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「異常」どこからどこまでがどこからどこまででどこからどこまでがどこからどこまで???「正常」

警察庁統計によると、日本国における令和6年度の総自殺者数は暫定で20,268人でした(令和7年1月29日時点)。

警察庁の自殺統計に基づく自殺者数の推移等[824KB]

この統計が開始された昭和53年から、年間の自殺者が2万人を切ったことはなく、またバブル崩壊による経済不況により平成10年から平成23年の13年間は、年間で3万人以上が自らの人生を自らの手で終わらせてきたのでした。

あくまで暫定値とはいえ、令和6年度は前年から比べて自殺者数も率も下がっていることはほんの少しでも希望が持てる要素ではありますが、世の中が目に見えて騒がしくなってきた昨今、未来に対する先の見えない不安や、何が正しくて何が間違っているのか、そして、

どこからどこまでがどこまでで、どこからどこまでがどこまでか…

その領域が溶けていく「異常」のなかで、

「死んでしまえば生きなくてもいい」、
「朝なんて来なければいいのに、ずっと夜が続けば…」、

そのように、「悲しみ」や「苦しみ」という言葉では表現しきれないナニカに突き動かされ「人生という鎖」を解いてしまう方々が来年度以降も増えることがないとは誰にもいうことはできないのです。


しかしそもそも、「異常」とは、「正常」とは何なのでしょうか?
人々は「最近」世界が「異常」に「なってきている」というが、もしかしたら毎年毎年2万人が自ら人生を終わらせるこの「社会」は、ホントウはずっと前から「異常」だったのかもしれない…。



ところで、2万人や3万人という数字をあなたは重みをもって想像することができるでしょうか?

何度も何度も、しつこくしつこくお伝えしてきたように、ニンゲンとは自身に入力されるあらゆる情報に対して、安定化機能を働かせてその価値を捻じ曲げることで表層意識を保つ(自己保存)、そのような、
見たいものしか見ない、
聞きたいことしか聞かない、
知りたいことしか知らない、
それ以外はそんなこともあるのだろう、とする生き物で、上記の2万人や3万人という数字も、それを見ている瞬間には半自動的にその「重み」を下げる調整をして本当にただの「数字」として認識するのです。

それはけっして「悪」ではなく、生きていくうえで、生き抜いていく上で、都合よく使用していただきたい機能ではありますが、あまりにそれに頼りすぎると、いわゆる「愚民」や「お花畑」と揶揄される状態となり、その裏で現に何万人も自らの手で命を終わらせているということすら、知らない個体が出てくるようになってしまうのです。

ですから、ときおり安定化機能をはずして「重み」に対して向き合う「儀式」を取り戻していただきたいのです。

あくまで私の理想としては、「表」と「裏」をある程度自由に行き来できる人間をこの世界に1人でも多く増やしておきたいのです。

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古に戻ってこの記事でいう「祭り」を再興するべきだ、などと言いたい訳ではありません。

「そんなのよくない!」などと言っても「攻撃性・暴力性」はあるのだから、それらとどのように一人一人が向き合っていくかが大事ではないか、ということです。
そうでなければ何度だって同じ歴史を繰り返してしまうではないですか。

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つまり、
キリスト教の広まりへの反動として仏教が持ち出され、
仏教に追いやられた文化の反動として神道が持ち込まれ、
神道によって天皇陛下を持ち出して作られた近代国家と軍国主義に対する反動によって平和教育が施され、
平和教育によるいわゆる「お花畑化」による反動としての「今現在」があると私は見ているのです。

キリスト教が、仏教が、神道が、近代国家が、平和教育が

それらが悪いのではなく、大本にあるのは、「追いやられた、顧みられなかった恨み」、「忘れ去られていく怒り」、「無視される悲しみ」、「異常者とレッテルを張られる憎しみ」、そういったものが、特定の思想の皮を被って、時代の変わり目に反動として現れる、ということです。

手を合わせることについて|大花 町



なのですこしだけ「重み」に対して向き合ってみましょう。

20,268人

この「数字」を「人」として受け止めるにはどうすればいいか。

あなたが当時通っていた小学校のことを思い出してください。地域や年代により異なるとは思いますが、ここではその小学校の全校生徒数を315人とします(令和6年度学校基本調査の公表について  (表1,在学者(計)÷ 小学校数(計))。

