雑記③『社会』について、ユメについて
私の記事ではこの世界を大きく分けて「社会」、「現実」、「真実」の3つの層として捉えて様々なトピックを扱ってきました。
ここでいうところの「社会」は主として、個人の認識の世界である自我を象る環境・関係、即ち共同主観(「私たち」、「表」)を指しています。
それに対して「現実」は「私たち」の外側の広大なる要素郡、
「真実」は「自我」のもっと深淵に位置する無意識にため込まれた要素群を指しています(「彼ら」、「裏」)。
とはいえ、社会も、現実も、真実も非常に大きな箱であり、そこにどのような認識(プログラム)を組み込むかは各個体が経験し、取り込む要素によりかなり違いが生じてくるので、組み込まれたプログラムの相違により、会話にならない状態が生じるわけであります。
言葉とは何かを考えてみたとき、私はプログラミング言語を思い出します。
「りんご」という箱(class)を設定し、そこに🍎という外観や味、植物、バラ科、落葉高木、フジやシナノスイートなどの品種といった変数やメソッドを入れ込む。
これにより「りんご」を宣言すれば他者との間で意思疎通ができます。
私が今適当に作った造語「あべびぼるや!」と大声で宣言しても、その箱には変数もメソッドも何も入っていないので何も起こりません。
つまり言葉とは「箱」に「概念」を入れ込むことで構成されている、と考えます。
この「概念」こそ「言霊」と言えるのではないでしょうか。
つまり言葉とは、少なくとも現在においては各個人により組み込まれる認識が異なって「社会といったら社会なのだ」とはならなくなっている、ということです。
故に他者が社会という単語を発した際には、その個体がいう社会に組み込まれているプログラムを探っていく必要性がでてくるといえるのです。
私はそのような認識の相違が好きです。
そのような前提の上で、この記事においてこれまでとは違う認識の社会について触れていこうと思います。
この記事において、とはいっても今後も使用していく認識ではあるので、これまでの「社会」と分けるために、今後『』つきで『社会』と表現していこうと思います。
いくつかの記事でフランス革命について触れてきました。
その内詳しく取り上げていく内容になりますが、簡単に概要をお伝えすると、この革命は当初は先代の王族たちが残した財政難によりそれまで課税義務のなかった貴族や聖職者への課税について話し合うために三部会をルイ16世・王自らが招集したことから端を発しています。つまり彼自身はかなり国民に対する理解があり、国民もまたルイ16世に対して崇拝の姿勢をもっていたのです。それがなぜか「王という存在そのものが罪」という「罰」によりギロチンによってルイ16世は処刑されるのです。
その後、なぜかそれまでの人生では弁護士として死刑制度廃止を訴え続けていたはずのマクシミリアン・ロベスピエールが恐怖政治の中心人物として革命に反対の立場をとる者(そのように見える者)を片っ端からギロチン送りにしていったのです。
この混乱を収束させたのがナポレオンによる独裁で、彼は戦争のために効率的に戦力や労働力を動員するシステムを作り上げ、それこそが現在の「近代国家」と呼ばれるものであり、そのシステム同士の大規模な戦争が「世界大戦」なのです。
誰もが幸せになりたいと願って、誰もが死にたくないと、もう死んでほしくないと願って、学者や政治家、活動家も混乱を鎮めるための施策を必死になって考えて実践して。
それなのにどうにもならない、
それなのに混迷は増していく、
どうしてもどうにもならずに混迷は増していく。
この「異常」な状態をせめてしっかりと観察し、後世に伝えるために名前をつけようとしたとき、『社会』と名付けたのです。
昨今の情勢不安により多くの問題が噴出し、人々は社会がどんどん「異常」になっていると感じ始めているようですが、上記の『社会』の認識をベースにしたとき、むしろ『社会』とはそういうものであり、社会はどんどん「正常」になっている、ということができるのです。
だってそうでしょう?
優秀な学者とは、
優秀なビジネスマンとは、
問題を創り出す者ではないですか??
世界の中でだれも気に留めなかったことを問題として捉えて、それを周知し、それに対してアプローチして、お金を生み出すこと、次の研究につなげること。
もちろん、それによってこれまで明るみにならなかったようなジェンダーや、出身地域、人種等による差別や、虐待や体罰、いじめなどに対し、人々が問題として認識できるようになった、ということは非常に重要なことではありますが、多くの場合それら「問題」はその最初の発見者の手を離れて暴走し始める。
むしろ問題が大きくなる程、それにコミットすることで「やってる感」や「ジョセイキン」を得られるようになり、人々はもっと問題を求め、果ては自らで「問題」を創り出すようになっていくのです。
そうして
誰もが幸せになりたいと願って、誰もが死にたくないと、もう死んでほしくないと願って、学者や政治家、活動家も混乱を鎮めるための施策を必死になって考えて実践して。
それなのにどうにもならない、
それなのに混迷は増していく、
どうしてもどうにもならずに混迷は増していく。
ほらね?
