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電磁幽体先生『妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―』読書感想文

 田中さんは普段、牢屋に入れられている。
 昔、たくさん人を殺したらしい。
 ボランティアとして女子刑務所で受刑者の話し相手をしてきなさいと学校の先生から言われたときは、恐怖と興味が半分ずつあった。
 だけどボランティアの当日になると、そのどちらも消え失せ、他人の宿題を押しつけられたような、不快な義務感だけがまとわりついていた。
 古い刑事ドラマで見たことのあるアクリル板で仕切られた個室で面会するのかと思っていたら、刑務所の中庭まで案内され、そこに田中さんはいた。
 ほがらかな笑顔で私を迎えてくれた田中さんは、とても悪人には見えなかった。囚人服だって、とても似合ってない。
 自己紹介をした私に向かって、田中さんは「あらあなた、妖精さんと同じ名前なのね」と嬉しそうにこぼした。
 そう言われて、率直に私はこう思った。
 かわいそうに。このおばあちゃん、もうボケちゃってるんだな。

「なつかしいわ」しわしわの顔と声で田中さんはこっちを見ている。「私にも、あなたみたいなときがあったのよ」
「そうなんですか」
 そりゃあ年上なんだからそうでしょう、などと野暮やぼなことは言わない。
「その制服はどこの学校?」
 私は通っている高校の名前を告げた。
「素敵な名前の学校ね」と田中さんは微笑む。
 適当な学校名を答えても、全く同じ言葉が返ってきた気がする。
「ねえ妖精さん。あなた、甘いものは好き?」
 どうやら私の呼び名は妖精さんで固定されたようだ。
「甘いものは、そんなに好きじゃないですね」
「あらあら大変、妖精さんは甘いものしか食べられないのに」
 田中さんは口に手をあてて心底おどろいている様子だ。
 どうしよう、帰りたい。
 刑務所ここにきてまだ五分も経ってないけど、年寄りの相手はこうも疲れるものなのか。
 甘いものは嫌いじゃない。むしろ好き。
 ただ、自分を知ってほしくなくて、嘘をついた。
「ところで妖精さん」田中さんは首をかしげながら私にいてきた。「あなたは誰を殺そうとしたの?」

 ぎょっとする私を見つめながら、田中さんはつづけた。
「なつかしいわ。私にも、あなたみたいなときがあったのよ。まだ罪を犯していない、だけど、とても危ういときが……」
「…………わかるんですか?」
 バッテリーの切れかかったロボットみたいに、ぎこちなくたずねた。
 田中さんは日が沈むように、ゆっくりとうなずく。
「ええ、だって妖精さんは昔の私にそっくりだから」
 見た目のことをいってるんじゃないのよ、私は妖精さんみたいに美人さんじゃないからと田中さんは笑う。

 ついカッとなって、という表現がある。
 衝動的にバカなことをしてしまったときによく使われる言い回しだ。
「ついカッとなってやりました、と言いなさい」
 先生からそんな助言を受けたけど、私はしたがわなかった。
 ついカッとなってしたわけではないからだ。

 それはそれは本当に何の理由も脈絡みゃくらくもなくはじまった。
 きっと前世はネオンサインに違いないと思うほど自己主張の激しい一人のクラスメイトから、ある日、執拗しつようからまれだしたのだ。
 わざと体をぶつけてくる、私物を壊される、足を踏まれる、綺麗ではない言葉を吐いてくる。
 何度もやめてと言ってはみたものの、変化はなかった。
 同じ言語で会話をしているはずなのに、話が通じないのは困ったものだ。
 そして数日前、彼女は私の髪型が自分の髪型と似ているのが気に入らないという理由で、断りもなく私の髪をはさみで切った。
 私は反省した。
 これは私が悪いのだ。
 話の通じないとわかっている相手に対話で解決を試みた私が愚かなのだ。
 私は席を立ち、クラスの後方に設置されている掃除用具入れを開けると、そこから雑巾を二枚取って席に戻り、ニヤニヤと私を見ているネオンライトさんの口の中に一枚目の雑巾をねじ込んで、それから彼女の足を払って床に仰向けに倒す。
 彼女に馬乗りになった私は二枚目の雑巾で自分の拳をくるむと、その拳をかかげて、ネオンサインさんの顔面を何度も殴打した。

