生きていく力について4:D(ディオニソス)について⑥-4「欲動のカタチ、脱魂忘我と鎮魂、或いは啓蒙」
✡︎これまでの振り返り、「啓蒙」に対する問題提起
啓蒙、本能に対する闘い───アナクサゴラス、ソクラテス、プラトン
ギリシア人の悲劇時代における哲学p380
これまでギリシャ神話におけるディオニソスという「存在」を通して様々なトピックに触れてきました。
ディオニソスとは、ギリシャ神話におけるオリンポス12神の一柱であり、ローマ名は「バッカス」。

内容が多岐に渡りわかりにくくなってきているとは思いますので、一旦整理していきたいと思います。
まず話の発端に、非常に語りにくいことも多くはありますが、
「啓蒙」に対する問題提起があります。
世間一般にこの「啓蒙」という言葉はポジティブな印象を持たれることが多いですが、この言葉の背景を知っていれば手放しに良いものとすることはできないかと思います。
「啓蒙」とは Enlightenment の訳で、例えば英和辞典・和英辞典サイトのweblioにおいては教化(すること)、啓発、悟り、(18 世紀のヨーロッパ、特にフランスでの合理主義的)啓蒙運動、とあります。
英語「Enlightenment」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
かなり端的にいえば、無知(盲目)・迷信(蒙)を「闇」とし、それらを「理性」という「光」で照らす(啓く)、ということです。
こうなってくると必ずといっていいほど陥るニンゲンの認識のパターンがあり、それが、
「無知蒙昧なる馬鹿どもが見る「迷信」を、「理性」がはっきりしている「我々」が照らし啓いて導いていやるよ」
というものです。
啓蒙主義の始まりはそうではなかったはずですが、基本的に始まりの理念というものは多くの人々が関わるようになると歪んでくるのが常なのです。
しかし、そもそも「迷信」とはなにか?ということがありますし、何が迷信で何が合理的なものかを「あなた方」が決めるのか?ということがあります。
実はこのことについては非常に深い背景があり、古代ギリシャからの哲学の系譜においては、たとえばプラトンのイデア論などで表されるように、私たちの知覚する現象界が「存在」する者たちの世界を投影した現世(うつしよ)であるという観点があります。
この観点に照らし合わせれば、目に映るすべて、肌に触れるものすべて、
この世の一切すべては「迷信」である、ということにもなるのです。
これはたしかに行き着く果てであり、極端なものではありますが、実際のところ、「あれは迷信だ」、となると、ニンゲンはなんでもかんでも迷信にしてしまいたくなるものなのです。
性別の違いなど迷信ですし、国境や人種、民族など迷信ですし、
憲法も法律も、慣習も文化も迷信で、果ては肉体も意識も迷信なのです。
それがどのような混沌を招き、そしてどのような反動を招くかは現在多くの方々が体感されているとおりであります。理想としては「彼ら」のいうところの「迷信」による固定観念から人々が自由になることは素晴らしいことかもしれません。ただ、基本的にこういった事柄はゆっくりとやっていかなければ次の時代の混乱期にて、ショック・ドクトリン的に用いられる反動の武器として利用されてしまうことは以前の記事にて懸念した通りです。
そして残念ながら、現在の学問にしてもビジネスにしても、政治にしても、「社会」的な事柄の多くは上記の「啓蒙」の延長線にあるものだという指摘がずっとあるのです。ですから、そういった事に気がついた人々の中で、「啓蒙」的体系へのアンチテーゼを示そうとする動きが生じるのは自然な流れだといえます。それを対啓蒙的学問と表現します。
✡︎対啓蒙的学問、民俗学・精神分析学・古典的文献学、ニーチェへの導入
それが例えば「民族学」でした。
•民俗学は何故あるか
