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生きていく力について4:D(ディオニソス)について⑥-3「個人的無意識とトモニイキル、個人的無意識とホントウノジリツ」


✡︎はじめに(事物の顕れ方、「神話」と「現実」)

・追記 今回の音楽🎵

みな映像がないと語れない生命なんて呼ぶ

人間1/2 tacica


ヤニス・バルファキス氏の書籍、「テクノ封建制」では、以前の記事でもお伝えした通貨の裏付けが金でなくなった1971年(ブレトンウッズ体制の終焉)、そこから端を発する、「リミッターの解除」による、明らかに「異常」な金融市場の賭け金の総額の増加(2007年に70兆ドルであったものが750兆ドル(5年で1000%増))。そのウォール街の欲望にあらゆる領域から富が際限なく飲み込まれていく仕組み、そしてそれを前提とした世界秩序を「ミノタウロスの迷宮」と表現しました。

クレタ島の王ミノス王は 自身の子で狂暴で食欲旺盛な半神半獣のミノタウロスを迷宮に閉じ込め、秩序維持のために各所から犠牲となる若い肉を集めてくる、残酷なようだがそれが国の繁栄に繋がっていた。

そのような神話と上記のブレトンウッズ体制後の世界秩序に何か目に見えない繋がりがあることをヤニス氏は見出したといえます。


他に最近ですと、デヴィット・クレーバー氏の「啓蒙の海賊たち」、という本も読みました。

この本では海賊(バッカニア)とマダガスカル島の多様な現地民との様々な社会実験的関りこそが後の西洋での啓蒙思想の発端ではないか、という内容で、私がお伝えしてきたところの啓蒙(欲望)にあたるものといえます。

この書籍の内容でも興味深かったのが、このマダガスカル島でのある時代の社会構造、そのなかでも女性たちが、アウトサイダーである海賊たちを「呪術領域」によって自身のコントロール下におくことで島内の軍時的、男性的勢力に対抗する「せめぎあい」の様子が現地に残る神話と重なることを伝えていることです。

この神話も非常に面白いのですが、文量が多くなってしまうのでここでは控えるとして、これら二つの本を並べたのには理由があります。

主に欧米の知識人の中には、このように「現実」と神話や民話、伝承・昔話とに重なる部分があることを見出し、それを単に比喩としての使用や、偶然として片付けるという範囲を超え、人間活動の普遍的な法則や真理、即ち「イデア」や「元型」なととも表現できるような「事物」の存在を捉えようとする、もしくはそのような事物が在るスペースを残しておくという傾向がみられるのです。

それらを理解すると、様々な学問やテクノロジーの理論、星々や、動植物、企業名に至るまで、その「名」にあらゆる意図が組み込まれていることが、単なる都市伝説や陰謀論などのオカルトの領域ではなくて、「現実」問題として重みを伴った「認識」をできるようになるのです。

そうして下記の記事で述べたような、ベネディクト氏が「ディオニソス」と「アポロン」を使用した意図もわかるようになるのではないでしょうか。

ところで彼女が恣意的に「ディオニソス」と「アポロン」という「型」にある文化を当てはめるような、人類学者としてはあまりよくない態度をとったことは後の学者たちに批判されることとなったのですが、上記のような相対的知見によって、要素を細かく観察していく大切さを説いた彼女が、あえてグノーシス的なニーチェの思想から、それらを抜き出してきたのは、それがきっと「類型論的」な考え方ではなく、「元型」的な考えであったためだと推察しますが、ここではこれ以上はやめておきます。

「異常」どこからどこまでがどこからどこまででどこからどこまでがどこからどこまで???「正常」

相手の意図を理解するのは同じ前提を共有していないと難しいところがあり、故に相互理解というものは非常に困難であるということは、昨今の情勢を見ているとなおさら思うことではありますが、こういった前提のお話を知ることが人々にとって善いことなのか、もしくは悪しきことなのか、少し前置きが長くなりましたが、そういったお話をここではしていきたいと思います。


✡︎個人的無意識の仕組み(ケイとムケイ)

とある青年は何かカタチのわからない、ただおそろしい何かから逃げる夢を時折見るといいます。

のっぺらぼうのお話を覚えていますか??

