生きていく力について4:D(ディオニソス)について⑥-1「悲劇の元型」
✡︎はじめに
下記の記事でも少し触れた、第二次世界大戦中のアメリカによる日本人の民族性の調査「菊と刀」。
その著者であるルーズ・ベネディクト氏は、一般に我々が未開社会と呼ぶような民族文化を調査し、著作「文化の型」の中で「アポロ的文化」と「ディオニソス的文化」というように表現しました。
ディオニソス的人間は、存在における日常の限界と制限を取り除くことを通してそれを追求する。かれは、かれの五感が課する限界からのがれて、他の経験の状態に入り込むことによってもっとも価値のある時間を得ようとするのである。ディオニソス的人間の欲望は、個人的経験や儀式において、ある種の精神状態に迫ることであり、極端に至ることである。この強い感傷に最も類似する状態は酩酊状態であり、狂乱状態の啓蒙をも価値があるとみるのである。ブレークさえも、”極端への道は、知恵の宮殿に通じる”と信じる。アポロ的人間はこういうことのすべてを信じない。そしてまたアポロ的人間はこのような経験の性質について、ほとんど知らない。(中略)
かれはいつでも道の中央におり、自分の知っている範囲にとどまり、分裂した精神状態には手を出さない。
これはニーチェの著作「悲劇の誕生」で、彼がギリシャ文化、特にギリシャ芸術を「ディオニソス的」と「アポロン的」(あまり表立って語られることは少ないが、加えて「ソクラテス的」)に大別して鑑みた内容を援用したものになります。
ディオニソスとは、ギリシャ神話におけるオリンポス12神の一柱であり、ローマ名は「バッカス」。

楽器のバッカスもここから由来しており、長野県松本市の会社がつくっています。
このディオニソスという「存在」即ちユングのいうところの「元型(アーキタイプ)」を理解するためには前提知識が数多く必要になってきます。また単に知識のみならず、俗に「心」と称されるものと深く対峙することも必要になってくるのです。
これから次回以降も含めて、長々とディオニソスについて語っていきますが、読むのが辛くなったら無理せず記事を閉じてください。ここで言う「無理せず」というのは「ゆっくりと傾く足元に気をつけて」、ということです。人間というのは激しい一瞬の痛みには適切に逃れることができるものの、「茹でガエル」と言われるような「じわじわ」に対しては気がついたころには「オワッテイル」のですから。
そうだとしても、ベネディクト氏の表現を借りて、「私」という限界の先にある「もっとも価値のある時間」に触れたいと思うのであれば、先にお進みください。
人々が「時間」と錯覚しているそれは「クロノス」といい、そうではない「真実の時間」を「カイロス」といいます。
それは過去や未来を貫き、あなたが変革する「時」を示しています。
過去からあなたを守り続けている「存在」。
未来からあなたを呼びかけ続けている「存在」。
その結果プシュケーは夫を失いますが、夫の優しい声と言葉、ぬくもり、幸せな日々、即ち「失われた時を求めて」プシュケーは世界を、即ち「真実」を「視る」旅に出かけるのです。
✡︎自我と無意識(フロイトのヒステリー研究より)
まずはじめに「自我」と「無意識」について語る必要があります。精神分析学の創始者とされるジークムント・フロイト。
彼の局所論と構造論に関しては以下の記事でも少し触れました。
その理論は実際のクライエントとの催眠を交えたカウンセリングの中で構築されていきました。
たとえば彼の初期の著作、「ヒステリー研究」では、クライエントの女性を催眠状態にして、表層意識(自我)では「存在しないことになっている」情報が、催眠状態では聞き出せることを確認しました。つまり、無意識領域には「私」という「自我」が持ちきれない内容や情報が多く保持されており、催眠状態で無意識に近づいたことにより、想起しやすくなるということです。
ヒステリーとは自我構築に適さない無意識内の要素が表層にまで浮き出てきて、周囲の環境と上手く合致しなくなった状態といえるでしょう。
図で表すと以下のようになりますでしょうか(へたくそ)。

外には環境がある。


上記が一般的に「正常」とされる心の在り方で、「自我は関係性によって規定される」、です。
今後詳しくお伝えしていきますが、あくまで比喩として聞いてほしいのですが、表象意識が保持できる情報を1だとしたとき、無意識領域は1万を優に超える情報を保持することができるでしょう。適当な数字ですが、それくらい表層意識と無意識領域との間には容量の差がある、ということを伝えたいのです。その莫大な無意識の情報量から、その個体が置かれている環境や人間関係等に合った要素を半自動的に抜き出して組織化する。これが自我、表層意識です。