支配的権力、啓蒙、合理性などが自分達都合で作り上げるルール、制度、学問体系に対して、それによって切り捨てられる「必要ないもの」の価値、意味を見出す。「あちら」が「必要ないもの」とするものの中に実際は知恵が多分にあることを見出し、その積み重ねの上に現在があることを知る。
そして精神分析学についても同様であると以前の記事で考えたわけです。
その流れのなかで私が提示したい「存在」がディオニソスであります。
若きニーチェは著作「悲劇の誕生」において古代ギリシャの文化をディオニソス的脱魂忘我(脱形態)とアポロン的形態化という相反する作用を一つに共存させたものであるとしました。
そも「悲劇の誕生」の成立背景もニーチェ自身が学問の「啓蒙」化にアンチテーゼを示そうとしたことにあります。ニーチェは現在では哲学者として扱われていますが、当時彼は自身を文献学者と捉えていたのです。
たとえば元々本来の啓蒙主義者的人物・ゲーテですが、彼は今で言うところの、自然学者であり、詩人であり、政治家であり、哲学者であったのです。
そもそもそれら「教育」はかつて明確に別たれていなかったということです。

もちろんそれによる弊害もありますが、それによる善い点もあり、つまり、
文献学はかつて歴史の一片であり、自然科学の一片でもあり、美学の一片でもあった→即ち教育そのものであった、ということで、
それが現在のように各分野・領域に分裂し、純粋にその中での学問的態度をとることを望ましきとして分野横断を避けるようになり、たとえば「美学」は哲学の範疇で我々はそこに関与しないとなってきた。
それは「公転を忘れて自転に埋没する」ような状態で、その「自転」の中の「都合」に絡めとられ、
支配的権力、啓蒙、合理性などが自分達都合で作り上げるルール、制度、学問体系
に気がついたら自分自身がなってしまっている、ということです(もちろん下手に分野を横断しまくることでの弊害もある、ということは理解しております)。
「悲劇の誕生」はそこへのアンチテーゼとして書かれ、後に訪れるであろうディオニソス的「悲劇」の時代を待望する内容であったのです。
そこでディオニソスについて話を移していきますが、この「存在」とその反作用たるアポロンの形体化を端的に表す非常に分かりやすい一文が何度も引用させていただいている下記のものになります。
ところでプラトンの術語を使うならば、ギリシアの舞台のかの悲劇的人物たちについて例えば次のように語ることもできよう、真に実在する一人のディオニュソスが多数の人物となり、戦う主人公の仮面をつけ、いわば個別的意志の網にからみ込まれて現象するのであると。今や現象する神が語り行動するとき、彼は、迷い努め悩む個人に似ている。そして彼がそもそもこのような叙事詩的確実さと明瞭さをもって現象するということは、夢の占者アポロンの作用であり、アポロンは合唱隊に彼らのディオニュソス的な状態をかの比喩的な現象によって説き明かすのである。しかし実際は、かの主人公は密儀の悩めるディオニュソスであり、個別化の苦悩をその身に経験するあの神であって、不思議な神話はこの神について次のように語っている。彼は少年の時巨人たちによって寸断され今やこの状態のままザグレウスとして敬われていると。ここに暗示されているのは、真にディオニュソス的な苦悩たるこの寸断は地水火風への変化と等しきものであり、従ってわれわれは個別化の状態をあらゆる苦悩の源泉と根源として、それ自体忌避さるべきものとして見なければなるまいということである。このディオニュソスの笑いからオリュンポスの神々が生じ、彼の涙から人間が生じたのである。寸断された神としてのかかる存在においてディオニュソスは、残酷で狂暴な鬼神(ダイモン)にしてかつ柔和で心優しき支配者であるという二重の性質を有する。
かつて一つであったディオニソスは寸断され、個別個人に分裂してしまった。そのディオニソスが一つに戻りたいとニンゲンの内側から「欲動(イド)」として生ずるのだと私は表現してきました。
ここで精神分析学におけるフロイトのモデルが組み合わされます。
下記のサイト様の図解が非常に分かりやすいので以前の記事の引用と併せて紹介させていただきます。
