生きていく力について4:D(ディオニソス)について⑥-2「アニマ:知恵の保護者キュベレー」
✡︎…はじめに

前回の続きでディオニソスという「悲劇の元型」の周辺知識について語っていきます。
今回は「アニマ」についてです。
アニマとはユング心理学における非常に重要な概念であり、一言で表現するなら「内なる異性」です。
人間の心には「内なる異性」が存在しており、男性の内側にいる女性を「アニマ」、女性の内側にいる男性を「アニムス」、と呼びます。
「内なる異性」は多くの場合自我(表層意識)の補償的性質として夢の中に顕れ、また神話や伝説、童話や御伽噺などにもその顕れをみることができます。
その性質故に自我と対立するようなカタチで顕れるケースも多いのですが、ただそれでも下記のようなケースはその中でもかなり激しいものと言えるでしょう。
今回はそのような自我に対して激しい対立的態度をみせるアニマ、ルシファーやキュベレーと表現できるような「地母神的アニマ」について語っていきます。
この存在は非常に「おどろおどろしく」、あなたを根底の部分から突き刺して、ねじりこんで、ぐちゃぐちゃに引き裂くように否定的な存在として顕れます。今回こそ無理せずに辛くなったら記事を閉じるようにお願いします。
これから次回以降も含めて、長々とディオニソスについて語っていきますが、読むのが辛くなったら無理せず記事を閉じてください。ここで言う「無理せず」というのは「ゆっくりと傾く足元に気をつけて」、ということです。人間というのは激しい一瞬の痛みには適切に逃れることができるものの、「茹でガエル」と言われるような「じわじわ」に対しては気がついたころには「オワッテイル」のですから。
※今回はアニムスについては触れません。自我の補償的性質として、内なる異性は社会的性別(ジェンダー)の影響を受けやすく、アニマとアニムスではその顕れ方に違いが大きくみられやすいのです。故にこの記事の内容はアニムスにはあまり適応されないのです。ただアニマ的アニムスという形で記事の内容が適応されるケースはありますがあまり多くはないようです。
アニムスについても非常に重要なのでいつかお伝えできればと思います。
✡︎アニマ:劣等機能
原初的自然的な見方からすれば、心は単一というより、むしろ漠然とした多重の構成体である。この事実は霊魂や心に関するあらゆる国の人々の象徴の中にあらわれている。そういった霊魂や心は、すでに誕生前か誕生時に人間の内部にひきこまれ、あるいは後になってなんらかの機会に人間にとりついたりして、人間の内部に宿り、人間のなかでその働きを発展させる。それはときには家霊ないしは種族の魂と考えられ、ときには、特定の人間に属しはするものの、元来は動物の内部に宿ると考えられた。いわゆる野の霊とされる。民間信仰や神話や御伽噺のなかでは、善と悪の巨人と小人に。妖精と魔法使いに、またしばしば死者たちの霊魂に、ときには動物たちに、似た意味が付与される。
心とは無意識下に保存された要素の集合体であり、様々な要素が組織化された塊の内、「私」だと思っている「観測点」を「自我」と呼び、「私」から漏れた要素や組織体を妖怪や幽霊などと呼んできたと考えることができます(狐に化かされる)。
それぞれの要素同士には他要素に対する結びつきやすさのばらつきがあります。
「内なる異性(アニマ)」の場合、まず「劣等機能」との結びつきやすさを挙げられます。
「劣等機能」について、詳しくは以前の記事を見ていただくとして、ここでは簡単にご説明いたします。
ユングは4つの「心理機能」を設定しました。
「思考」、「感情」、「感覚」、「直観」
たとえば、1つの灰皿を見ても、これが瀬戸物という部類に属すること、そして、その属性のわれやすさなどについて考える思考機能、その灰皿が感じがいいとか悪いとかを決める感情機能、その灰皿の形や色などを的確に把握する感覚機能、あるいは灰皿を見たとたん、幾何の円に関する問題の解答を思いつくような、そのものの属性を超えた可能性をもたらす直観機能、これらはおのおの独立の機能であって、ある個人が、これらのうちのどれかに頼ることが多い場合、それぞれ、思考型とか感情型とかであると考える。