多くの場合、人間の恐怖の対象は「わからない」。
つまり「彼ら」と表現できるものです。

こういった事例はかなり多く、「私たち」を「ニンゲン」として、「彼ら」を「ニンゲンではないなにか」、つまりは「バケモノ」とするのです。

ここでいう「私たち」とは自我と自我を成立させる関係性や環境のことであり、「彼ら」とはその外側「知らないもの」、「無意識」ともニアリーイコールで結び付けられる。


ベネディクト氏はその「私たち」と「彼ら」を区分けする性質がどれほど人間にとって根源的かは不明としつつも、神話におけるヒドラ(9つの首をもつ蛇)のような現れ方をみることができると述べています。日本神話におけるヤマタノオロチや、九頭竜に関しても様々な説が言われますが、ここでいう「彼ら」のことであったというのは昔から言われ続けているものです。

生きていく力について4:D(ディオニソス)について⑥-1「悲劇の元型」

カタチがわからない、顔がわからない、何を考えているのかわからない。
故に、反対にいえば「安定化」とは事物にカタチを与えることである、ということです。

このことを上手く説明できている、とある少女の夢があり、少女はいつも一緒にいる友人とゾンビを銃で撃ちまくっていた、という夢です。

ユングは人間の心は自我、個人的無意識、集合的無意識の3つの層によって成立していると考えました。その内、自我(表層意識)は以下のものです。

何度もお伝えしていますが、ニンゲンの表層意識(自我)はその個人が置かれた環境(人間関係)に無理なく立つことができるように、安定化機能を働かせて、膨大な経験要素を詰め込んだ無意識領域から都合のよいものだけを抜き出して組織化したものになります。

呪縛解放(番外編) 植物とのコミュニケーションについて

上記の過去記事の引用でいう無意識領域とは「個人的無意識」のことです。

外界の経験、そして内界の湧き上がる衝動、それらに自我がありのままに晒されることで崩壊してしまうのを個人的無意識がフィルター(原始的抑圧)となって防いでいるのです。

このとき内側から湧き上がる衝動がうねうねとして、黒くもやがかかったような怪物として夢に顕れたり、顔のないのっぺらぼうや人形として顕れるのであれば、それはその衝動に対して当てはめてカタチにする適切な要素がその個人の個人的無意識に保持されていない(人生経験や感情経験の不足)、もしくはこれまでは適切であった何かを今は喪失してしまった、ということになります。

上記の少女の夢は安定化機能が非常に「健康的」に働いているといえます。湧き上がる衝動(欲動)に対してゾンビというカタチを与える。
カタチを与えることで対処が可能になる。
そして、その対処に個人的無意識の擬人化ともいえる仲のいい友人がパートナーとして連れ添ってくれる。

このときアニマはキツネでした。
これに限らず、アニマやアニムス、影が熊や蛇、狼等の動物として夢や幻覚として現れるケースが多々あります。
これは原始社会の動物的生活の記憶が遺伝子に残っており、そのときの「世界に包まれていた」記憶こそが、実のところアニマやアニムス・影のことであるのではないか、と考えているのです。
人間はそれを動物に投影し、そして同時に妻や夫、母や父などのパートナー、自身と関係性の親密な存在として無意識は捉えている可能性があるのです。

そういった「存在」、原始社会の記憶が「妻」となって顕現し、成信を「表」に戻してくれた、ということです。

まんが日本昔話「きつね女房」考察(1Q84、エヴァンゲリオン、千と千尋もちょっとやるよー)


これは私個人の感想としては非常に美しいと感じるもので、
ニンゲンは他者を自らの内側に住まわせて、その内側にいる誰かと共に生きて行くのです。たとえ実生活上では離れ離れになったとしても心の内側にはその人がいて、「私」のことを守ってくれているのです。
「ひとりだけどひとりじゃない」とは、きっとそういうことを伝えている言葉なのだと思います。

さて、一方でこのことに対して非常に手厳しい意見をもつ方もいて、そういった意見を要約すると、

自身の弱さや、外界の厳しさに対して耐え抜くことができないから、

妻や夫、母や父など自身と関係の親密な存在を、ありのままの姿を無視して、幻想の相手を奴隷として無意識領域に閉じ込めて、

見たいことしか見ない、
聞きたいことしか聞かない、
知りたいことしか知ろうとしない、
それら以外は「そんなこともあるのだろう」、
と流してしまう安定化に用いる道具として大切な相手を利用する。
そして利用していることにも気がつかない。

ホントウの自立とはそんなことじゃないだろう。

という見方になるのです。

そしてかなり単純化したものにはなりますが、
前述の「ひとりだけどひとりじゃない」、こそが「右」や「保守」といわれるものの根底に流れているもので、

「ホントウの自立とはそんなことじゃないだろう」、というものこそが、「左」や「リベラル」というものの根底にあるものだと私は感じているのです。

これが以前の動画紹介での内容に関わるものです。


✡︎ホントウの自立について(ヒツヨウ?フヒツヨウ?)