その全校生徒が校庭に集まる全校集会を想像してください。

校長先生の長いお話に退屈した後ろのともだちがあなたの背中に指でちょっかいを出してきて、やめてよとケンカになりかけます。
遠くの方で上級生がおしゃべりして先生に怒られています。
まじめそうなあの子が首をうんうん頷かせながら校長先生の話を聞いています(たぶんわかってない)。

それらがその場で一斉に首を吊ることを想像してください。

その「妄想」をあと64回繰り返せば20,268人です。

もちろんこの「妄想」は事象を恣意的にゆがめたもので現実的ではありません。
実際は一日に同時にそれが起こっているわけではありませから。
ですからできる限り、より正確に「妄想」を成り立たせるために、20,268人を365日で割って、便宜的に一日に55人が自らの手で人生を終わらせていると仮定します。だいたい1クラス強の人数です。

あなたの昔いた教室を思い出してください。

かどっこの男の子が教室の反対かどの席の友達に大声で話しかけて、先生に怒られています。
一番後ろの席の女の子がおともだちに手紙を回しています。何をやりとりしているのだろう。
少し離れた席のあの子と目が合ってドキドキして目を逸らします。
それを見ていた、ななめうしろのめざとい男の子がニヤニヤしています。

それらが一斉に大量の睡眠薬を飲む様子を想像してください。

その「妄想」を365日毎日繰り返せば、あなたの意識は、こと自殺という領域に関しては「現実」的なものとなったといえるでしょう。

さて、あなたの周囲でこのような「妄想」、つまり、「現実」を見ている方はいますか?

これがホントウに恐ろしいことで、実のところ、この国には「現実」を見ている者などほとんどいないのではないか?
もし、「現実」を見ている者がいたとしたら、それは人々に「妄想」を垂れ流す「異常者」と捉えられていることでしょう。

だとしたら、それらを見ないことが、聞かないことが、知らないことが、そんなこともあるのだろう、とすることが、「社会」的な「正常」なニンゲン、ということだろうか???

「異常」とはなんだ?
「正常」とはなんだ?

「善」とはなんだ? 「悪」とはなんだ?

「現実」とは? 「社会」とは? 「妄想」とは? 「真実」とは?


前述のように、異なる文化の間では、正常さの範囲は一致しない。ズニとクヮキゥトゥルの場合のように、文化が互いにひどく異なっているときには、ほんのわずかしか、正常さの範囲に共通の部分をもたない。北西海岸部族において、統計的に正常と考えられるものは、プエブロ族では異常の限界のぎりぎりの線からもはるかに外れたものである。クヮキゥトゥルで正常とされている競争は、ズニではただの狂気としか考えられないし、優越とか他人の侮辱に対するズニの伝統的に無関心な態度は、北西海岸部族の貴族の男子からみれば、馬鹿者の愚鈍さとしか見えないだろう。

「文化の型」ルーズ・ベネディクト  米山俊直訳(講談社学術文庫)

ベネディクト氏は一般に文化相対主義と称される人類学者です。

彼女についてはいつか詳しく記していきたいと思います。

著作「文化の型」の中で、彼女が「ディオニソス的」とした文化において、身内が亡くなった際にその悲しみのやり場を探して、ほとんど関係のない村に対して復讐の殺害を企てるエピソードが記されています。
ですがその文化において、それは「正常」なのです。

一方で彼女が「アポロン的」とした文化、「ズニ族」においてはあらゆる過剰さが削ぎ落されており、彼らは儀礼的で、穏健さと、他人に迷惑をかけないことを至上の徳としていて、近代文明に所属する私たちが考えるような司法権に類するものは何もなくとも、儀礼と穏健さによって文化が形成されている。ただそこにある儀礼には「なんのために」というものはなく、ただただ、「儀礼的」で穏健であるためにそこに疑問を呈することはないのであり、また穏健であるために大切な人の死を「儀礼的」によってできる限り速やかに対処する。そこには、愛する人の別れを長年心のしこりとして引きずる、というような「重み」はなくすべてが「形式」となっていく。
しかし、その文化において、それは「正常」なのです。