「思考」と「感情」は「対立機能」として正反対の位置にあります。同じ関係性が「感覚」と「直観」にもみられます。片方を自我と結びつけて「主機能」として使用して現実世界を生きていく。このとき対立機能は無意識下に抑圧され、意識されないために成長しないままの「劣等機能」となる。
また、残りの二つの機能は補助機能として主機能の働きを助ける。

「劣等」というと「力が弱い」という印象を受けるかもしれませんが、必ずしもそうではなく、むしろ開発されずに抑圧され続けたがゆえにかなり強い力を持っていることがあります。
ならば何をもって劣等とするかというと「上手な使い方を知らない」ということです。これを「未分化」とも表現します。
「思考」機能が私にとっては事例として引き合いに出しやすいので今回も使わせていただきますが、長年感情的になることを抑えて理性的な判断のもとで生活してきた個人が、動物番組の子ヤギが立ち上がるシーンを見てボロボロ泣いたとします。これは「感情」機能がむしろ非常に強く、一方で「上手な使い方」を開発してこなかったために、他の機能を主機能としている個人からすれば、(意外に涙もろいのね)と思われるほど些細なことで感動してしまう、ということです。
このような事例はむしろ微笑ましいともいえ、「劣等機能」だからダメというわけでもなく、むしろ個性の一つと言えるのです。
このような「劣等機能」という要素が「内なる異性」と結びつきやすいため、アニマは自我の補償的性質として夢の中に顕れやすいのです。
特に近代的な社会では社会的性別としての男性(自我)は「思考」、もしくは「感覚」が主機能とされている場合が多いといえます。そうなると「感情」と「直観」が劣等機能としてアニマと結びつきやすいということですが、それでも「感情」に関しては、主機能にしている男性をちらほら見かけるので、そうなると「直観」が特に男性にとっては劣等機能とされやすいといえるでしょう。
✡︎アニマ:動物
他にも「動物」の要素も非常に「内なる異性」と結びつきやすいものになります。
昔、クアルピン河の上流に一人のオロチョン族の女が住んでいた。あるとき、女は一人で森の奥に山菜や野生の果物を採りに行って、採ったものを食べながら、夢中で採集した。帰ろうと思った時にはすでに日は落ちていて、彼女は方向が分からなくなり、森から出られなくなった。彼女は大樹の木の洞を見つけ そこに住むようになり、故郷のオロチョンの部落のことも、身内のことも忘れてしまい、最後には一頭の熊になってしまった。
ある日、一人の狩人がこの熊女を見つけ、弓矢で射ろうとしたが失敗して、反対に熊女に捕らえられてしまった。彼女は、彼を害することなく、傷の手当てをし、食物を与えてくれて、養ってくれたのである。一緒に住んでいるうちに、熊女は半獣半人の子供を生んだ。狩人は一日中樹の洞にいて、母熊は子熊を連れて外で食物を集めた。
しかし、故郷を忘れることのできなかった狩人は、傷が完全に癒え、樹の洞から弓矢を持って逃げだし、川辺に至り、そこで筏流しをしている人々にあって、筏に乗せてもらって逃げ去った。狩人が脱出してから間もなく、母熊は子熊を連れて巣穴に帰り、彼の脱出を知って、まっしぐらに川辺に追っていった。しかし、彼はこれに取り合わない。母熊は、もはや川岸から離れた筏に跳び移ることはできず、地団駄を踏んで、怒りのあまり子熊を二つに引き裂き、半分を河に投げ、半分を自ら抱き抱えて、川べりの大岩に座って、大きな声で咆哮したという。
熊となった女性はアニマのことであり、この伝承では観測点(自我)である狩人との決別が見られます。これまでもお伝えしてきたように、無意識の開発されていない領域は、森や洞窟、深海や黄泉、地底世界などの仮像をとるのです。それらのことを踏まえて、この伝承は上記の記事、即ち日本神話におけるイザナミとの共通性を見出すことができるでしょう。
