呪縛解放(番外編) 植物とのコミュニケーションについて
久々に「はすむかいさん」になってみようと思います。
あなたは植物を育てたことはありますか?
樹木でも、野菜でも、果物でも、花でも、一般に雑草と呼ばれるものでもいいです。
育てたことがあるとしたら、それはどれくらい前のことでしょうか?
そのような経験がない方や、そのような経験からかなり久しい、という方はぜひ今から植物を育ててみてください。
もしかしたら、『社会』のマネーゲームの都合で施された「教育」の影響で、肥料のにおいや、泥を直にさわったり、服や靴が土まみれになることを「いけないこと」と、認知的不協和から気持ち悪くなる方もいるかもしれません。
もしくは、周りがそのように見ている気がして一歩踏み出せない方もいるのかもしれません。
しかし、米の一件でもなんとなく察したとは思いますが、今後似たようなことは沢山起こります。
まずは将来の食糧危機に備えて、などと自分に言い聞かせるつもりで、野菜からでいいので、
たった1種類、たった一つの鉢植えでいいので、
植物を育ててみていただきたいのです。
ニンゲンとは気を抜けばいつも自分を基準に物事を考えてしまう生き物で、足を使って移動し、手を使って何かを操作し、目で見て、耳で聞いて、肌で触れ、口でコミュニケーションを取れる自分たちを最も高等な種であると勘違いをしてしまうのです。
けれど考えてみれば、植物から酸素を供給されなければ存在しえないニンゲンが、何故植物よりも高等な存在たり得るのか。
植物たちは何かをコントロールしようとは思いません。
ただそこに存在して、風に揺れ、匂いを放ち、虫や動物たちを呼び寄せて、彼らの力の源となる。
そして彼らが朽ちるとき力を返してもらう。
真に偉大なものほどみかえりを求めず、そこにただ在るのかもしれないのです。
ニンゲンの基準だけで物事は測れないのかもしれませんよ。
だとしたら、ニンゲンにとってのコミュニケーションと、植物にとってのコミュニケーションはどうなのだろうか??
ご自身で植物を育てていれば、経験がある方もいるかもしれませんが、眠りにつくのに目を閉じたとき、瞼の裏にその日育てた植物たちがこびりついたかのように離れない、ということはありませんでしたか?
それが植物たちにとってのコミュニケーションなのです。
「私と花は違う。私と皆さんも違うが、まったく切れているというわけではありません。どこかで繋がりがあるのです。
私がここで梅干を「がりがりがり」と食ったら皆ここで唾が絶対に出てくると思いますよ。だから意識というのは思いのほか繋がっているところがある。その繋がりがもっとすごくなると僕と花との繋がりもできてきてね、僕が僕か、僕が花かもわからないような状況になってくる。
それでずっとずっとずっと降りてくると、みんな繋がりがなくなってこれはもう、存在というしか仕方ないものに行き着くであろう。その存在というものが今此処に顕現してきまして、存在がいまここで花として顕現し、存在が今ここで河合隼雄として顕現しているということです。井筒先生の名言によりますと、「みんな花が存在するなどといっていますけど、そうではないのだ。これは存在が花しているんだ」、と」
何度もお伝えしていますが、ニンゲンの表層意識(自我)はその個人が置かれた環境(人間関係)に無理なく立つことができるように、安定化機能を働かせて、膨大な経験要素を詰め込んだ無意識領域から都合のよいものだけを抜き出して組織化したものになります。
そのような自我から漏れてしまった要素群は消えてしまうのではなく、無意識下に貯蔵されており、眠りのような意識の混濁で無意識に近づくことで夢として顕れるのです。
これはアポロンの管轄であり、寸断されしディオニソスの残滓(欲動)たちが奈落から湧き出てくるのを、アポロン(理性)が個人的無意識として仮像に整えたものが夢であるといえます。
このとき、湧き上がる欲動たちは「怪獣」で、それを常に対処療法的に倒し続ける(完全に根絶やしにはしない)アポロンは「ウルトラマン」ということができるのですが、このあたりのお話は後々していくと思います。
さて、元型という設計図に、欲動という「いのち」を吹き込み、アポロンによって無意識の要素群で組織化できるように整えられてカタチになるということがいえますが、「あちら」側にいる植物の本体たちとあなたがコミュニケーションを取るために、あなたは「におい」や、「肌触り」、「味」などの要素を無意識下に貯蔵する必要があるのです。
より沢山の要素が貯蔵されているほど、
より沢山の感情の動きが貯蔵されているほど、
植物たちがあなたの夢の中でできる表現の幅が増えるので、是非とも沢山泥だらけになって、汗まみれになって、ずぶ濡れになって、筋肉痛になって、陽に焼かれて、風を感じて、味を感じて、匂いを感じて、感触を味わってください。
歴史好きな方であれば、寺社仏閣や城などを訪れる中でも植物たちと触れ合う機会があるはずです。
さて、そのような旅の中で帰宅して、もしくは宿泊や、野宿などするとき、不思議な夢、なんとなくただの夢とは思えないようなものを見た経験がある方もいるのではないでしょうか?
それはもしかしたら植物たちが観測した歴史を夢としてあなたに見せてくれているのかもしれません。
そのような「知識」があれば、次の旅では神社の御神木に触れさせていただこうと思えるでしょう?
もし仕切りなどでそれが禁止されているのであれば、せめて形態を目に焼き付けたり、香りや枝葉の揺れる音を無意識下に貯蔵しようとしたり、その場で祈りを捧げる、という発想も生まれるはずです。
それが植物たちとのコミュニケーションなのです。
彼らにホントウの歴史を教えてもらえる存在であってください。
このような発想は近代化以前の多くの日本人にあったものです。
あなたはもしかしたら『社会』によって、素早く簡潔にわかりやすく伝え、的確にその環境に合った解釈方法で受け取ることが、コミュニケーションであると叩き込まれたかもしれません。
それ以外のコミュニケーションは「異常」だと。
もちろんそれもコミュニケーションの一種であることは否定しませんが、自分のもつ全てで伝えようとすること、受け取ろうとすること、まず「しようとすること」がコミュニケーションなのだと思います。
五感とそれ以上の感覚(体内に組み込まれたもの)、意識と無意識、現象界とイデア界、欲動(いのち)等全てを用いて動植物たちともコミュニケーションをとる意識を、片隅にでもいいので持っていてください。
言葉を交わし、理解した気になり合うことのみがコミュニケーションではないのです。
言葉のみが、自我がわかった気になれることのみが、コミュニケーションではないと、
呪縛は解かれたでしょうか?
あなたはあといくつの鎖を解けば自由になれますか?
とはいえ、あまり急ぎすぎてアーリマンのポータルになってしまわないように気をつけてください。
また、いくつかの記事でお伝えしてますが
解かなくてもいい鎖もあることも忘れないでください。
「ゆっくり」と「おだやか」に。