こういった違いについて、人は遺伝子や地理的要因がそうしているのであって、自分はそのような歪さは持っていないと安定化機能を働かせます。

これについてベネディクト氏は、ほとんど近くで生活している文化同士が、お互いに関わり合いながらも互いに違う文化を形成する事例や、ある文化から分かれて形成された、遺伝等の生理的要素が似通った集団が元の文化とは異なった文化を形成する事例から、地理的要因、生理的要因はあくまで一つの要素であることを示し、文化が形成されるうえでの複雑性を細かく説明していったのです。

ところで彼女が恣意的に「ディオニソス」と「アポロン」という「型」にある文化を当てはめるような、人類学者としてはあまりよくない態度をとったことは後の学者たちに批判されることとなったのですが、上記のような相対的観知見によって、要素を細かく観察していく大切さを説いた彼女が、あえてグノーシス的なニーチェの思想から、それらを抜き出してきたのは、それがきっと「類型論的」な考え方ではなく、「元型」的な考えであったためだと推察しますが、ここではこれ以上はやめておきます。


さて、この記事でホントウにお伝えしたいのは、あくまで「正常」とは、その文化の、その時点での標準偏差でしかない、という考え方です。

ですから「異常」とは、その標準偏差からはみ出た者や考え方を指し、それを「ネトウヨ」とか「パヨク」とか、「ADHD」とか「HSP」とか、「陰謀論者」とか、「ガイジ」だとか「糖質」だとか、うんたらとか、かんたらとか、そんな風に「見たいものしか見ない」、という安定化による「正常」がそう呼んでいるというだけのことなのです。

もしあなたが「異常」を抱えた苦しみに苛まれているのなら、少し歩いてみるといいのです。

その「異常」はどこかの文化では「正常」で、
その「正常」もまた、どこかでは「異常」なのですから。

でももしかしたら「少し歩いてみればいい」なんて、「強い人間の理屈」、「歩けるリソースがある人間の理屈」って思うかもしれません。

単純に「外に出て」みればいいのです。

まずは散歩をしてみて。
太陽の光が感じられるでしょう?暖かいでしょう?

背筋を伸ばすことを意識してみて。
実は背筋の伸ばし方にもいろんな種類がある。背骨に感覚を集中させて、自分に合った立ち方や座り方を意識してみよう。

たった一人でもいい。はれやかな顔で話すことを意識してみて。
その人数を少しずつでいいから増やしていけたらいい。

汗をかくことを意識して。スポーツが一番理想的だけどサウナもいい。
人間というのはツカレテモ自分で浄化する機能を持っている。
それが汗をかくことなんだよ。

そして神社に行ってみて。ほんの少しでいい。自分以外の誰かのために祈ってみて。

(たかがそんなことで)。そう思うだろうか?たかがそんなことで世界が変わることがあるんだよ。

後:||まごころを君に 「呪縛解放⑨AIという鎖」|大花 町


「現実」を知って、それでも「ヒビ」に輝きを見出そうとする態度は「祈り」のような生き方だと思います。

そのような人が「ホントウ」の「相対主義」ではない「」のとれた正常だと私は思いたいです。

そして忘れないほしいのが、「すべてのものは使い道があるから此処に残っている」ということ。たとえあらゆる状況が、人々が、要素群があなたの存在を否定しているように思えても、あなたがその姿でそこに存在しているということは、山々が、海原が、木々や草原が、星が、宇宙が、あなたがそこにいても良いと承認している、ということです。
宇宙が「居てもいい」と言っているのに、誰があなたの存在を否定できるのでしょうか?

そして、けれどやっぱり「強い人間の理屈」と言われても、伝えなければならないこともあります。

この先を生き抜いていくには選択肢を作り続け、選び続ける「上手さ」が大切になってきます。
「上手さ」を磨き続けてください。

あなたは宇宙が「居てもいい」という限り、「誰かにとっては正常で、誰かにとっては異常」な、「誰かにとっては善で、誰かにとっては悪」な選択をとり続けるのです。

それは必ずしも大それたことからでなくても、
「外に出る」ことからでいいんです。

忘れそうになったら、何度でも「思い出して」くださいね。


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