 ネオンサインさんの顔が打撃と血でほどよく赤く染まったとき、私は思い出した。
 彼女は私と同じ髪型がお気に召さなかったのだ。
 私は親切なので、彼女の髪を私とは似ても似つかないほど切り刻んであげた。前衛芸術だといえば何人かは信じてくれそうなカットに仕上がる。
 だがそこで気づきを得る。
 髪型が気に入らないのは本質ではないのだ。
 問題はそれを認識してしまうこと、つまり変えなければならないのは、髪ではなく、目だ。
 私は手にしているはさみ尖端せんたんを彼女の瞳に近づける。
 何をされようとしているのか理解したネオンサインさんは、口の中に押し込まれていた雑巾を吐き出して急に教養が身に着いたみたいに、ずいぶんと丁寧な言葉遣いで泣き叫びながら私に許しをいはじめた。
 過去に何度もやめろと言ってもやめなかったのだ。私がこいつの言葉に耳を貸す道理はない。
 というか、うるさい。
 根本を断ち切るべきだと判断した私は、鋏の先を彼女の左胸に──
 そこで教室に駆けつけた先生によって引きはがされてしまった。
 率直に、私はこう思った。
 しい。

 その日の放課後、校長室に呼び出された。
 そこには校長と担任の先生の他に、中年の男と女がいた。
 ネオンサインさんの両親なのは見た目と雰囲気でわかった。父親は政治家だか社長だか、とにかく偉い人なのは知っている。
「ついカッとなってやりました、と言いなさい」
 先生からそんな助言を受けたけど、私はしたがわなかった。
 ついカッとなってしたのではない。
 ついにカッとなってしたのだ。
「娘は病院で怯えながらずっと悲鳴をあげている、どうしてくれるんだ」とネオンサインパパはえる。
 やはり彼女はネオンサインだったのだろう。いつも派手に自己主張するくせに軽く叩いた程度で壊れてしまったのだから。
 土下座をしろ、親に賠償させる、とかなんとかおっしゃるので、私は面倒になって最後の手段を最初に使うことに決めた。
 ウェアラブルデバイスを起動させて、これまで記録してきたネオンサインさんの数々の雄姿をご両親にご覧いただいた。
 そして一言「私がもう一度ひとさし指を動かしたら、お父様の仕事関係の方全員に娘さんのこの映像と音声が一斉送信されますけど、どうします?」
 ネタバレをすると、これはハッタリだ。
 だけど効果があるのはわかっていた。
 政治家だか社長だか知らないけど、とにかくどこかの偉い人であるネオンサインパパは、娘が病院送りにされたことなど忘れてしまったようで、自分の保身に必死といったお顔で「何がのぞみだ?」と訊いてきた。
 私は素直に「じゃあとりあえず土下座と、あとは──おこづかいほしいな」と伝えた。
 その日の夜。当分は不自由なく遊んでいられるだけの入金を確認して、私はネオンサインパパの関係者全員に彼の土下座画像をプレゼントした。
 翌日、刑務所にいって無期懲役の受刑者とお話しをしてこいと、先生から指導があった。

「相手はまだ生きてるの?」
 刑務所の中庭にて。昨日の夕飯は何だったの? くらいの感覚で田中さんは訊ねてきた。
「順調に回復してるみたいです」
 ご飯も、もりもり食べているそうだ。
「よかった」なぜか田中さんが安堵あんどしている。「お腹がすくのは一番よくないことよ」
「そうなんですか?」
 正直、納得しかねる私に田中さんは「最初に人を殺したのは、お腹がすいたせいだったから」と遠い目で答えてくれた。
 しばらく沈黙したのち、私の口から出てきたのは、受刑者に向ける学生の言葉としては実に理想的なものだった。
「よかったら、そのときのことを聞かせてもらえませんか?」
 少し困った顔をした田中さんだけど「妖精さんが聞きたいなら」とうなずいて、過去を語りはじめる。

