雑記④ GARNET CROW について(直感型の天才について)
・Last Love Song (形而上学的空間の顕れ)
表題のGARNET CROW(ガーネットクロウ)というアーティストについてですが、幾度か私の記事で楽曲を紹介させていただいています。
というのも、私は子どものころにガーネットクロウの楽曲を沢山聴いて、(こんな脳の使い方があるのか)と感動し、このアーティストの作詞・キーボード担当の方を非常に尊敬していているのです。
ガーネットクロウ、少し長いので略称ガネクロで記述していきますが、何がすごいのかといえば、一見普通の、もしくは少し重めのラブソングのように見えて非常に深淵な哲学を内包している、その「さりげなさ」なのです。
たとえば以下の曲。
一見シンプルなラブソングにも感じられますが、非常に面白いのが終盤の歌詞で、
時を止めたlast love song
流れ続けるlast love song
回り続けるold player
この歌詞でわかることが、この曲の内容は「音楽」である、ということ。
事物(元型)には二つの顕れ方があることをショーペンハウアーは指摘し、ニーチェはそれを引用しました。
即ち、「現象(自然)」と「音楽」です。
これは共通の事物から生じた異なる顕れであり、またそのように音楽に価値を与えるとき、音楽は現象と同じ重みをもった高度な言語になる。
音楽は無意識領域内の要素とその繋がり(node)の作用の旋律
音楽は形而上学的空間の顕れ
音楽は元型のイシの言葉
目には見えないが精霊の世界に形体を与え、われわれの前に具象化する空間
「普遍世界」に在る「元型」が現象として顕れるとき、誰かがいつか経験した空間、誰かがいつか経験する空間を、「私」と「彼(彼女)」が経験している。その再現された空間で何を選び、どのように生きていくかは当人たち次第ではあるが、その中を生きることそのものが「個性化」、即ち「本当の意味での大人」になる、ということでした。
ここで、この人が自分の生き方について考え、それを実行してゆくことを、ユングは個性化の過程(process of individual)と呼んでいる。それは極めて個人的であり、また普遍性もつものである。ここに例をあげた人にとっては、兄殺しの元型が大きい意味をもった。しかし、どのような元型が、どのような人にどんな形で作用してくるかはまったくわからない。ともかくそれは、日常的な生活とは次元が異なるところから出現してくるものとして、当人にとっては相当な苦悩を感じさせるものとなることが多い。
様々な古代宗教や部族の大人になる儀式(イニシエーション)は元々そういう、「本当の意味での大人」になるためのものであったのです。
「私」と「彼(彼女)」が(これが最後のラブソングである)ことを願う時、普遍的無意識の世界、イデア界とか、欲動界と呼んでも良いかもしれないが、そこで元型(ニンゲンのオリジナル)がいつかやり残した「時を止めたLast Love Song」が流れ始める(再現される)。
それはオリジナルが自分たちが選ばなかった、選べなかった別の結末を求めているのかもしれない、悔恨や怨嗟や、侘しさや、寂しさがあるのかもしれないし、摂理の中でその「設計図」が定期的に再現される意味があるのかもしれないが、それはわからない。
しかしながら幾度も流れ続ける、何度も人を変えて再現され続ける「Last Love Song」というのはCDやレコードを何度も再生することに非常に似通っていると感じる。
故に「回り続けるold player」という表現になるのではないか。
そしてこのような深みに対して表層意識上は気がつくことなく聴くことができる「さりげなさ」。
そのような楽曲がいくつもあることに、私が当時感じたことは、「これは考えてやってはいない」ということでした。
今現在の私の語彙で説明するのであれば、「表層意識(自我)の持つ限られた情報をこねくり回して作る理屈ではない」ということで、端的にいうなら「降りてきたもの(膨大な経験情報を貯蔵する無意識、意識されてない自分から)」を表現している、ということです。
あくまで比喩として聞いてほしいのですが、表象意識が保持できる情報を1だとしたとき、無意識領域は1万を優に超える情報を保持することができるでしょう。適当な数字ですが、それくらい表層意識と無意識領域との間には容量の差がある、ということを伝えたいのです。その莫大な無意識の情報量から、その個体が置かれている環境や人間関係等に合った要素を半自動的に抜き出して組織化する。これが自我、表層意識です。
簡単に言うと、「自我は関係性によって規定される」です。
そういった脳の使い方があるとガネクロの曲を聴く中で実感できたとき、(私もそれができるようになりたい)、と思ったのです。
「考えなくてもわかる」という「直観」的な脳の使い方のことです。
・夏の幻 (全体と細部、細部と全体)
次に紹介したいのが以前の記事でも紹介して、宿題とさせていただいた曲になります。多分ガネクロのなかでは一番か二番目に有名な曲だと思います(ブリトニー・スピアーズかよ、というツッコミはなしでお願いしたい。当時は今よりそういった事に関して緩い時代であったということで)。
この曲に関しても一見何の変哲もないラブソングとして聴くことができる。けれども、深く聴いて、観察していると「違和感」が生じる点がところどころにある。
ただのラブソングにしては表現が大げさな「進化していく時代」、「近づいてくる至福の時」、等々
また、歌詞のルビで「生命」を「ユメ」と、「命」を「まぼろし」と歌わせている。
もちろん、夏というはかない季節、青春を表現するための機能として働いている、というようにもとれますが、最後の歌詞で、
「海の底のような手のひらの中の街並み」、とある。
それはどのような時に再現できるかを連想すると、涙がとめどなく流れる瞼を手のひらで覆い、その隙間から見える街並み、という状況が推測でき、どうしてそのような状況になるのか、ということを念頭に、上記の夏のはかなさ、ユメのような生命、幻のような命、ということ考慮すると、セミが思い浮かぶ。7日間だけの幻のような命、夏の幻。
つまり、歌詞の中の「君」とは「セミ」と≒で結ぶことができ、その「まぼろし」が終わったから「海の底のような手のひらの中の街並み」となった、ということ。
そうして全体的な歌詞を振り返ったとき、そのような状況での喧嘩、というのは歌詞でいうとおり「些細な事で戸惑って」いたころのものでないのは確実でありますし、また、「キョリを超えた欲望」、というのも距離をカタカナで表現していることが単純な肉体と肉体、物質と物質の距離ではないことを表現していることがわかりますし、「強いオフショア」や「波」という海の表現も、陸「こちら側」から、海「あちら側」への風という意味が通るのです。
このような構成になっているが故に、細部の違和感から全体性に気がつき、構築された全体としての世界観から細部の表現が理解できる。
宿題というと押し付けがましいですが、この曲に関しても是非上記の要領で解読や共感をしてみてください。
ヒントを出させていただきますと、
この曲は全体が細部を説明し、細部が全体を説明しています。
この曲の作詞者は正にユングが言うところの「直観型」であり、その「方角」の天才と言えるでしょう。
ということなのです。
もちろん、これらはあくまで私の解釈なので、音楽というのはそれぞれがそれぞれの解釈や楽しみ方をするのでいいと思います。
「何の変哲もないラブソングととれる」という表現を上記で使ったのも、その受け取り方がおかしいとか、浅いだとか言いたいのでなく、そういった聞いたままに感じられるものも含めてその楽曲であり、というより、そういった様々なものを内包していることが直感型の天才が創る作品なのです。
少し長くなってきたので今回はこの辺りで終わりにします。
ガネクロに関しては紹介したい曲がもっとたくさんあるので、機会があればまたやりたいと思います。
また、他のアーティストの曲に関してもいつかやりたいな、とも思います。
最後まで見ていただき、どうもありがとうございました。
▽今までの記事で紹介した楽曲
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