最初にフロイトが提唱した考え方で、局所論(意識・前意識・無意識)と構造論(イド(欲動)・自我・超自我)によって、以下の図式で説明されました。


こういった精神力動論を発展させて、フロイトの弟子であり、ニーチェやグノーシス主義を精神的支柱に据えたユングは、この無意識がさらに深層である普遍的無意識につながっているとしたのです。
▼それについては下記記事参照。
また、日本におけるユング心理学の第一人者である河合隼雄氏の表現がこの普遍的無意識をわかりやすく説明しています。
「私と花は違う。私と皆さんも違うが、まったく切れているというわけではありません。どこかで繋がりがあるのです。
私がここで梅干を「がりがりがり」と食ったら皆ここで唾が絶対に出てくると思いますよ。だから意識というのは思いのほか繋がっているところがある。その繋がりがもっとすごくなると僕と花との繋がりもできてきてね、僕が僕か、僕が花かもわからないような状況になってくる。
それでずっとずっとずっと降りてくると、みんな繋がりがなくなってこれはもう、存在というしか仕方ないものに行き着くであろう。その存在というものが今此処に顕現してきまして、存在がいまここで花として顕現し、存在が今ここで河合隼雄として顕現しているということです。井筒先生の名言によりますと、「みんな花が存在するなどといっていますけど、そうではないのだ。これは存在が花しているんだ」、と」
これはある種古代ギリシャ哲学的であり、東洋的であり、アニミスティックであり、またグノーシズム感もありますが、これがいわばディオニソスで、寸断されたディオニソスは普遍世界(無意識)からイド(欲動)として一つに戻ろうと個人の内から湧き上がるのです。
✡︎「悲劇の誕生」におけるディオニソス、即ち「欲動」と文化におけるその対応
この「欲動」はカタチや「言葉にならない」、気分や衝動として、緩急の差はあれど生ずる。
このカタチなき欲動に直接触れるとどうなるか、それが即ち「発狂」、自我の死や、抑うつ、内的混乱、現象界からの解脱願望(死の欲動)へと繋がると考えるのです。
ですから人は「共感」を求める。つまり、外から「欲動」に見合うカタチを経験要素として取り入れて当てはめることで「自我」を安定化させようとするのです。この過程はユングのいう所の個人的無意識、グノーシスのある一派やニーチェのいうところの「中間階」にて半自動的に行われる。
私はこの形体化こそ「アポロン」、原始的抑圧(やわらかな抑圧)という作用であると考えました。
またニュアンスは異なりますが、フロイトの超自我もこれに近いものかと思います。
ただ、これはいわゆる「健康的」な個体によるものです。
即ちニンゲンにはこの「健康」状態から逃れ、ディオニソスと対峙せんとする個体や人生のターニングポイントが生じうることをお伝えしてきたのです。
ディオニソス的人間は、存在における日常の限界と制限を取り除くことを通してそれを追求する。かれは、かれの五感が課する限界からのがれて、他の経験の状態に入り込むことによってもっとも価値のある時間を得ようとするのである。ディオニソス的人間の欲望は、個人的経験や儀式において、ある種の精神状態に迫ることであり、極端に至ることである。この強い感傷に最も類似する状態は酩酊状態であり、狂乱状態の啓蒙をも価値があるとみるのである。ブレークさえも、”極端への道は、知恵の宮殿に通じる”と信じる。アポロ的人間はこういうことのすべてを信じない。そしてまたアポロ的人間はこのような経験の性質について、ほとんど知らない。(中略)
かれはいつでも道の中央におり、自分の知っている範囲にとどまり、分裂した精神状態には手を出さない。
そしてこれが非常に重要で、私が最も追い求めんとするものなのですが、
とどのつまり、「文化」であり、上記のような衝動を求める個体や、人生の節目にどう向き合うのか、もっといえばディオニソスという「荒ぶる神」にどう向き合うのかが文化が伝統的に積み上げてきた「知恵」だといえるのです。