 私が妖精さんと同じくらいの学生だったころ、親とうまくいってなくて、家を飛び出したの。
 今思えばどうしてあんなことでって気持ちもあるけれど、でもあのころはそれが死活問題だった。
 何日も家に帰らなくて、学校や友達に助けてもらうのも何だか恥ずかしくて、お金がなくなって、スマホの充電も切れて、私は一人、なんともないってフリをしながら街を歩いてた。
 だけど限界はすぐにきて、お腹がぺこぺこでこのままここで餓死するじゃないかって倒れそうになったとき、目の前にあったオープンカフェで男の人がカレーライスを食べはじめたの。
 ただのカレーライスじゃなくて、とんかつやエビフライやソーセージがいっぱいトッピングしてあって、なんだか奇跡みたいな食べものに見えたの。
 しかも、実際に奇跡は起きたの。
 その男の人はスマホを取り出して誰かと話しはじめると、慌てて席を立って、どこかに走っていった。
 テーブルの上にはほとんど手をつけてないカレーライス。
 私は神様からの贈りものだって信じた。
 急いで席について、がむしゃらにカレーを食べていたら誰かが私の名前を呼んで、顔を上げると、そこにはクラスメイトの女の子がいた。
 彼女は軽蔑けいべつするような目で私を見ながら、そんなきたないことはやめなさいって言った。
 正論よね。
 だけど私は飢えていたことの苦しさや意地汚いところを見られた恥ずかしさで頭がこんがらがって、彼女を一番傷つけることを口にした。
 そこで取っ組みあいになって、それをとめにきた彼女のお兄さんを突き飛ばしたか、刃物で刺したかは忘れてしまったけど、とにかく結果として私は彼女のお兄さんをあやめてしまった。
 刑務所に入れられて、そこで私は六人殺した。

 思っていたよりも壮絶であると同時に、重要な箇所を大胆に端折はしょられてもいた。
「クラスメイトのお兄さんのことはわかったんですけど、そのあとの六人はどういう理由で?」
 私の問いに田中さんは「声を奪われたから」と答えた。
「声?」
「私にはどうしても聞きたい声があった。あの人たちはそれを奪った」
「誰の声なんですか?」
 田中さんはまぶたを閉じて、記憶の奥底までもぐるような顔つきで「……わからない」とこぼした。「367ページにいたのは、誰なの?」
「ページ?」
 一体、何の話?
「私の入った刑務所には広い図書館があって、そこには一つの決まりがあったの。自分が罪を犯した日に発売された本をわたされて、それを読んで、その感想をみんなの前で話すこと。2025年5月10日。それが私の罪の日」
 今から七十年も前だ。
「その本はとても面白くて、私は読みふけった。夢中で文字を追いかけたのなんて子供のころアップルパイのレシピを見て以来よ」と笑う。「そして運命の366ページ。謎の人物が主人公の前に現れる。その声の持ち主は誰なのか──思わず私は固唾をのんだ」
 田中さんの緊迫した声にきつけられて、私も固唾をのむ。
「だけどそこで本を奪われた。目の前には図書係の人たちがいた。三十歳か四十歳くらいのお嬢ちゃんたちよ」と八十七歳の田中さんは言う。「返してって手を伸ばす私をおさえつけて、その人たちは下品な笑顔を浮かべながら私がまだ読んでないページを全部破りとって、ライターで燃やしてしまった。火なんてどうやって持ち込んだのかわからないけど私の心にも火がついたみたいで、気づいたら──」
 全員、殺していた。
 そして田中さんは無期懲役の終身刑に。

「誰に言われたのかは思い出せないけど、どうしてそんなに簡単に人を殺せるんだって言われて、その理由は、一度人を殺してしまったから。どんなことだって最初の一回はこわい。だけど二回目は、そんなにこわくなくなる。三回目にはもう慣れてる。それだけのこと」
 虚空に向けて田中さんは声をそよがせている。
「後悔とか、してないんですか?」
「……してる」
 その言葉よりも、瞳にはっとさせられた。
 今日ここにきて、はじめて田中さんと向きあえた気がした。
「でも私の後悔は人をあやめてしまったことじゃない。あのとき、カレーを食べてるときに声をかけてくれたクラスメイトの彼女──きっと私を探してくれてたのに、お兄さんと一緒に探してくれてたんだと思う、それなにの私、恥ずかしいところを見られて混乱して、ひどいことを言った……」田中さんは後悔にしめつけられていくように、体中をふるえさせている。「彼女、ここにね」言いながら左手のひとさし指を左目の目元にあてる。「少しおおきなホクロがあるの。よく見ると星のかたちがしてあって、私はかわいいって思ってたけど、彼女はそれをすごく気にしてて、それで私、あの日、彼女に向かって、そのきたないホクロをどうにかしたら? 呪われてるんじゃないの? って言ってしまって……あのときの彼女の顔が今でも忘れられなくて……私、あのとき、彼女に、呪いをかけてしまったんだと思う……バスケ部の期待の星で、みんなから好かれてたのに……」田中さんの目から涙がこぼれる。「それにね、あの日、私を探してくれてた人がもう一人いたの。親戚のお姉さんで、本当に素晴らしい人で、困ってる人の背中を優しく押してあげて、元気づけてくれる、そういう人なの。もしあの日、お姉さんに会えていたら、私の人生はこうじゃなかったのかもしれない。私にも背中を優しく押してくれる人がいたら……」そこで田中さんは、わなわなと痙攣けいれんするみたいにふるえが強くなる。「そうよ思い出した……私は背中を押してしまったのよ……彼女のお兄さんの背中を押して、お兄さんのひたい花壇かだんかどとぶつかって……それでお兄さん……親友のお兄さんを……私は、間違った背中の押し方しかできなかった……」
 何かが田中さんの中ではじけてしまったのだろう。
 天をあおぎ、土砂降どしゃぶりのように泣きはじめた。
 数人の職員さんたちが駆け寄り、田中さんを施設の中に連れていく。
 私はぽつねんとそこに立ち尽くし、明日もう一度ここにきて、もう一度、田中さんと語り合おうと決めた。
 だけど、そのもう一度がおとずれることはなかった。
 その日の夜、田中さんは亡くなったから。