一方下記はフロイトのいうところのヒステリーの心の在り方です。


「ヒステリー研究」において、フロイトはクライエントの「チック」や頭痛・肩や子宮の痛みなどはこの心的外傷体験が肉体の反応にまで結びついたものとして、催眠状態にして外傷体験の要素を想起させ、肉体との結びつきを解消しようとしました。フロイトにおける精神分析はあくまで環境と共存していけるように、無意識からの外傷体験を消し去るべきものとしたのでした。
一方でフロイトの弟子とされカール・グスタフ・ユングはこのような外傷体験による内的混乱を、むしろ人間の全人格的成長、つまり「個性化」の重要な機会になりうると考えたのでした。
✡︎悪(No.2)の系譜、ニーチェとユング、そしてゲーテ
一般にユングはフロイトの弟子としてよく知られていますが、詳しく調べていくとむしろ、ユングにとっての本当の師、内面的な指針はニーチェにあるように思えてくるのです。
下記の記事でNo.2について触れました。
No.2とは第二人格といえるもの。
上記の記事では「悪」としました。
これは継承されるものであり、ユングはニーチェのいう「ツァラトゥシュトラ」をゲーテの「ファウスト」のことであると考えました。
ユング自身、「ファウスト」を高く評価しており、また、「ツァラトゥシュトラはかく語りき」についても心躍らせて読んでいました。
「ファウスト」、「ツァラトゥストラ」はユングのNo.2として継承されていったということです。
そしてユングの提唱した理論「元型(アーキタイプ)」。
ユングはそういった古代の体験が人の内側に残っている、という仮説をたて、フロイトとの別離の後の壮絶な内的混乱の中で自身が描いた図像が、東洋の曼荼羅と酷似していることや、彼の元に訪れるクライエントの語る内容が各地の神話や伝承と酷似するケースを集めて、「元型(アーキタイプ)」すなわち、人類が共通して持っている母親像や父親像、仮面や影、異性等のイメージのベースとなっているものを提唱したのです。
夢や幻覚、妄想の内容が人類に普遍の無意識に存在している「元型」の顕現した姿であるとしたのです。また、元型の顕れは単に夢や幻覚に留まらず、芸術分野や学問、個人の人生に至るまで、それは元型の顕れであるとも言えるのです。あらゆる現象は「事物」の顕れであるということです。
これらはニーチェの以下の発言と重なります。
ニーチェはアポロンを「個別化の原理」、ディオニソスを「個別化の呪縛からの解放」としました。ディオニソス的な押し寄せる無意識の洪水は人間の自我を忘我に至らしめる。アポロンが正常に働いているときはその「力の洪水」への原始的抑圧、やわらかな抑圧として人間の知覚可能な仮像に整える作用となる。
即ち、一般的なディオニソス型とアポロン型の説明となります。
ギリシア神話の酒神ディオニソスのうちに示される陶酔的・創造的衝動と、太陽神アポロンのうちに示される形式・秩序への衝動との対立を意味する。
~型、~的、というように表現したとき、いわゆる「血液型診断」や「mbti診断」などを想像される方もいるかもしれませんが、ニーチェの語る「ディオニソス」と「アポロン」はそういった類型論的なものではなく、ユングのいうところの「元型」に近いものになります。
というより、上記で述べたように、ユングの元型の理論がニーチェやゲーテからの影響を多く受けていると考えられるのです。
元型についてもう少し詳しく述べていきます。
たとえば「母親」の元型の顕現を例にあげるとしましょう。
あなたが「おかあさん」と聞いて頭に浮かぶもの。
ある方は台所や、にくじゃが、おにぎりや、みそ汁でだったり、庭に植えられた花や木々、ある方は学校への送り迎えや、受験に合格した際に送ってくれた時計、あまりにかなしくて切ない経験と結びつく方は、火傷のいたみや、首の苦しさを、あるときは海を、山を、大地を、かもやカンガルーや、牛や、くびれた壺や、渦巻きや牛乳や、乳房や
このとき、「にくじゃが」と「くびれた壺」は現実界からすると何の関連性もない。
しかし普遍的無意識の世界からは同じく「母」なのであります。
元型とはこのように非常に多様な広がりを持って顕現するものであり、ゆえにニーチェのいうところの「ディオニソス」と「アポロン」も元型的広大さを持っているのです。
そしてここまでで二つの対立構造が表出されました。
つまり「私たち」と「彼ら」である。
✡︎悲劇の元型「ディオニソス」
「自我」とは外界の環境や関係性に合わせて無意識内の要素を取り出して組織化したものであり、アポロンの個別化の原理といえるでしょう。