以前紹介した動画、おそらく著作権の問題で消されてしまったと思いますが、沖縄のユタについて紹介されていました。
ここでは「言葉にならない(欲動)」と向き合って、それを乗り越えた個人に対してユタというシャーマンとしての立場を用意し、同じように苦しむ誰かに対して深い受容的態度で寄り添うような文化が見られました。
他に下記の記事
ユタと同様、湧き上がる「欲動」によって狂乱状態と化した個人に対して、あるシベリアの文化では、人々が共に歌い、その個人がそれを乗り越えられるようにと祈る、そうしてディオニソス(根源から生じる悲しみ)を抜けたその個人は「占い師」として認められる。
ここで重要なのは、「欲動」、つまり寸断されたディオニソスですが、これを「精霊」と表現することです。
その上で文章もかなり長くなってきてはおりますが、非常に荒々しいディオニソスとの向き合い方の文化についてもここで提示させていただきたく思います。
※その前に少しだけ。以下の文章は取り扱い注意でお願いします。
引用の孫引きであり出元が追えないことと、非常荒々しい内容であるためです。
「或るときスーダン人の料理人が関節の痛みがひどくびっこをひいていたが、数日間姿を消した後帰ってくると、女主人(著者)が黒い服を着続けるなら仕事をやめたいと申し出た。著者はその頃近親者が死んだので、喪に服するため黒い服を着ていたのであった。この女主人の黒服と料理人の関節の痛みの相関関係を料理女に教えたのは女司祭シェイカであった。女司祭は料理女の病気は彼女が精霊「アフリット」に憑りつかれているからだと言い、この彼女を苦しめている精霊をなだめるには黒くて陰気なものとの接触を一切避けねばならぬと説明した。数日間姿を消していた間に料理女は女司祭からそれを聞いたので、帰って来て女主人の黒服を忌避する申し出をしたのである。女主人は仕方なく料理女を解雇して別の女を雇った。この女も他の召使いもすべて、それぞれの精霊に憑りつかれている女主人はまもなく知ることになる。彼女たちは自分たちに憑いている精霊に敬意を払う義務があると信じていた。この精霊たちは一つの社会関係を結んでいて、男、女、高官、父や子、主人や従者から成っている。そしてこの精霊たちは現世での「乗り物」として人々に各々憑いているのであった。精霊たちは何かの病気や悲しみに乗じて人に馬乗りになる(乗り移る)。とりわけ精霊たちは普通ならヒステリーに帰せられるようなあらゆる神経症状を引き起こす。神経症の病気はその人に乗り移った精霊たちの仕業だという訳である。体内の精霊は医者も薬も嫌う。時折精霊は慰めてもらう祭り(ザール)を要求する。その要求に応じなければ病気はひどくなるから祭りはしなければならない。ザールには結婚式と同程度の費用を使う豪奢なものから安上がりのものまでいくつかの種類がある。個人的な目的から自宅で時をえらばず行う私的なザールもあれば、女司祭(シェイカ)が週一回規則的に行い、多くの客が集まるザールもある。著者はイスラム教徒なので、招待客としてこうした集会に二度ほど出席した。因みにイスラム教徒はこのザールをかなり敵視しているが、女司祭(シェイカ)は社会的に尊敬され、重要な役割を果たしている。次に著者が記すザールの次第を見る。場所は昔の地主の奥まった一室で、簡素な祭壇には二個の枝つき大燭台と脇に小型の円卓、一本の槍が置かれている。背が高くがっしりして色艶がいい女主人以下、大勢の女たちが集まっていた。太鼓やタンバリンを持った楽団の黒人女が凄まじい騒音を発する。そのやかましく単調な旋律は、繊細な鼓膜を回復不能なまでに痛めつけたが、その不気味な音楽は入信者をエクスタシーに誘いこむ音調を備えているらしくも思われた。この音楽による開幕に続き、式を司る女司祭が香炉の中に粉末を投げ入れて香をくゆらせ、菓子や蜂蜜などのさまざまな供物が祭壇に上に置かれる。女司祭が祈りの文句を唱えると信者達が声揃えてそれに応じる。次に女司祭が女主人をはじめ信者たちに香を撒く。次に犠牲獣への撒香であるが、これは一匹の牡羊である。