 葬儀のようなことがおこなわれるのであれば参加させてもらえませんか?
 という私の言葉は全く聞き入れてもらえなかった。
 刑務所の近くにある公園のブランコをこぎながら、ただぼおっと景色をながめていた。
 どこかの喫茶店のネオンサインがパチパチと光をともしている。
 ネオンサインさんは元気にしているだろうか。
 自分の中に芽生えた敵を思いやる感情に、自分でも少しおどろく。
「あんたなのかい?」
 ふいに、誰かから声をかけられた。
 見ると、隣におばあさんが立っている。
「あいつの最期を看取みとったのは、あんたなのかい?」
 田中さんのことを言っているのはわかる。だけど、この人が誰なのかがわからない。
 どこにでもいそうな普通のおばあちゃん。顔つきはやや厳しく、怪我でもしているのか、左目の目元に絆創膏ばんそうこうが貼ってある。
「あいつはちゃんと、みじめに死んだのかい?」
 それを聞いて、私はむっとした。
「あなたに関係ないでしょ」
「関係なくないよ。あの女のせいで私の人生はむちゃくちゃにされたんだからね」おばあさんは声を荒げる。
「え?」
「まあいいさ。これで私もこの世に未練はなくなった。私もあっちにいって、そこであいつの息の根をとめてやるよ」
「──は?」
 目の前のおばあさんが、あまりにも手際よく包丁を取り出し、それで自分の首を刺そうとしたので、制止するのが一歩遅れた。それでも高齢者の自殺をなんとか食い止めることに成功する。
「離しなさい!」
「いや、さすがに目の前で死なないでくださいよ。せめてなんで死にたいのか話してくださいよ!」
 それにその年なら急がなくてもそのうち勝手に──と言いたかったけれど、そうはならないようにも思える。このおばあちゃん、元気すぎる。
「いい加減離せ、小娘!」
 おばあちゃんは力一杯、私を突き放す。
 きっと、おばあちゃんはうっかり忘れていたのだろう。
 自分が手に刃物を持っていたことを。
 奇妙な違和感と同時に激しい痛みが私の胸に集結する。
 これまでの罪を清算させるかのように、私の胸に包丁。
 ほどなくして体がいうことを聞かなくなり、私は背中から倒れていく。
 世界の時間がずいぶんゆっくりと流れていく。
 私は無意識に手を伸ばし、指先がおばあさんの顔に貼ってあった絆創膏をがした。
 そこにあったのは、少しおおきくて、星のかたちにも見える、ホクロ。
「み、見ないで──!」
 少女のようにうぶな反応で、おばあさんはそこを手で隠す。
 ああそうか、あなたは──。
 気づいたところで何もかも手遅れで、私の中から不自然な勢いで、痛みと共に意識がうしなわれていく。

