさを笑い飛ばし、悲壮感など微塵も感じさせない調子で冗談を連発していた。
だからこそ、その無理に作られた明るさが、美由紀の胸を容赦なく締め付け、張り裂けそうなほどの痛みを残した。
人は、本当に耐え難いほどの苦痛や恐怖のどん底に突き落とされたときほど、周囲の最愛の人間に余計な心配をかけまいとして、過剰なまでに明るく振る舞い、道化を演じてしまうことがある。美由紀自身、証券会社の営業という過酷な現場で、どれほど心身が摩耗し、泣き出したくなるような局面であっても、顧客の前では完璧な鉄の笑顔を作り続けてきた経験があった。だからこそ、親友のあの「無理をして作った、あまりにも健気な笑顔」の裏にある得体の知れない恐怖が、痛いほど理解できてしまったのだ。
滑り込んできた次の電車に乗り込み、冷たい窓ガラスに額を押し当てるようにして立つ。流動していく東京の夜景が、ガラスに付着した結露の向こう側でぼんやりと歪み、滲んで消えていった。
本来であれば、今頃はウェアに着替え、冷え込み始めた皇居の暗がりのなかで、ジョギングをこなしているはずの時間だった。水戸黄門漫遊マラソンを最高の形で終えたあとも、肉体のコンディションは奇跡的なまでに高いレベルを維持しており、大阪国際女子マラソンという一生に一度の大舞台へ向けて、最も強度の高い「実戦練習」のフェーズへと移行し始めていた、まさにその矢先だった。頭のなかのカレンダーには、平日の夜は皇居でのジョギング、織田フィールドでのインターバル走、週末は30kmのロング走という、緻密で妥協のない数字が整然と並んでいたはずだった。
しかし、今日の自分には、ランニングウェアに袖を通し、シューズの紐をきつく締め上げるだけの精神的なエネルギーが、1滴も残っていなかった。
帰宅し、鍵を玄関の床に放り投げても、いつもなら真っ先にチェックするランニングアプリを開く気など微塵も起きない。ただ仕事着のまま、リビングのソファへと崩れ落ちるように腰を下ろし、テレビのリモコンを適当に押し込んでみたものの、画面の向こうで流れるバラエティ番組のタレントたちの笑い声は、彼女の脳の表面を滑り落ちていくだけだった。気が付けば、時計の針だけが冷酷に深夜の領域へと進んでいた。
そして、その数日後。
不意に美由紀のスマートフォンが震えた。
送り主は、実家の母親だった。
勤務時間中のオフィスだったため、大急ぎで席を立ち、静まり返った非常階段の踊り場へと駆け込んで折り返しの通話をかける。受話器の向こうから聞こえてきた母親の声は、一見すると平静を装っているようだったが、その声の端々が、凍りついたように硬く強張っているのを美由紀の耳は見逃さなかった。その時点で、全身の毛穴が収縮するような嫌な予感が走っていたが、次に母親の口から紡がれた言葉を聞いた瞬間、美由紀は足元のアスファルトが消滅し、底なしの暗闇へと落下していくような、凄まじい悪寒に襲われた。
「……美由紀、落ち着いて聞いてね。お父さんの体にね、がんが見つかったの」
幸いにも発見は初期段階であること。
来月早々の手術によって、病巣を完全に切除できる可能性が極めて高いこと。
現時点の精密検査では、他臓器への転移の兆候は見つかっていないこと。
医師からの詳細な説明を理性的になぞれば、決して絶望的な状況ではなく、むしろ現代医療においては十分に戦えることは理解できた。
それでも、美由紀の胸のなかに宿った巨大な氷塊は、1ミリも溶けることはなかった。幼い頃から、どんなときも自分を大きな背中で守り、無条件の愛情で支え続けてくれたあの頑健な父親が、いま、病院の白いシーツのなかに囚われようとしている。その冷酷な現実の質量は、25歳の彼女が受け止めるにはあまりにも重すぎた。
その週末、美由紀は数ヶ月ぶりに実家へと向かった。
病室のベッドに腰掛けていた父親は、美由紀が想像していたよりも遥かに元気そうな様子だった。娘の悲痛な顔を見るなり、「おいおい、そんなこの世の終わりみたいな顔をして実家に帰ってくるな。お前がそんなだと、こっちまで本当に重病人になった気がしてくるじゃないか」と、逆にこちらを気遣うような冗談を言う心の余裕さえ見せていた。