一方でNo.2的な「悪」、即ち無意識世界に開かれる道、個別化という呪縛からの解放の道もここまでで示されました。
大学という形態の中で机は机であるけども大学が壊れたらそれは机でもなんでもないわけで。それは一つの事物ではないですか。そういった事物に対して我々が一方的に関係づけた場合、身の回りのすべてが武器になりうるし何にでもなりうる。その関係の逆転に革命があるのであろう。そのときはじめて空間が生まれるという事ですよね。
自我を規定する関係性、要素の集合を断ち切ることで内的世界に向かって開かれる(開かれることによって閉ざされ、閉ざされることによって開かれる)。
それは一般に病的な過程に見えるが、ユングは本当の意味での成長とした。これは冒頭のベネディクト氏がいうところの「かれの五感が課する限界からのがれて、他の経験の状態に入り込むことによってもっとも価値のある時間を得ようとするのである。」ということです。
ここにディオニソスの顕れの一つ、「悲劇」が生じます。
ヤマノミ、ヨルング、スラブ、タイヤル、ズニ、デネ、キワオ、
そして、アイヌ
これらの部族・民族名はその言語での意味としては「ニンゲン」であるといいます。
こういった事例はかなり多く、「私たち」を「ニンゲン」として、「彼ら」を「ニンゲンではないなにか」、つまりは「バケモノ」とするのです。
ここでいう「私たち」とは自我と自我を成立させる関係性や環境のことであり、「彼ら」とはその外側「知らないもの」、「無意識」ともニアリーイコールで結び付けられる。
ベネディクト氏はその「私たち」と「彼ら」を区分けする性質がどれほど人間にとって根源的かは不明としつつも、神話におけるヒドラ(9つの首をもつ蛇)のような現れ方をみることができると述べています。日本神話におけるヤマタノオロチや、九頭竜に関しても様々な説が言われますが、ここでいう「彼ら」のことであったというのは昔から言われ続けているものです。
けれど、「私たち」を「善」とするのはいいが、実際にそれだけで世界は成り立つか?という疑問が生じてきます。
だって、「現実」は「私たち」よりずっとずっと広大であるし、「真実(無意識)」は「私たち」よりずっとずっと深淵である。
このとき「私たち」の外側に気がついてしまった個人にディオニソスという元型(空間)が拡がる。
その者はもう「私たち」ではいられない。
つまり「ニンゲン」ではいられない。
しかし、「私たち」の中で暮らし育ってきた関係性を断ち切ることもできない。大切だから。
そして「葛藤」が生じる。
「私たち」を捨てるか、「現実」や「真実」を捨てて関係性に埋没するか。
そして、どちらを選ぼうともおおよそ想像のつく結末は悪いものとなる。
しかし、選ばなければならない。しかし、選ぶことができない。
こういった「狭間」におかれる「葛藤」が「悲劇(ディオニソス)」の顕れの一つであり、ニーチェはシェイクスピアの「ハムレット」を「悲劇の誕生」の中でディオニソス的と評しています。
この意味においてディオニソス的な人間はハムレットと似ている。両者はともかく事物の本質を真に洞察したのである。彼らは「認識」したのである。行動することに彼らは嘔吐を覚える。というのは、彼らの行動は事物の永遠の本質に何の変化も起こしえるものではなく、支離滅裂となった世界を再び整えるように要求されるのは、笑止千万なことか、あるいは不名誉極まることであると彼らは感ずるからである。
ニーチェは言いました。
全てのギリシア悲劇はディオニソスの顕れであると。
アポロンによる個別化(自我化)への苦しみはディオニソスの物語からの顕現であるとしたのです。
真にディオニソス的な苦悩たるこの寸断は地水火風への変化と等しきものであり、従ってわれわれは個別化の状態をあらゆる苦悩の源泉と根源として、それ自体忌避さるべきものとして見なければなるまいということである。このディオニソスの笑いからオリュンポスの神々が生じ、彼の涙から人間が生じたのである。寸断された神としてのかかる存在においてディオニソスは、残酷で狂暴な鬼神にしてかつ柔和で心優しき支配者であるという二重の性質を有する。
先に述べたように、「元型」はずっと人間の内に存在し続けて、今現在も顕現し続けるものであり、昨今の娯楽作品にもこの顕れをみることができます。
なかでも、一から十までディオニソスを顕している物語が以下のものになります。
また機会があれば解説できたらと思います。
これらは正に以下の記事でお伝えした内容です。
もう一度言いますが大事なことは「葛藤」です。