 目覚めると、ベッドの上にいた。
 体を起こすと、どこかの部屋にいた。
 机の上にはスマートフォンやタブレットがおいてある。
 むかしなつかしい、ぺらっぺらの物理デバイスだ。
 私は令和博物館にでもつれてこられたのだろうか。
 窓の外の景色に面白いくらい見覚えがない。
 ここはどこ?
 窓ガラスに映る自分の姿が自分ではない。
 私はだれ?
 壁にかけられているカレンダーの日付に目をやる。
 どうやら今日は2025年の5月9日のようだ。
 ふと、近所のおじいちゃんの言葉を思い出す。
 最近の若い者は動画を等倍速でしか見ないとかたるんどる。わしらが若いころは、ゆっくり解説動画を四倍速で見たもんじゃ。とかなんとか。
 2020年代は倍速ブームであり、当時の若者は時間対効果タイムパフォーマンスという概念にとりつかれ、なんでもかんでも速度を上昇させて鑑賞していたという。
 なるほど、だったら私もこの時代の流儀にあわせて要点だけ語ろう。
 ──どうやら私は七十年前の世界にやってきたらしい。
 私の魂はこの時代のどこかの女の子の体に入っているようだ。
 今日は2025年5月9日である。
 つまり、あの日だ。
 私は令和の大地に降り立ち、約束の場所へと急いだ。
 その場所とは──

東京アニメセンター in DNP PLAZA SHIBUYAで開催されている
TVアニメ『It's MyGO!!!!! × Ave Mujica』合同企画展 『あつめた一瞬、閉じ込めた永遠』である。

 運命なのか奇跡なのか、それ以外の何かかは不明だけど、とにかく私は何らかの力によって田中さんが刑務所にぶちこまれる直前の世界にいる。
 きっとこの近くに田中さんはいる。そうでなければわざわざ過去に飛ばされたりはしないだろう。
 確か彼女は今ごろ、お腹ぺこぺこで街を彷徨さまよっているはず。
 一日中走り回ってみたものの、それらしき人物を見つけることはできなかった。
 気づけば日付は一歩進み、2025年5月10日になってしまった。
 息切れしている理由は走りすぎたから、だけではない。
 このまま田中さんと出会えずに、このチャンスを無駄にするかもしれない不安で呼吸がうまくできない。
 落ち着け、落ち着け──繰り返すたびに、焦りは増していく。
 この時代の田中さんは高校生で、制服を着ていて、さびしそうに歩いてる──そんな子、そこらじゅうにいる。
 頭上に積もる不安を振り払うように、強く頭を左右にふって、しっかりと前を向く。視線の先に大きな書店が見えた。
 そういえば。
 私は田中さんとの会話を思い出して、書店に足を踏み入れた。
「あの……」近くにいた店員さんに声をかける。「今日発売の本を探してるんですけど……」
「はい。タイトルは何でしょうか?」
 当然の問いが返ってくる。
「ええっと……実は……タイトルがよくわからなくて……」
「作者の名前や、あらすじはわかりますか?」
「ええっと、どっちもわからないんですけど……たしか、366ページで意外な相手が主人公に話しかけてきて、367ページでその相手が誰だか判明するっていう話なんですけど……」
 具体的なんだか抽象的なんだかわからないことを口走る私。
 店員さんは苦笑いを浮かべている。やばい客につかまってしまった、そういう顔だ。
 こんなことをしている場合じゃない。
 早く田中さんの捜索に戻らなければ。
 店員さんにお礼を言ってきびすを返そうとする私の前に、一冊の文庫本が姿をあらわした。
「その本なら、これだよ」

 男の人が、私に本を差し出してくれていた。
「きみの探してる本、たぶんこれ」
「──あ、ありがとうございます」
 両手で受けとる。かわいい表紙だ。
「ずいぶん変わった覚え方してるね。366ページとか」と男の人は笑う。
「ええ、まあ」
 それでわかるあなたもすごいですね、と思う。
「好きなの? その話」
「はい……私はまだ読んだことないんですけど、ともだちが……」
 勝手に田中さんを友達にしてしまったけれど、まあ許してくれるだろう。
「へえ、web版からのファンなのかなあ」
「うぇぶ?」なんだっけ、それ。
「ありがとう、発売日に買いにきてくれて。あいつも喜んでるよ」
「もしかして、作者さんとお知り合いの方なんですか?」
「──ともだちだよ」
「よかったら教えてあげてください」未来に「すごいファンがいるって」
「ああ、必ず伝えておくよ」

 男の人にお礼を言って店を出る。
 そのとき近くを歩いていた、こわばった表情の女子高生たちの会話が耳に飛び込んできた。
「なんか、さっきの子、ヤバくなかった?」
「うんうん、なんか、ゾンビみたいだった」
 私の直感が激しく反応する。
「その子のこと、よく聞かせて!」女の子の肩をつかむ。「その子、今どこにいるの?」
 私が彼女たち同じ女子高生でなければ200デシベルくらいの悲鳴を上げられていたことだろう。
 私の勢いに困惑しながらも、女の子は「……あっちの、オープンカフェのあるほう」と方角を指さしてくれた。
「ありがとう!」
 言葉を残して、私は駆けた。