実は「動物」の持つ象徴性は「熊」でも、「蛇」でも、「狐」でも、それぞれが特定の個人に対して人生を変えるほどの効果、治癒力を兼ね備えています。そのことは記事にする予定はないのですが、ひとまず「動物」の要素が夢として顕れるとき、「内なる異性」と結びつきやすいということだけ覚えておいてください。
アニマについてカール・グスタフ・ユング氏の妻、エンマ・ユング氏は多くの童話や伝説、神話におけるアニマの顕れとしてのニンフ(精霊)や白鳥の乙女、水の精などを挙げており、また三人連れで顕れることが多いことを指摘しています(宗像三女神)。
アニマの顕れの例として、シーレーネやローレライはその魅力や魔法の唄でもって男性(自我)を自身の世界に取り込もうとします。無意識下に抑圧されたアニマは表層世界に顕れるためにその男性を愛の虜にしようとする。
彼女らにはいつも超えてはならないタブーが結びつく。一定の期間自分の姿を見てはいけないとか、ここから先へは入ってはいけないだとか。
また、彼女らは少食や禁食でありながらいつも満腹状態であったり、とにかく食べなくてもよい。
なんにしても彼女らには人間のルールが適用されない。
アニマと向き合う時、男性(自我)は彼女のルールに合わせる必要があるのだということ。以下にその事例といえる民話を挙げさせていただきます。
アイルランドの民話、「エンガスの夢」
エンガスは夢の中で美しい少女と出会う。エンガスはその少女に焦がれるあまり病になる。一人の医師が彼の悩みを認めて、その少女を探して国中をまわって見つけ出すと、少女はエンガスに「すでに決めていた」(この「すでに決めていた」、というのもアニマによくあるパターンである)。少女は妖精の王の娘であり、二年ごとに白鳥に変身する習わしがある。エンガスは決められた日に湖にやってきて、ついに少女と対面する。彼女はエンガスをみて一度岸に向かおうとするも、彼が話しかけると水中に戻ろうとする。エンガスは水中に足を踏み込む。そうして彼女はエンガスのもとに戻ってきて彼らは抱き合った。そうして彼も白鳥となり湖のまわりを三回泳いだ。
こうして彼女がエンガスに出した条件は果たされ、彼らは共に飛び立つのだった。
アニマが白鳥であるのなら、自我も白鳥としてのルールを守る必要性が生じるということです。アニマを人間のルール、自我のルールに当てはめようとするとき(エンガスが人間の言葉でアニマに語りかけたとき)、彼女は自分の世界に帰ってしまう。それを男性(自我)は追いかける。そしてアニマは彼女の領域に入り込んで、約束事を守ろうとする自我をパートナーとして認めて両者は一つになる。
一方でアニマは自我を支配下におこうとするケースもあります。
昔、森に夫婦が住んでいた。夫は毎日、狩りに出ていったが、なにも収穫がなかった。不審に思った女房が後をつけてみると、木の周りを回って熊の姿になって、森の奥へかけていった。夫が帰って来ても、やはり獲物はなかった。次の日も、女房が後をつけてみると。木の周りを回って熊となり、森の中に入っていった。女房は斧で木を切り倒した。夕方、熊が木を回ろうとしても木はなかった。木のあったあたりをぐるぐると回った。人間にも戻れなかった熊は、ウオーと吠えて泣き、森の中に入っていった。夫は二度と帰ってこなかった。「熊が人間に似ているのは、そういうわけだっていうことだよ。特に毛皮を脱いだときにはね。それに熊の肉が人間の薬になるのも、そういうわけなの」
これはブリヤート人の間に語り継がれた熊の物語ですが、つまりこの夫は無意識世界のアニマに合わせて熊になり、そのまま支配され戻ってこれなくなったケースといえるかしれません。
さて、これらのケースのように男(自我)たちを魅了して無意識世界におびき寄せるアニマたちの魅力は何なのかということですが、それが主に男性の劣等機能として扱われる「直観」なのです。
エンマ氏は一般に女性はその受動性により男性よりも無意識世界に対して開かれた態度を持っていることを指摘し、新しいものを創り出したいという願いや憧れがまず無意識的、つまりは女性的な力から生じることを述べました。