だが、病棟の廊下に漂うあの特有のツンとした消毒液の匂いや、不自然なほどに真っ白なシーツ、そして父親の手首に巻かれた無機質な入院患者用のリストバンド。それらのディテールを目にするたびに、どれほど父親が気丈に振る舞っていようとも、彼の肉体がいま健康の軌跡から外れ、病魔との闘いの渦中にあるのだという現実を、嫌というほど突きつけられる。
面会時間を終え、病院のエレベーターを待つあいだ、美由紀は壁に頭を預け、肺の底から深く、重い息を吐き出した。
ここわずか数週間のあいだに、自分の人生を構成していたはずの美しい景色が、音を立ててモノクロームの砂漠へと変貌してしまったような感覚だった。
梨沙の突然の入院。そして、父親の身体を蝕むがん。
どちらの悲劇も、自分というちっぽけな人間の努力や、どれほどの根性をもってしても、1ミリたりとも解決の手助けすらできない領域の出来事だった。
音楽やランニングは、やればやった分だけ上手くなれる。練習を積めば、確実に目標とする結果へと近付くことができる。仕事や勉強もそうかもしれない。
これまでの人生において、美由紀が信じてきた世界は、常に自分の行動と結果が美しい比例関係で結ばれた世界だった。
しかし、病魔の前では、人間の努力など何の役にも立たない。無条件の理不尽が、ただそこにあるだけだ。その圧倒的な無力感の前に、彼女の心の軸は激しくブレ始めていた。
大阪国際女子マラソンまでの残された日数は、カレンダーのなかで容赦なく、確実に減り続けていた。
本来であれば、残り2か月、再び調子をピークに持っていくための「最重要期間」に突入しているはずだった。それなのに、今の彼女にとって、皇居へと向かう足取りは泥のように重かった。仕事を終え、義務感だけで練習をこなしていても、手首の時計のラップタイムを確認するたびに、梨沙の病室の白い天井や、父親のリストバンドの残像が脳裏をよぎり、以前のように「走ること」の純粋な領域へと意識を集中させることが、どうしてもできなくなっていた。
十一月が終わりに近付く頃には、彼女の週間走行距離は、事前の計画書の半分にも満たない無惨な数字にまで落ち込んでいた。
それまで毎日のようにアプリやノートに美しく積み上げていたランニングの記録が、ぽつり、ぽつりと途切れていくことに、焦りや恐怖を感じないわけではなかった。しかし、それ以上に、梨沙の病状の行方や父親の来るべき手術の成否が気掛かりで、自分でも信じられないほど、自らの人生における「走ること」の優先順位が、地の底へと急降下していくのを止められなかった。
そんなある冬の日の夜、仕事帰りの満員電車の揺れのなかで、黒く暗転した窓ガラスに映し出される自分の、ひどく疲れ切った顔を見つめながら、美由紀はふと思った。
(大阪、走るのやめようかな)
大阪国際への出場資格をもぎ取ったあの瞬間、私は確かに、世界のすべてを手に入れたかのように嬉しかったはずなのに。どうして今、あの憧れの舞台が、まるで見知らぬ他国の出来事のように、こんなにも遠く霞んで見えるのだろう。
走る意味を完全に失ってしまったわけではない。決して諦めてしまいたいわけでもない。ただ肉体の進化スピードに、自分のちっぽけな心が、どうしても追いついていかないのだ。
人生には、ランニングよりも、タイムを1秒縮めることよりも、遥かに大切で、失ってはならないものが存在する。
そんな、あまりにも当たり前で、あまりにも重い真理を、今さらになって残酷な形で思い知らされていた。
次の話 第29章:消えない灯
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いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。