『社会』は200年前から、ずっとずっと「正常」だったでしょう??
「社会はクソだ」
そのような言葉を誰もがどこかしらのタイミングで耳にしたことがあるはずです。それについてあなたはどのように捉えていたでしょうか?
負け犬の遠吠え?
役立たずの遠吠え?
未熟者の遠吠え?
あなたがもし「正常」に苦しんでいるのだとしたら、これまでそうやって
見たいものだけを見て、信じたいものを信じて、実際は何の根拠もないのに、周りの雰囲気だけで誰かを黙らせてきた罪を贖っているのかもしれません。
「スベテアナタノセイデス」
「ツミヲウケイレテムヘトカエリマショウ」
そう言われてあなたはなんと答えるでしょうか?
さて、『社会』というものがそもそも「異常」なシステムであり、故にこれまでその「クソさ」を、「感情」や「思考」、「感覚」や「直観」を使用して鋭く捉えてきた者たちも沢山いたのだということですが、それを前提として、そのような『社会』に対してどのように向き合っていくかに関しても多くのカタチがこれまで提案されてきたと想定できるでしょう。
たとえば『社会』が「異常」であることを認めた上で、抜け道や脱出先を創り出そうという考え。
「異常」なシステムであるとはいえ、そのシステムの中で生まれて生活してきてそれを普通と捉えている人々に、どうしたらこの「異常」さを分かってもらえるのか?
どうしたら『社会』の外にも世界があることを認識してもらえるのか?
何が抜け道として有用なのか? 何が脱出先として有用なのか?
それは『社会』通念や「社会」通念と対立した場合どうするのか?
脱出先は持続可能なのか、政治による締め付けをくらわないのか?
これまでの宗教団体のコミューンのような「私たち」と「彼ら」の「戦争」に発展しないのか?
たとえば『社会』が「異常」であるのならば「コワレテシマエバイイ」という考え。
それはどこまでコワレルことを想定するのか。
どうにかして、「大難を小難に、小難を無難に」できないのか?
コワスのは人為的に行うのか?成り行きに任せるのか?
成り行きとは何か?情勢不安か?経済不況か?自然災害か?少子高齢化か?
人為的というのなら、それは人々の理解を得られるカタチで行えるものなのか?理解は求めないということなのか?
そもそも何をコワスのか?
認識をコワシテあるべきスガタに戻そうというのであれば「自我の死儀式」を社会規模で行うということであり、それは成功すれば「革命」、失敗すれば「テロ」と呼ばれるような「暴力」になってしまわないのか?
暴力に訴えるとしたらそれはどこまでで止めることを想定し、そして想定した通りのタイミングで狂乱を止めることができるのか?
たとえば『社会』が「異常」だとしても継続することを選び、「異常」の中で大切なものを組み込んで繋いでいくという考え。
そのために人はどれほど強くあらねばならないのか?
さて全体として私がお伝えしたいこととして、
社会というのは上記のような各領域、各層の者たちの思想や知識、経験、パワーバランス等の綱引き、せめぎ合い、タタカイによって成立している、ということです。
たとえば「異常」の中で大切なものをどうにか繋いでいこうとした人々がいるから今あなたは日本語を話しているのです。
世界最強と言われるパスポートを所有することが可能になっているのです。
アニメや漫画などのコンテンツによってメッセージが紡がれてきているのです。
給食にご飯が出るのも、2011年に日本が終わらなかったことも、神社やお寺が今でも残っていることも、全部「あたりまえ」などではなく、タタカイの中で紡がれてきたものなのです。
「あたりまえ」などこの世界には一つたりとてありはしないのです。
あなたもそうです。
あなたが今そこにいるのは奇跡といっても過言ではなく、それほどにあなたは貴重で希少な存在なのです。
あなたは「あたりまえ」ではないのです。
その貴重さや希少さを『社会』の基準のみで判断してほしくないのです。
その上であなたは何を「正常」として、「異常」として、どこに立って何を主張していくのでしょうか?
あなたと違う場所に立つ者に対しては何を語れますか?
語り合うつもりがそもそもない者に対しては?
それとも考えることに疲れ果てて電脳世界へ解脱しますか?
あなたがそれでも、「異常」の中で構築したい世界があるとしたら、
それはまさしく「ユメ」といえるでしょう。
あなたのユメはなんですか?
私はあなたが命果てる最期の瞬間まで、
「この」世界でユメを追いかけ続けるニンゲンであってほしいと、
そう願っています。
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