この力は最初はっきりとしたカタチをとっておらず、おぼろげな情動や、説明しがたい気分として現れる。それがアニマである。そのアニマを自我は追いかける。女性的な無意識に開かれる機能「感情」や「直観」を手にして、男性的なカタチにする力でよって「社会」や「現実」に顕現させたいと欲する。アニマは自我と無意識の狭間でそのような男性を待ち構える。自我はアニマの課す試練を乗り越えることによって創造の力を手にする。
(アニマと共に生きてゆけるか、支配されるか、決別するかは個人によって異なりますが)
ところで、「内なる異性」と結びつきやすい重要な要素がもう一つあります
それが前回お伝えした「トラウマ(心的外傷体験)」です。
✡︎アニマ:ルシファー
そういった諸表象は誰にも無媒介的に知られているあの体験から生まれる。つまり、私たちはときおり自分には全く異質に思える状態や激情におそわれたり、自分には無縁の衝動や感情や思考や心像を心に浮かべたりする。しかも、このような激情は私たち自身の考えや意図とは鋭く対立することが多いので、それはそれ自体で成り立っている、私たちとは違った存在が姿をあらわしたのだと思うほどである。
未分化のままになっている「劣等機能」と、自然状態の顕れとしての「動物」、そして心的外傷体験「トラウマ」。
これら要素がアニマの元に組織化され、もう一つの「自我」のような動きをする「コンプレックス(複雑性)」がここに生まれる。
これが堕天使ルシファーであり、地母神キュベレーであります。
これらはグレートマザー(元型としての「母」)ではないのだが、それに近い空間の広がりをもつ。毒親といわれるものがその顕れです。
光の存在ルシファーは全天使の長でありながら創造主に対して反旗を翻し、敗れて暗き世界に堕とされる。「主」は自我であると同時に、普遍的無意識世界における「主」である。
「こちら」と「あちら」は鏡合わせとなっていて、ルシファーはその二つの世界から狭間の暗闇に堕とされたのです。
故にこのアニマは普遍的世界はもちろんのこと、自我が価値を見出す類の経験全てを否定する。
たとえばその自我の持ち主が優秀な建築家だとします。
彼は若いころからその業界で働き、材木や鉄骨の運び出しのために鍛えられた肉体に、設計のための数学的思考や、細部の工程ミスを見逃さない観察眼、多職種との連携のためのコミュニケーション、危険な作業を乗り越えてきたゆえの職業仲間との連帯感、安全意識をおろそかにしない理性、長年の経験による確かな技術を兼ね備えた、外的世界に対する一つの完成形だと言えます。
ルシファーはそれらに価値を認めない。
それらすべてが自分を暗き世界に堕とした「デミウルゴス」の創りしものだから。
ルシファーが求めるのは「心」である。
「肉体」、「論理的思考」、「感覚」、「言葉」、「関係性」、「理性」、「経験」といった諸々の「自我」の「ガワ」を脱ぎ去って生まれたままの自然状態な裸であることをもとめる(イナンナの冥界下り)。
必死に働いて走り回った足をもぎとり、
妻が惚れてくれた鍛えられた腕を削ぎ、
事故であまりに早くこの世を去った同僚に対して涙を流した目を潰し、
信頼を寄せた仲間たちと語り合った口を剥ぎ取り、
経験や思考や理性の詰まった脳をかち割る
彼女は彼の身体を削ぎ落していく。
優しく、これまでの日々を思い返すように、
時に強引に、これまでの諍いを清算するように、
涙をながし、新しく前に進めるように。
そして、彼女は彼を口に含む。
一つたりとも残さないように、大切に、大切に飲み込んでいく。
彼女と彼は一つになったのだ。
彼女の命は彼によって繋がれた。
彼は彼女に喰われることでまた輪廻の環へと戻っていくのだった。
そうして「心」だけになったあなたにようやくルシファーが答える。
ルシファーが求める「心」とは、暗闇に対して命という灯ひとつで彷徨い進む、痛々しいまでの生きている力のことである。
人が神を敬うのは神にその利益を与えてもらっているからではないか?
その者に与えたものをすべて取り上げなければ、その者の真の価値はわからない。
人々が社会で善良で暮らしていたのは社会から利益を与えてもらっていたからではないか?
