「河を渡す橋」祈りの対象とカタチ「クマを背負う者」
ある者達は神社で手を合わせ、祈る
「新しい事業が順調にいきますように」
「あの人との新しい生活が幸せになりますように」
「なにか良いことが、わくわくすることが起こりますように」
ある者達は神社で手を合わせ、祈る
「このまま穏やかな時間が流れますように」
「苦しい事や辛いことが私たちに降りかかりませんように」
「この生活がほんのわずかでも長く続きますように」
ある者達は神社で手を合わせ、祈る
「この苦しい出来事が一刻も早く終わりますように」
「アイツとの縁が完全に切れますように」
「この停滞した世界を新しくするための破壊がほしい」
沢山の願いのカタチが人の数だけ存在しますが、それらをあえて区別するのであれば大きく3つ、即ち
「創造」、「維持」、「破壊」
に分けることができるかと思います。
ニンゲンは外側にあるカタチに己の内側を映し出す。
そういった考え方を採用するのであれば、
たとえば恋愛は自身の内なる異性を相手に映し出しているといえ、
自動車好きのあの人は、車に自身の内側を同期させているといえ、
そして神社で祈る対象、そのカミとは己の内側にすむカミを、
己の内側の「救世主」を、カタチに映し出そうとしている、といえます。
神社で祈る先にあるのは「カガミ」なわけですが。
「あら、見てよ、ドロッセルマイヤーくん!あそこにピルリパート姫がいるわ。こっちにむかって愛らしく微笑みかけている。ほら、ご覧なさいってば、ドロッセルマイヤーくん!」
くるみ割り人形はしかしほとんど嘆かんばかりのため息をついていった。「おおシュタールバウムのお嬢様、あれはピルリパート姫ではございません。あれはあなたさま、ひたすらあなたさまご自身なのでございます。薔薇の波の一つひとつからあんなに愛らしく微笑みかけているのはひたすらあなたさまご自身なのでございます。」
そこでマリーはつと頭を引っ込め、目をしっかりつむった。とても恥ずかしかったのである。
「創造」のカミ(救世主)
「維持」のカミ(救世主)
「破壊」のカミ(救世主)
神社とは、ある種「こちら側」と「あちら側」を繋ぐための装置と表現することもできるかと思います。
カガミの先、つまり「あちら側」のあなたは「創造」でしたか?
それとも「維持」でしたか?
もしくは「破壊」?
とはいえ、ニンゲンはいつも外側のカタチに「あちら側(内なる自分)」を映したくなるもので、神社を出て「こちら側」の生活にまたいそしめば、再び内側の「欲動」、それを映し出すに適切なカタチを探し求める(「対象化」)。
そしてまた神社に行っては、それらは全部私であったことを思い出す。
それが、「生活を営む」ということではないかと、私は思います。
クリストフォロスの伝承をご存じでしょうか?
「キリストを背負った者」そう呼ばれた者の物語で、私がとても好きな物語です。
いくつかの伝承があるので、その内私が特に好きなもののあらましをお伝えします。
ある巨人が父の農場で働いていました。
巨人は誰よりも強い存在に仕えたいと常々思っており、彼にとってそれは父親であったため農場で働いていたのです。
ところがある日、父は王に仕えていることを知りました。
父よりも王が強いと知った巨人は王に仕えるようになりました。
しかし、ある日王は悪魔を恐れていることを知り、
王よりも強い悪魔に仕える道を選んだのでした。
そんな巨人でしたが、またしてもある日悪魔が恐れて近づかない存在のことを知りました。それがキリストでした。
巨人は今度はキリストに仕えたいと、キリストを探して世界をまわり始めました。そうして人づてに聞いたのはとある河を近いうちにキリストが渡るだろう、ということで、巨人はキリストがそこにやってくるまで待つことにしました。
ところがキリストは一向にやってくる様子がないので巨人は待つ間、舟で河の「こちら側」と「あちら側」を人を乗せて行き来する仕事を始めました。
それでも一向にキリストはやってこないまま、巨人は年を重ねて老いていきましたが、ある日小さな少年が舟に乗せてほしいと巨人に言いました。
巨人は「君くらい小さな子、お安い御用さ」なんて言って河を渡り始めました。