 走って、走って、走った、その先──
 前方、百メートルの位置。
 田中さんを七十歳くらい若返らせて餓死寸前にしたらあんな感じだろうという風貌の少女を発見。
 その目はうつろで、足取りは不安定だ。
「田中さん!」私は叫ぶ。
 私の声に彼女は足をとめて、こっちを向いた。
 私は膝に手をついて、肩で息をして、ひとまず呼吸を整える。
 汗だくの私を一瞥いちべつした田中さんは開口一番、こう言った。
「…………誰?」
「た、田中さん……」
「……なに?」
「よ、よかったら……」私はすぐそばにあるオープンカフェに指先を向ける。「ここで一緒に、カレーでも食べませんか? おごりますよ」
「……なんでよ?」
 おかしいな。空腹のはずだから二つ返事で喜んでくれると思ったのに。
 飢えよりも私への疑念がまさっているとでもいうのか。
 とはいえ、ここで引くわけにはいかない。
「……いや、その、なんていうか、一人でご飯食べるのってなんだかさびしくて、一緒にご飯食べてくれる人を探してて、そしたら目の前にかわいい子がいたから、もうこの子でいいかなって……」などと、通り魔みたいなことを口にする私。
 私の挙動不審っぷりが彼女の慈悲を刺激したのか、空腹が限界を迎えたからかは不明でも「──いいよ、付き合ってあげる」と言って、テーブルについてくれた。
 さっそく私は一番高いスペシャルカレーを二つ注文した。

 数分後、なんかすごいのが届いた。
 銀の平皿の上にカレーライス。そのカレーライスをおおくすかの如くトッピングされている大量の揚げ物たち。
 なにこれ、お相撲さんのスターターキット?
「おいしそう! いただきます!」
 目を輝かせてもぐもぐと、田中さんはカレーを攻略していく。
 そういえばこの時代は、カロリーは熱に弱いので揚げ物はゼロカロリーとかいう因習が蔓延していたと本で読んだ記憶がある。
 あれって本当だったの?
 ひとまず私もカレーを一口と、とんかつを一切れいただく。うん、おいしい。でも、もうお腹いっぱいだ。
 一方の田中さんは、あれよあれよという間にカレーと大量のトッピングたちを平らげてしまい「ごちそうさまでした」と、からっぽになった銀の皿に手をあわせていた。
「みつけた! こんなところにいたの!」
 耳に痛みが走るほどの怒鳴り声に振り返ると、私たちと同い年と思しき女の子が仁王立ちしていた。
 顔には怒り、目に涙、そして左目の目元に星型のホクロ。
「どうしたの? こんなところで」と田中さんは訊ねる。
「それはこっちのセリフよ! 二週間も行方不明になって、スマホにも反応しないし、どれだけ私が心配したと思ってるのよ!」
「心配しないでって一回通話したじゃん」
「だから心配だったのよ! あのとき、すごく疲れた声してたし──なんでこんなところでのんきにご飯食べてるの、だいたいあなたはいつもいつも──」
「ああもう、うるさいなあ──」
 田中さんは立ち上がって、反論をはじめる。
 怪獣同士の戦いを女の子で擬人化したような口論が勃発する。
 微笑ましいやら、周囲のみなさんにご迷惑やら。
 それにしてもけっこう好戦的だな、若いころの田中さん。
 少女たちの口調はその激しさを増していく。
「──それに昔から思ってたんだけど、そのホクロって本当にきた──」
 あっ、それはダメなやつだ。
「──期待の星!」
 私は田中さんの声をかき消すように大声を上げて、立ち上がった。
 二人とも、頭上に疑問符を浮かべて私を凝視している。
「──き、期待の星。あなたはバスケ部の期待の星だって、田中さん、いつも自慢してましたよ。その目元のホクロもかわいくて素敵だって」
 多少脚色はしたが嘘はついていない。全て田中さんの言っていたことだ。
「え? ……そ、そうなの?」
 オセロみたいに彼女の態度は一変する。
「…………ま、まあ、そんなこと、言ってたかもね」
 それは田中さんも同じだった。
「…………」
「…………」
 なんだか尊い空気が漂いはじめる。
 これ知ってる。確か、バラとかきくみたいな名前のやつだ。
「と、とにかく、どうせまだ家に帰りたくないんでしょ。だったらウチにきなさいよ。しばらく泊めてあげるから。これから一緒に帰る?」
「ありがと。でも、もうちょっとだけここにいる」
 田中さんがそう伝えると、彼女は田中さんの手首にコイン型の何かがつけられているシリコン製のバンドを巻いた。
 これで田中さんがどこにいても見つけることが可能になったらしい。ちなみにそれは本来、小さなお子様かペットに装着するものだそうだ。
 ほどなくして彼女のお兄さんが合流してきた。田中さんの安否を確認できて安堵した様子で、ひとまず妹さんとお兄さんは一緒に帰ることになった。
 田中さんはお兄さんにだけ、心配かけてすみませんと頭を下げた。
 何もなくてよかったよ、とお兄さんは笑顔で応じる。
 まったくですよ、本来なら、あなたその人に殺されてたんですから、などと言えるわけがない。
 ふと、視界のすみにレンガ造りの花壇かだんが入って戦慄せんりつしたけれど、それが誰かの命を奪うようなことにはならなかった。
 兄妹きょうだいを見送ったあとで、田中さんは私と向きあって、こう言った。
「で、あなた何者なの?」
「え? それはだから、誰かと一緒にご飯が食べたくて……」
「全然食べてないじゃん」
 視線をテーブルの上のほぼ手つかずのカレーに向けられる。
「こ、これから食べます!」
 私は席について、スプーンを口に運ぶ。
「なんで私の名前、知ってたの?」
 私は必死にカレーを頬張ほおばって、聞こえないふりをする。
「まあいいけど、ところでその本、面白いの?」
 テーブルの上においていた、さっき買った本に興味を持ったようだ。
「面白いみたいですよ、アップルパイのレシピにも負けないくらい」
 私は本を手渡した。
「……本当に何者なのよ、あなた」
 とはいうものの、それ以上の詮索せんさくはあきらめたようで、田中さんはページをめくりはじめる。
 それからオープンカフェの一角で、田中さんは黙々と本を読み進め、私はもぐもぐとカレーを胃に押し込む。