社会で得たものや、社会という「神」の価値を取り上げなければその者の真の価値はわからない。
ルシファーはあなた(自我)を否定する。
「あなた(自我)はいつだって、
見たいことしか見ない、
聞きたいことしか聞かない、
知りたいことしか知ろうとしない、
それら以外は「そんなこともあるのだろう」、と流してしまう。
そうやって関係性に埋没しているだけのくせに、自分の立った場所を正当化するためにありとあらゆるイデオロギーを利用して、利用していることにも気がつかない。
そうして社会が不安定になって関係性に埋没できなくなったとたんに、埋没させてくれない原因を外に探して、適当に見つけたナニカをニンゲンではないものに乏しめて批判したがる。
そして批判の論拠はこうだ。
「なになにの権威がこう言っている」
「この論文の統計にこう書かれている」
どこまでいっても自分自身で立つ場所を決めるのではなく、誰かがつくった基準でしかものを語れない。いつもいつも、環境と関係性に調整してもらわないと自分のカタチがわからない。そして全部壊れるまでわからないことがわからない」
「だったらコワレルのはより早い方がいいと思わないかい?」
✡︎アニマ:キュベレー
こうして、ルシファーに憑りつかれた彼は自我の罪業を認めること、つまりアニマのルールに従うことで「去勢(自我の死儀式)」されるのです。
ここに地母神キュベレーが顕現する。
命を与えるもの、豊穣の女神としてキュベレーは洪水を支配し、山の神、けものたちの女主人として野生の自然を愛して支配する。彼女は予言の才を授けるが、また狂気をも引き起こす。(中略)
この女神崇拝には彼女に仕える神官(コリュバース)たちの去勢ということがあったことを思い出していただきたい。私たちがみてきたように、妖精の国につなぎとめられた人々が体験するのは、去勢と同等のものである。
「知恵の保護者」とも呼ばれるキュベレーが与える「知恵」とは表層世界(自我)に対して盲目になることで与えられる、開かれることによって閉ざされ、閉ざされることによって開かれる「直観」機能のことである。
このようなルシファー、キュベレーの顕れは「蛇」として見出されるケースがあります。
古くから知恵の象徴とみなされてきた蛇。噛まれると毒があり、しめられれば窒息するといった危険性を持ち、未分化なリビドーの心像ともみなされる。
このような蛇はまさに「劣等機能」、「トラウマ」、そして「内なる異性」に結びつきやすい「動物」の要素だといえましょう。
ところで、これまでの記事とここまでの内容を組み合わせることで、以下の曲がPVを含めて何を伝えんとしているかが理解できることと思います。
是非とも挑戦してみてください。
いちいち説明しないだけで案外みんなわかっててやってるんですよ。


✡︎アニマ:さいごに…
このようなしんどい記事を最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
この記事は私がお伝えしたい諸々の中でも伝えるのが本当に難しい内容でした。けれどこの内容を避けては今後の記事を書くことができないのです。この記事を乗り越えられて本当によかったです。
ここからはかなり楽に記事を書いていけると思います。
重ね重ね本当にありがとうございました。
暗い内容が多かったので最後は少し希望が持てるような内容を記したいと思います。
ここで記したような内なる異性「アニマ」について男性はどのように対峙すればよいのか。
それは、
ただの普通の一人の人間として彼女の笑えない冗談を笑ってやること。
あなたの心という王国に彼女が人間として暮らしていける場所をなんとかして確保すること。
そして彼女に普通のおばあちゃんとして最期を迎えさせてあげることなのです。
このことについてエンマ氏の著作から抜粋して記事を終わりにします。
これに関するとてもみごとで的を得た例は、ムゾイスにより新しく手を加えられた、本来はチェコの童話のリブッサにみられる。それをここで簡単に述べよう。一人の木の精の物語であるが、彼女は自分の槲の木が危険にさらされているのをみた時、クロクスという名の若者に守ってもらった。彼の尽力の褒美として一つの願いがゆるされた。名声と名誉、富、愛の幸せ。しかし彼はそのどれも選ばず、「槲の木陰で行軍の疲れをとるために休息すること」を望んだ。そしてまた妖精の口から「未来の秘密を解くために賢者の教えをきくこと」を望んだ。願いは聞き入れられた。毎晩たそがれどきに彼女は彼を訪れて地の蘆の茂った岸辺を散歩した。彼女は「自分の忠実な弟子に自然の秘密について教え、事柄の始原と本質について教えた。その自然的で魔術的な特性を彼に教え、粗野な戦士を思索家で哲学者につくり変えた。美しい影の人との交わりにより若者の感覚と感情が繊細になったと同程度に、妖精の繊細な形姿はいくぶん堅固さを増すようにみえた。彼女の胸は暖かさと生命を感じはじめ、彼女の褐色の目は火を感じはじめた。また彼女は年若い婦人の姿に加えて、花開く乙女の感情をもったように見受けられた」。
ここではアニマ形姿との関係により生じる作用と反作用が大変適切に述べられている。妖精はいくらか堅固なものを獲得し、より現実的で生命的となるが、他方男性の感情は、ある分化を経験し、彼はその上「思索家で賢者」にまで教育され、それにより名声を得るのである。この童話は自然な形でおわる。妖精は彼女の主人との長い共同生活の後に、ある日自分の槲の木の避けがたい最後を予見し、彼の元を立ち去る。槲の木は雷に打たれる。そうして妖精は、その人間性にもかかわらず、木の命と結合していたその命を永久に失った。

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・参考文献
・河合隼雄著作集1 ユング心理学入門
・「内なる異性 アニムスとアニマ」著:エンマ・ユング 訳:吉本千鶴子 笠原嘉 海鳴社
・「熊神 縄文神話を甦らせる」 著:川村湊 河出書房新社
・今回の音楽
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