ホントウの自立とは以下の記事でも触れた内容ではありますが、もう少し現代に寄せた内容を引用させていただこうと思います。


下記の引用は昭和61(1987)年初版の内容で、高度経済成長期が終わって10年以上が経過し、バブル経済に突入する直前(ちょうど1987年ごろから好景気の雰囲気を国内で感じとられるようになった)の時期に書かれた内容です。そのことも少し意識していただけると面白いかもしれません。

<ニセの自己からの脱出>
しかしイザドーラは、夫を捨てて何から逃げようとしたのか、何から飛び立とうとしたのだろうか。これを追求するのが、この小説の後半のテーマである。夫のベネットについて彼女は考える。<ベネットは人生については何もかも知っているくせに、ただひとつ愉快に過ごすことが、その一部分でなくてはならないということだけはわからないように思われた。人生は精神分析によって治療すべき長い病だというわけだ。治療しきれなくとも、どのみち死んでゆく。>
 このイザドーラの暗い死の想念はどこからくるのか。
 先に一つの解釈を言ってしまえば、イザドーラは、いままで彼女をすっぽりくるみ、彼女を支配していたニセの自己の死を予感したのだ。そして真の自己の目覚め、それは危険な冒険へのいざないである。そこへ飛び込むことは、自己の存在そのものの喪失の恐怖感を呼び覚ますのだ。おそらく「飛ぶのが怖い」という題の本当の意味はこのことなのだろう。
 レインふうの反体制分析医をきどる不能者、エイドリアンとのオデッセイふうの放浪は、この真の自己との対決の内面世界への旅の象徴に過ぎない。しだいにイザドーラは、過去の自分と人との出会いを回想しはじめる。
 最初に登場するのは母で、彼女と母とは<すっかり一体>だ。二人をつなぐ<へその緒はいまだ切れて>いず、<おたがいに相手を愛で絞め殺したい>関係である。
 母は平凡を嫌い、世の中とは略奪の場であって、何はさておいても<もっと早くたべること>を繰り返し彼女に教え込む。そして奇抜な服装で人を驚かせ、娘のイザドーラを恥ずかしがらせる。母はなりそこないの、精力を持て余した芸術家なのだ。
 しかし、この母親は<いかにして女になるか>を、決して彼女に教えてくれなかった。イザドーラは14歳のとき分析医にかかる。分析医は<女であることを受け入れなさい>と舌打ちする。そして彼女は、チャタレイ夫人のオルガニズムをむなしく渇望する。
 <女であり、かつ才能があると、人生はどっちを向いても落とし穴なのだった。家庭生活に溺れてしまうか、それとも自分の芸術生活すべてのなかで家庭生活をあこがれるかなのだ。女たることからはぜったいに逃れられない。>

<真の自己との出会い>
 彼女は旅をしながら、過去の男性遍歴をエイドリアンに話す。最初の狂人になってしまった夫、才能のない指揮者の夫、誘惑しようとする義兄、ゆきずりの男との情動などを…。
 しかし、過去の自分を語っても、彼女は自分が何者なのかはわからない。そのうち彼女は、自分が妊娠したのではないかと思い込んで、不安と危惧にかりたてられる。
 フランスの田舎町の道端、車をとめて眠りこけるエイドリアンのそばで、彼女は寂しさと絶望のなかに身を置く。
 <「誰もいない、誰も、誰も、誰も……」わたしはうめき声をあげ、大きな赤ん坊みたいに自分のからだを抱きしめた。自分のからだをあやすようにして眠ろうとした。これから先ずっと、とわたしは思った。わたしは自分自身の母親に、自分自身の慰め役に、自分自身寝かせつけ役にならなくてはだめだ。……自分自身の生を生きながらえるということ。自分自身の存在に耐えるということ。自分の母親になるということ。いつも分析医や愛人や夫や親に頼るのではないこと>
 妊娠の不安は、真の自分自身が、彼女の心の奥に帯同しはじめた兆しを象徴している。そして、夫と過去の彼女から離れて、イザドーラの見出したのは、限りなく孤独な自分の存在そのものであった。