それから音楽の旋律が一変すると、女達は突然の衝撃を受けたように顔を青ざめこわばらせ、床に身を投げて頭を激しく敷物にこすりつけた。それから立ち上がって小円卓のまわり囲んだ円舞がはじまった。がくがく揺れる上半身、律動的な腰のひねり、調子をとったゆるやかな足踏み。次に女主人が犠牲獣の牡羊の尻尾をつかんで錯乱したバッコス信者のようにふらついたみだらな様子で部屋を三度回る。そのあと供犠は中庭で一人の女の手によって行われる。その顔にも手にも衣服にも血しぶきがついた。すると女達はこののどを切られた犠牲獣にとびかかり、指先で傷口をかき広げながら胸がむかつくような熱い液体をむさぼりすすった。今や更に狂乱の度を加えた女達は、髪をふり乱して凄まじい憑依状態に陥っていた。痙攣的に震えながら体を揺り動かしている幽鬼のような姿は、絶望と官能にむせび泣いているかのようだった。こうした女達の数々は次第に増えていったが、突如として静寂が訪れて女達の動きを止めた。或る者は疲れ切ってぐったり膝をつき、或る者はまだ極度の錯乱の虜になっているように見えた。そうした女達すべてに対し、女司祭は厳かな様子で軽く触れ、耳に口を寄せて解放の文句を囁いて回った。すると女達はすぐさま鎮まって現実に立ち帰りもとの席に戻るのだが、その足取りは確かで、表情は恰も何らかの健康法きちんと達成した穏やかな年配の婦人のように晴々としていた。」
非常に興味深い内容だと思いませんか?
これこそ寸断されしディオニソス(精霊)に対して、アポロン・個人的無意識というフィルターなしで触れたことにより生じる狂乱であるといえます。
さて、ここまで語り、その上で気になってくることがありませんか?
つまり、このディオニソスに対して「私たち」の日本文化はどう向き合ってきたのか、ということです。
✡︎我らが日本文化におけるディオニソス・荒ぶる神と鎮魂
そのうちの一つが、即ち「御霊信仰」、今でいうなら「鎮魂」でした。
「御霊信仰」、ごりょう信仰と読み、現代では下記のように考えられることが多いものとなっております。
御霊信仰とは平安時代から明確に確認できるようになった信仰スタイルで、疫病や天変地異、戦乱といった諸々を恨みを持って死んだ当時の政敵の怨霊が引き起こしている、と考えて丁重祀ることで鎮まっていただく、というものになります。
この信仰は現代ではメタ的に考えられ、世間や支配者層が特定の人物が祟りを起こしている、と考えるのは「祟りを起こされるに足ることをしたという意識」があるからだ、というように捉えることが多いです。
蘇我氏や菅原道真、崇徳天皇などが挙げられます。
大国主、事代主、建御名方命といった出雲系の神々への信仰もある意味で御霊信仰といえるでしょう。
この信仰でよく加害者側として引き合いに出されるのは藤原氏になります。平安時代のあらゆる不幸が藤原氏のせいにされました。自分たちの私利私欲のために天皇家と婚姻関係を結び、摂関政治を行い、あらゆる政敵を蹴落とした。そのために様々な人々から恨みを買い怨霊になった者たちから祟りを起こされたのだと。
ただこれは非常に支配者層的考え方かつ「啓蒙学問」的捉え方であると私は感じます。
どういうことかと申しますと、「御霊」を「ごりょう」と読んでいますが、これは本来、民俗学者の父・柳田邦夫がいうところの「みたま」のことであり、すなわち「ご先祖さま」ということになるのです。
支配者層はそれらを怨霊と位置付けた、ということであり、
また啓蒙的学問はそれを単に支配者層の被害妄想であるとして、それ以上は立ち入らないのです。
しかし、ここまで述べてきた寸断されしディオニソス(「欲動」)の観点をここに付け加えるのであれば、
日本人は湧き上がる「欲動」にご先祖さまを見出し、それに対してある時は石を掘り、ある時は木や花を植えて、あるときは社を建てて、それらに対して手を合わせて祈りを捧げ始めたのです。
そう捉えることができるでしょう。内側から湧き上がる「欲動」・「根源から生じる悲しみ」を亡くなった人々に重ね合わせたのです。