 今後七十年くらい、カレーは見たくない。
 胃袋どころか、私自身がはちきれそうだ。
 だけど、なんとか完食することができた。
 一瞬でも気を抜けば全身の毛穴からカレーが吹き出しそうになる衝動をおさえながら、ふと田中さんに目をやると、真剣な面持ちで物語と向きあっていた。
 そっと背後に回り込み、どこを読んでいるのか確認してみる。
 366ページだった。
「────」
 そして彼女の視線は念願の367ページに移る。
「…………そんな」
 無意識に声をもらし、口に手をあてて絶句している。
 それはまぎれもなく極上の読書体験に違いなかった。
 おばあちゃん、あなたの願いは若かりし日のあなたが叶えてくれたよ。
 離れた場所から、女の人が、女の人の名前を叫んだ。
 その声に田中さんが反応する。
 私も声の飛んできた方向を見ると、二十代前半の女性がこっちに急接近してきていた。
 彼女はまっすぐ田中さんに向かい、密着して、強く抱きしめる。
 心配かけてごめんね、お姉ちゃん。と田中さんも彼女の背中に手を回して抱きしめた。
 おそらく、この人が田中さんの親戚のお姉さんなのだろう。
 しばらく二人は立ち話をして、やがて笑いあい、これからどこかに行くことに決まったようだ。
「それじゃあもういくけど、本当にありがとう。あなたと出会えてから、いろんなことが上手くいってる気がする。あなたが誰なのか教えてほしいんだけど、答えたくないんだよね?」
「まあ、そうですね」
 言っても信じてもらえなだろうし。
「それから、この本ありがとう。本当に面白いね」
 私に文庫本を返そうとする手の動きにかすかな逡巡しゅんじゅんを感じた。
 一番いいところで中断しているのだ。つづきが気になるのだろう。
「いいですよ。プレゼントさせてください」
「いいの!?」
 そこまで喜んでもらえるなら本望だ。
 私はうなずく。
 田中さんは言う。「ねえ、今度また会える?」
 私はこう答える。「もう会ってます」未来で。
 私の返答に田中さんは不思議そうに首をかしげたけれど、すぐに笑顔になって、またねと手を振って、どこかに歩いていった。
 その背中が見えなくなるまで、私も手を振った。