しかし少年は次第に重くなり、あまりの重さに巨人はその少年がただ者でないことを悟ったのでした。まさしくその少年こそがキリストだったのです。
伝承によりますが、その重さとは「人々の罪の重さ」であったといいます。
巨人はついにキリストに出会えたことに喜びますが、そこでキリストが言ったのは「あなたがこれまで舟に乗せた人々すべてがキリストである」、ということでした。そして、キリストは巨人に新しき名、「クリストフォロス(キリストを背負った者)」を与えたのでした。
この物語は以前の記事と繋がっています。
ある一定以上知った個体の中には、己の内側にある「救世主」、
それを映し出す対象先として「民」を見出すケースがあります。
その個体の内側にある救世主像は「民」のカタチをしている、ということです。
上記のクリストフォロスの物語が一つそうだといえますし、
また私が記事の中で何度も取り上げているショージ・オーウェル氏の「1984」ですが、その主人公のウィンストンも「プロレタリア」、つまり「民」に己の内側の「光」を映し出しています。
作中の全体的な表現では単に「数が多いから」というように読む方もいらっしゃるのかもしれませんが、すごく私の中で印象に残っているのは、ウィンストンが2階から外を眺め、庭の中をせっせと移動しながら歌ったり、黙ったりして、沢山の洗濯物を干す、ずんぐりとした中年の女性を見て、そこに「光」を、「いのち」を見出したシーンです。
これはすごい事だと私は思うのです。たとえばハンナ・アーレントが指摘したように、あるいはオルテガが指摘したように、その他多くの知識人が指摘するように「大衆」の醜さを挙げだせばきりがなく出てくるものだと思いますが、クリストフォロスやウィンストンはそういった「民」に「救世主」のカタチを見たのです。
それで私はなるほどと、納得するのです。
愛とはそういうものかと。
その醜さが愛おしいのだと。
その醜さに絡み取られ、すべて捨て去りたいなどと思いながらも情がそれを許さない、だとかいうことも、
統治の都合、世界の在り方、慣習や歴史的文脈による暗黙の了解、
そういった諸々など全く意に介さない無知さに、ある種の智慧が含まれうることや、
どのように世の中が移り変わろうとも、ただ生きれる限り生きている素朴さも
「生活を営む」こと自体に己の「救世主」のカタチを見出しうるのだと。
これはなんという人類愛だと、私は胸が熱くなるのです。
それと同時にクリストフォロスもウィンストンも、その後に受けた仕打ちを考えれば、さらになるほどと、私は納得する。
つまり彼らは河を渡す橋、その柱となるのだと。
つまり森のクマさんになるのだと。
それが人々の罪(クマ)の重さだということも。
己の内側の「救世主」、そのカタチの対象に「民」を見出すこと、即ち、
彼らは人々の罪(クマ)それを背負ったということ。
まさに、
あれはあなたさま、ひたすらあなたさまご自身なのでございます。薔薇の波の一つひとつからあんなに愛らしく微笑みかけているのはひたすらあなたさまご自身なのでございます。
そう思えるのです。
私が子どものころからずっと不思議に思うのは、人はいかにしてそのような人類愛を抱くに至るのか、ということで、
はっきり言ってしまえば全く「合理的」ではない。
報われることもなく、自虐的に、マゾヒズム的に、何の生産性も見いだせない。誰も柱が誰だったかなど気にはしない。
かわらずその時々の「生活を営む」だけ。ニンゲンはみなそうである。
ずっとずっと。いつまでも変わらずに。
最期の瞬間までずっと。
それでも愛が湧き上がってくるのはどういうことなのかと。
私は今でもそれが不思議で仕方がない。
ある者達は神社で手を合わせ、祈る
「創造」を
ある者達は神社で手を合わせ、祈る
「維持」を
ある者達は神社で手を合わせ、祈る
「破壊」を
その先にあるカガミに自分自身を映し出しながら。
ある者達は自分自身を映し出す。
手を合わせる者達へ、己が「光」を。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
▽今回の音楽