身内等近しい者の死後数十日間の内に「幽界」で抑圧された経験要素と向き合う荒々しい魂と捉えて祈りを捧げた。これがいわゆる四十九日ですし、またあるときは無念のうちに亡くなった人々の「あちら側」から呼びかける「声」として「欲動」と同期させたのです。
出雲の国譲りにおいて無念の内に敗れた者達(大国主=大黒天(シヴァ))であったり、
あるときは東征神話における大和の饒速日命や長脛彦、大和政権の確立において排斥されていった各有力氏族、
政治闘争の中で敗れて行った物部氏や蘇我氏や藤原氏によって排斥されていった者達、
律令制度成立の中、統治の都合上ある種設定されし被差別民や、源平合戦等の盛者必衰の流れの中で過ぎ去っていったものたち
それらに対して、侘しさや寂しさ、をもって祈りを捧げたのです。
さらにはその手を合わせて祈りを捧げる先に「カガミ」まで置いたのです。
そしてそれらを「なぜ?」、「そんなことして何の意味があるの?」というレベルを超えた、「そういうもの」、として文化に組み込んで繋げてきたのです。
私はこの「穏やかさ」に対して深い驚嘆を覚えるわけであります。
ここで人々は、古代の民衆生活の外見上は確乎として見えるもろもろの人物のなかに、圧縮された観念を認識することを学んだのであり、ここで人々ははじめて、風習や信仰の状態を人格という形態のなかへ注入するという、民衆の魂の驚くべき能力を承認したのである。
認識は人間の福祉にたいし、信仰ほどの意義をもたない。一つの真理、例えば数学的真理の発見にあたってさえ、その欣びは絶対的な信頼の産物である、彼はその真理を信じ得るのである。人がもし信仰を有するのならば、真理なしでも済ますことができる。
これはラカンが言った日本語についての一文に関連しています。
私は日本語を高く買っています。つまり、そこには、その話(デイスクール)において非常に洗練された社会的きずなを支える完璧さがそなわっているのが認められるからです。
(中略)
誤解を恐れないで言えば、日本語を話す人にとっては、嘘を媒介として、ということは、噓つきであるということなしに、真実を語るということは日常茶飯事の行いなのです。
そして故に言葉という「箱」にどういった中身が組み込まれているかについて、実は非常に重要になってくるのです。
いかがでしょうか?
あなたがこの世界においてどれだけ希少で貴重な存在であるか、ご理解いただけましたでしょうか?
あなたが今そこにいるのは奇跡といっても過言ではなく、それほどにあなたは貴重で希少な存在なのです。
あなたは「あたりまえ」ではないのです。
その貴重さや希少さを『社会』の基準のみで判断してほしくないのです。
もちろん、だからといって『社会』や「社会」を壊せ、などと言いたいのではないのです。
あなたが自分自身のことを奇跡的で、
貴重で、希少な存在だと、心の奥底から感じていられてること、
そしてその「穏やかさ」を判断や行動の基準にしていただきたいのです。
✡︎おわりに 現世界情勢とディオニソス、そこに飲み込まれないこと
現米国政権におけるMAGAとは別派閥、いわゆる新反動主義者、つまり「暗黒啓蒙」ですが、『社会』というものを、ひたすらに「維持」によって「破壊」という救済から目を逸らす「アンチ・キリスト」というように捉えています。
『社会』の都合のみに判断の基準を置いて世界を観測すると、アンチ・キリスト的「維持」機能か、それを「破壊」せんとする上記派閥、それらに合理性を見出さざるをえず、これまで述べたような日本人らしさは「迷信」と化していくのです。
冒頭でニーチェから引用したように、「啓蒙」とは本能(ディオニソス)に対するタタカイなのです。
これから先世界は、ニーチェの述べたように、もしくはその意味から似てるようで逸れた「悲劇」の時代となるか、
もしくは、ジョージ・オーウェルが述べたような、ディオニソス(ゴール・D・ステイン)を二分間憎悪という「維持」の道具に持ちいる『社会』が続くのか。