 言葉にできない達成感と満足感──いや、違う。
 今この瞬間、私を満たしているもの、それは──。
「──うっ」
 過剰なまでの満腹感だ。
 体の奥底から、カレーがこみ上げてくる。
 本気で吐きそうだ。
 とにかくここから移動しなければと一歩踏み出した途端、派手にぐらついてしまう。
 地面に向かって倒れる私。
 そのままアスファルトに顔面をぶつければまだよかっただろう。
 目の前に迫りくる、花壇かだんのレンガ。そのかどと私のひたいが今、ぶつかっ

 びくんと、肩をゆらして目を覚ます。
 刑務所の近くの公園にて、ブランコに腰かけている私。
 しばし茫然ぼうぜんとしたのち、なんとかひねり出した一言は
「…………夢?」だった。
 つらすぎる現実から逃れるため、脳が心地よい物語を見せてくれていたのだろうか。
 なんだか、むなしいな。
 視界の先には、どこかの喫茶店のネオンサインが点滅している。
 とりあえず、一度くらいはあいつにあやまっておいてやるか。
 私はブランコから立ち上がる。
 だけど、どうしても田中さんとしっかりお別れをしておきたいという気持ちを抑えることができず、再び刑務所の門をたたき、思いの全てを告げる。
 私の熱意を聞き入れてくれた係員さんはどこかに連絡をして、そして私にこう言った。
「そういう名前の人は、ここにはいないみたいですけど?」
「────へ?」

 一体どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが空想のたぐいだったのだろう。
 わけもわからず数日が経ったある日、私は一冊の本のことを思い出した。
 七十年も前に出版されたものだし、そもそも実在するかもどうかも怪しいのだけれど、なんと今でも普通にあった。
 本屋さんで文庫本を受け取って、その表紙を見た途端、なんともいえないなつかしさがこみ上げてきた。
 家まで待てずに、近くのオープンカフェでページをめくる。
 しばらくして。
 笑えるシーンでもないのに、思わず私は吹き出した。
 なるほど、確かに私は妖精さんだ。
 おだやかな休日のお昼前。
 街はなごやかからにぎやかに移り変わろうとしている。
「おばあちゃん、こっちこっち!」
 幼い少年が祖母を呼んでいる。
「はいはい、今いきますよ」
 その声に。
 私は、はっと顔を上げる。
 一人の高齢の女性が、笑顔でこっちに近づいてくる。
 同時に、大勢の人々が彼女に近づいていく。
 男性、女性、少年、少女、動物たちまで──。
 みんな彼女と会えたことが嬉しい様子で、彼女に明るく声をかけている。
 彼女も笑顔でそれにおうじている。
「…………」
 きっと彼女は背中を押したのだろう。
 困難にあるとき、その人たちの背中を。
 はじめはこわかったかもしれない。でも、二回目はそんなにこわくないし、三回目には慣れている。
 そうやってたくさんの背中を正しく押しつづけた結果、彼女は今、同じ数の笑顔に囲まれているのだろう。
 そんな彼女と私の視線がぶつかると、彼女は慌ててこっちにやってきた。
「どうしたのあなた、涙なんて流して。目にゴミでも入ったの?」
 違いますよ、ゴミなんかじゃありませんよ。あなたが目に映ったからじゃないですか。
 彼女はテーブルの上にあった文庫本を見つけると、おどろきと喜びの混ざりあった表情を浮かべた。
「いい本を読んでいるのね。私もこの本、大好きよ」
 私はうなずいた。よく知ってます。
「なんだか不思議な気分ね。あなたとは、はじめて会った気がしないの」
 ええ、何日か前と、何十年も前に会ってますから。
「ねえ、よかったら、あなたの名前を教えてもらえる?」
 私は自己紹介をした。
「素敵な名前ね」
 彼女は微笑む。
 私も同じ顔に。
 もうすぐ世界は西暦2100年を迎える。
 火を起こす、空を飛ぶ、遠く離れた相手との会話──かつては魔法と呼ばれていたであろういくつもの事柄が科学として具現化されている。
 それでもまだまだ解明されいない未知の現象は存在する。
 それをなんと呼べばいい?
 奇跡? 運命? 神秘? あるいは超常現象?
 とりあえず、私はそれをこう呼びたい。
「ねえ、あなた、甘いものは好き?」
「はい、大好きです!」
 それはきっと、妖精のせいだと。













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