そして、その葛藤を生み出すのは自己の内面の矛盾、自己と世間との間の矛盾、様々な矛盾。その中でもがき苦しむ果てに至る境地が「非合理主義」。
情念、武士道、侘び、寂び、瞑想、悟り、祈り、といったものです。
✡︎元型の顕れとしての音楽と精霊世界、不動の自己
「悲劇の誕生」の中でニーチェはギリシャ悲劇の起源を「合唱隊」、即ち「音楽」だとしました。
役者の演技や、詩や、物語はその「説明」にあたるものなのです。
事物(元型)には二つの顕れ方があることをショーペンハウアーは指摘し、ニーチェはそれを引用しました。
即ち、「現象(自然)」と「音楽」です。
これは共通の事物から生じた異なる顕れであり、またそのように音楽に価値を与えるとき、音楽は現象と同じ重みをもった高度な言語になる。
音楽は無意識領域内の要素とその繋がり(node)の作用の旋律
音楽は形而上学的空間の顕れ
音楽は元型のイシの言葉
目には見えないが精霊の世界に形体を与え、われわれの前に具象化する空間
ここで勘違いしてはならないのは、ニーチェの言うところの音楽とは、私たちが一般に思い浮かべる音楽、即ち「音画」とは異なります。
音画とは、個人の共感の道具に貶められた音楽のこと。
悲劇の誕生内における「音楽」とは「音楽」の精神によってはじめて個体化から解放された歓喜を体感するもの、普遍世界(無意識)の鏡としての真理。
この音楽(悲劇)によって人間は無意識世界(精霊世界)へ突入し、自我の消失を体感する。
ここで重要なことは、自我が消え去っても私は存在している、ということである。
これによって「私たち」ではないもっと本質的な「不動の自己」をその者は体感する。
そして不動の自己の周囲で自我は「生成(エロス)と消滅(タナトス)」を繰り返す「火花」、即ち、私自身が認識のスパークとなる。
音楽って不思議だ。
私の書いてきた約80記事、1記事に平均して5000文字、
つまり400000文字。
それをたった4分〜6分に内包しているように思える曲がある。
人間のスパーク(電気信号)は不思議だ。
そんな音楽の伝えんとすることも一瞬にもみたない電気信号として身体中を駆け巡る。
私自身が不動の自己の周囲を、己が負い目の周りを巡る精霊であったことを感ずる。
私の本質は「自己」とそのまわりを巡る「スパーク」である。
故に自我が焼失しようと私は不滅であるということ。
私は永遠であるということ。
この「現実」を去ったとしても、「自己」の一部として私は魂の海(普遍的無意識)に還っていき、そして精霊(火花・スパーク・対象a・みたま・年神・カミダーリ)としてお盆や新年に戻ってくる。
たしかに私の「認識」は「先祖」であるということ。
ここに至り私はディオニソスを通して永遠に舞い戻ってくる「時」を知るのです。というよりは私自身がその「時」であったということです。
✡︎おわりに
ディオニソスについて語っておきたいことがまだいくつもあります。
次回はおそらく「アニマ」についてさらに深く掘っていくことと思います。
今回に懲りずまた見てくださると嬉しいです。
Dはアルファベットにおいて4番目になります。
日本語とアルファベットは数霊を共有しており4がもつメッセージをDと日本語の「し」や「よん」は共通しています。
意味が多岐に渡りDの箱に組み込まれた概念を想定するのが難しいように思えるかもしれません。しかし私にはこれらの語句が集約し、内包する存在について心当たりがあります。
ディオニソス(Dionȳsos)です。
ΔΙΟΝΥΣΟΣ
△
Δ(デルタ)はフェニキア文字におけるダレト。
女性の陰部(デルタゾーン)を指すのにも使われます。
この記事の最後となりますが、タロットカードの4、皇帝は男性性と女性性の統合でした。
これは安定を表す四角形であるとも考えましたが別の図形での解釈もできるでしょう。
女性を表す逆三角形
▽
男性を表す正三角形
△
統合したとき

〇参考文献・関連
・タイトル画像、使用画像
File:Dionysos kantharos BM B589.jpg - Wikipedia


・今回の音楽
・YOASOBI「群青」
・GARNET CROW「Rhythm」
・参考文献
・河合隼雄著作集1 ユング心理学入門
・河合隼雄著作集2 ユング心理学の展開
・「悲劇の誕生」ニーチェ全集 (理想社)
・「ヒステリー研究」フロイド選集Ⅸ 吉田正己 懸田克躬 (日本教文社)
・「文化の型」ルーズ・ベネディクト 米山俊直訳(講談社学術文庫)
・関連記事
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3.5:前回の記事の補足、思考機能の使い方「蛇足かも」