顔というものは踏みつけるためにあるものだ。異端者、つまり社会の敵は何時までも存在し、従って彼らは繰り返し敗北を喫し、屈辱を受けることになるのだ。(…)スパイ、裏切り、逮捕、拷問、処刑、行方不明は永遠になくなるまい。勝利の世界であると同時に恐怖の世界となるのだ。党が強力になればそれだけ寛容ではなくなるし、反対派が弱化すればそれだけ専制は強化される。ゴールドスタインとその異教は永久に生き続けよう。毎日のように、いや一瞬毎に彼らは敗北させられ、面目を傷つけられ、嘲弄され、唾を吐きかけられるだろう—それでいながら、彼らはずっと生き続けるのだよ。
最期の瞬間まで穏やかさを忘れず、この世界の行く末を観測し続けてください。
そういった世界でも、水面にウツル月であり、葡萄のあなたには、
皮(「理性」)も実(「欲望」)も自らの血潮としていただきたく思います。
「激動の時代」はまだまだ続きます。
「おばけなんてないさ」ではなく、
むしろ「おばけと共に生きてやる!」、
くらいの気概で生き抜いていきたいですね。
「あの頃(おばけ)」と共に「激動の時代」を「観測(その目に焼き付けて)」、そしてその観測をもとに、最後の瞬間には救世主として世界を再構築してください。
そして、最期の瞬間までこの世界を観測し続けられるように、世界の流れをしっかりとつかみ、生き抜くための準備を淡々と進めていってください。
「現実」を知って、それでも「ヒビ」に輝きを見出そうとする態度は「祈り」のような生き方だと思います。
そのような人が「ホントウ」の「相対主義」ではない「」のとれた正常だと私は思いたいです。
そして忘れないほしいのが、「すべてのものは使い道があるから此処に残っている」ということ。たとえあらゆる状況が、人々が、要素群があなたの存在を否定しているように思えても、あなたがその姿でそこに存在しているということは、山々が、海原が、木々や草原が、星が、宇宙が、あなたがそこにいても良いと承認している、ということです。
宇宙が「居てもいい」と言っているのに、誰があなたの存在を否定できるのでしょうか?
そして、けれどやっぱり「強い人間の理屈」と言われても、伝えなければならないこともあります。
この先を生き抜いていくには選択肢を作り続け、選び続ける「上手さ」が大切になってきます。
「上手さ」を磨き続けてください。
あなたは宇宙が「居てもいい」という限り、「誰かにとっては正常で、誰かにとっては異常」な、「誰かにとっては善で、誰かにとっては悪」な選択をとり続けるのです。
この世界では様々な「都合」があなたをからめとり縛りつける「呪縛」となります。
もしあなたが「日々」に対して、「自分自身」・「国や世界」に対して何かしらの負の感情を抱いていたり、なんだか理由のわからない倦怠感や不安・焦燥やモヤモヤとした感覚を抱いていて、それが身体の不調や自傷行為・精神的な病にまで影響を及ぼしているとしたら、それはあなたがダメなのではなく、あなたが弱いのではなく、上記のような者たちからの「呪い」をかけられているという視点があるのです。
その「呪い」を振りほどいて、あなたが、あなたの中にある日本人を取り戻すことができますように。
「救世主に幸あれ」

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
〇関連
タイトル画像
参拝する女性 worship - No: 25493539|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
参考文献
・「悲劇の誕生」ニーチェ全集 (理想社)
・「ヒステリー研究」フロイド選集Ⅸ 吉田正己 懸田克躬 (日本教文社)
・文化の型 (講談社学術文庫 1881)
・「先祖の話」柳田邦夫(石文社)
・河合隼雄著作集1 ユング心理学入門
・河合隼雄著作集2 ユング心理学の展開
○生きていく力について
←前回
4:⑥-3「個人的無意識とトモニイキル、個人的無意識とホントウノジリツ」
次回→