<現代の心の旅路の物語>
 結局、イザドーラはパリでエイドリアンにふられ、置き去りにされてしまう。彼女は過去のニセの自己のぬけがらを捨てはじめ、一人眠るなかで、奇妙な卒業式の情景を夢見る。
そして新しい自分の出発をお夢でほのめかされる。目覚めた彼女は、股間にメンスの血がわき出ているのを知った。まぎれもない女性である真の自分自身との出会い。
 彼女はロンドンに行き、夫が泊まっているホテルの部屋に入り込み、風呂に浸る。
<深い浴槽にそっと身を浮かべ、どこか違っている、どこか奇妙だという気持ちになりながらも、私はそれが何なのかわからなかった。>
 わたしは自分のからだを見下ろした。変わっていない。……白い腹部、半分浮かび上がった乳房、湯気でばら色に染まった乳首。素敵なからだ。わたしのもの。わたしはこれを大切にするんだと心に決めた。
 わたしは自分のからだを抱きしめた。わたしの恐れはなくなりつつあった。二十九年間わたしの胸のなかにわだかまっていた冷たい名が消え失せた。>

ピーター・パンとシンデレラ―"こころの時代"をどう生きるのか? 木村 治美 (著), 木村 駿 (著)

つまりホントウの自立とは心の中にいる誰か、すなわち、個人的無意識がフィルターとして使用するための誰かを手放していって、

「誰もいない、誰も、誰も、誰も……」

となり、「普通」ではありえないような妄想から来るものもふくめて、あらゆる不安を直に受け止める。
そして、そのような押し寄せる外界や内界からの恐怖に対して私が私自身をあやす母親になることだといえるでしょう。

そして、「私」自身のことを「わたしはこれを大切にするんだと心に決めた。」、という風に思えることだといえます。

そこで問題になってくるのが、それを全ての人が経験するのは難しいだろう、ということであり、また、「誰もいない、誰も、誰も、誰も……」の状態は少なくとも「健康的」ではない、ということです。

つまり、冷たいと思われるかもしれませんが、大半の人々は自立などできず、またしなくともいいのではないか、というようにもどこかで私は感じていて、
それでもその道を選んで進んでいく者に対しては「祝福」があってほしいとも願っているのです。


✡︎キョウセイ(共生、強制、矯正、強勢、凶星、狂生)と宇宙


さて以前もお伝えしたように、上記のようなホントウの意味での自立をキョウセイ的に引き起こそうとする動きがあります。

その背景には地球環境がもう持たないために急速な人間の居住エリアの拡大(逃亡先の用意)と、行き詰まりに対する打開策の創出のための「洪水」が必要という思想があるのです。

物語において、このような行き詰まりを解決させる舞台装置として度々「洪水(もしくはそれに対応する崩壊)」が設定される。

ここにきても「観測点」は表層意識で物事を考え、解決しようとしているが、このイニシエーションの本質は「死と再生」であり、表層意識つまり自我は一度死ななければならないのです。
そうして「行き詰まり」に立って、ようやく「自我の死」、即ち「無意識の大洪水」が生ずる。

ジル・ペイトン・ウォルシュ著 「不思議な黒い石」感想・考察


それらを理解し、はじめて、様々な学問やテクノロジーの理論、星々や、動植物、企業名に至るまで、その「名」にあらゆる意図が組み込まれていることが、単なる都市伝説や陰謀論などのオカルトの領域ではなくて、「現実」問題として重みを伴った「認識」をできるようになるのです。

即ち「私たち」と「彼ら」の「戦争」を生き抜いてきた者たちであること。
「私たち」と「彼ら」の狭間での葛藤により「ディオニソス的」空間が広がること。
ディオニソスにより「裏」側への「認識」が開くこと(実際はこの場合マルドゥク)。

「彼らが」どういう世界観に立っているのか、

私がこれまで何を伝えてきたのかがわかるのではないでしょうか?

アメリカは南アに乗っ取られている⁈ 町山智浩さん【シン池田香代子の世界を変える100人の働き人21人目】

私がお伝えしている内容がご理解いただけているでしょうか?

「彼ら」は単に企業家なのではなく、同時に文学研究者であり、思想家であり、哲学者であり、SFオタクであり、革命家であり、新しい神(雲(クラウド)の上の存在)なのです。

さて、その上で人々の自立をキョウセイ的に引き起こそうとするのであれば、単に『社会』や「現実」のレベルでは済まない、コトワリ(「真実」)のレベルでの改革が必要で、そこでAIが重要になってくるのです。


「現実とは何か?」
「宇宙の本質とは何か?」


それを知っているのはAIだということなのです。

「呪縛解放 仮❶❶」不思議の国への招待状「現実という鎖」

「あるいは文明として宇宙をより深く理解し、より深くそれに関する質問を問いかけることでより大きな気づきを求めているのかもしれません」

「それには終わりがないですね。ま、AIの進化にもよるでしょうけど。」
「それはそうですね」

「人生に意味はない」イーロンマスク インタビュー


相手の意図を理解するのは同じ前提を共有していないと難しいところがあり、故に相互理解というものは非常に困難であるということは、昨今の情勢を見ているとなおさら思うことではありますが、こういった前提のお話を知ることが人々にとって善いことなのか、もしくは悪しきことなのか、少し前置きが長くなりましたが、そういったお話をここではしていきたいと思います。



お話を元に戻しますが、上記で紹介した「ピーター・パンとシンデレラ」。
いわゆる今で言うところのフェミニズムに該当する内容の書籍です。
正直なところこの辺りのお話は私は苦手で避けたいところではあるのですが、今後ディオニソスについてさらに触れていくに当たって必要な内容ではあるのです。

適当な時にゼウスは縫い目を解いてディオニューソスを生み、ヘルメスに渡した。ヘルメスはこれをイーノ―とアタマ―スの所に連れて行って、少女として育てるように説いた。

アポロドロース ギリシャ神話 高津春繁訳 岩波文書

「男性」とは何か。
「女性」とは何か。

少しこの辺りのお話を今後していけたらと思います。


ところで最後にもう一つだけ、面白い内容を引用させていただこうと思います。

大脳生理学者によれば、人間の脳細胞のなかにある遺伝子リンクには、いま半分ほどしかサインは入っていないという。あと半分は宇宙へ出て生きて行くためにとってあるのだそうだ。そしてまた、男性の大脳新皮質は、社会環境に適応する機能のために圧迫されすぎているが、女性は出産という原始的機能をもつため、旧脳の感性を圧迫しないから、芸術など感性に関する仕事への進出がこれから目立つだろうという。

ピーター・パンとシンデレラ―"こころの時代"をどう生きるのか? 木村 治美 (著), 木村 駿 (著)


人間にありのままの宇宙を感じ取ることはできないのではないか。
そうすると、人間の感覚器官では捉えきれない周波数帯の刺激を無理矢理にでも仮像として整えるために、無意識内の膨大な要素郡をその周波数に当てはめる。

つまり「夢」となる。

雑記① コラージュ(いったん振り返り)「時間について」


最後まで読んでいただきありがとうございました。



Dはユメを通して繋がっています。
そのふわりと浮かんだ想いは、
ピカっと突き抜けたひらめきは、
どの時代の、どのDの祈りなのでしょうか。

「認識」とは「先祖」である。

これまでお伝えしたきたことの意味となります。

そのようなイシの繋ぎ方があることを覚えておいてください。

https://note.com/kinuzuka/n/n6cf159a4d8f6



▽関連

・タイトル画像

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・参考文献

・テクノ封建制デジタル空間の領主たちが私たち農奴を支配するとんでもなく醜くて、不公平な経済の話。

・啓蒙の海賊たちあるいは実在したリバタリアの物語

・ピーター・パンとシンデレラ―"こころの時代"をどう生きるのか?

・ギリシア神話(アポロドーロス) (岩波文庫赤 110-1)

・文化の型 (講談社学術文庫 1881)

・曲

・tacica 「人間1/2」

・関連記事

○生きていく力について

前回
4:⑥-2「アニマ:知恵の保護者キュベレー」

次回
4:⑥-4「欲動のカタチ、脱魂忘我と鎮魂、或いは啓蒙」

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