おばけ、主機能、劣等機能、葡萄、救世主、階段→
おばけなんてなーいさー、おばけなんてうーそさー
そんな童謡を聞いたことがある方は多いと思いますが、この後に
だけどちょっと、だけどちょっとぼくだってこわいな
と、歌詞が続くように、
わざわざ「怖くない」と、
「嘘だ」と、
ただの「迷信」だと、
そのようにあえて明言するのは、実際はどこかで(怖い)と、
(ホントウかもしれない)と、そう感じているからなのだと思います。
ニンゲンというのは表面の言葉に対して「裏腹」があって、いつも「表」に対して「裏」があるのだといえます。
何度もお伝えしてきましたが、この世界で何かがあるというには、その反対の何かも必要なのです。
とはいえ「社会」において、表面の言葉を頼りに他者や物との関係性を構築していくことが一般であり、その都合上「裏腹」なホントウの「現実」や「真実」は意識下に昇ってこないことや、見えないことも多く、故に本人すらも、(あえて上記の童謡の言葉を使いますが)「おばけがいるかもしれない」、だとか、「おばけが怖い」などと自分がそのようにどこかでは感じているとは自覚ができないのです。
だからこそ、子どもたちや、子ども的な感性を残している方は、「大人は全員嘘つきだ」、と感じることがあるのでしょう。
当の大人たちは自分が嘘つきだなど微塵も思っておらず、自分をまっとうな「社会」人だと思っているわけですが。
というより「社会」とはある種「そういうもの」なのだといえるでしょう。
ここ数年はユング氏の精神分析をメインに記事の内容を組み立ててきました。
その中で「主機能」と「劣等機能」について取り上げたことを少しだけおさらいしておきましょう。
ニンゲンには「意識(自我)」と「無意識」があり、意識は「主機能」と、無意識は「劣等機能」と結びついている。
機能は4種。
「感情」、「思考」、「感覚」、「直観」
それぞれの機能のざっくりとした特徴は以下の通り。
たとえば、1つの灰皿を見ても、これが瀬戸物という部類に属すること、そして、その属性のわれやすさなどについて考える思考機能、その灰皿が感じがいいとか悪いとかを決める感情機能、その灰皿の形や色などを的確に把握する感覚機能、あるいは灰皿を見たとたん、幾何の円に関する問題の解答を思いつくような、そのものの属性を超えた可能性をもたらす直観機能、これらはおのおの独立の機能であって、ある個人が、これらのうちのどれかに頼ることが多い場合、それぞれ、思考型とか感情型とかであると考える。
たとえば思考型は意識に「思考」の主機能を結び付けている個人と考える。
このとき反対に、残りの3つの機能の内どれかが劣等機能として開発されずに無意識に抑圧される。基本的に「思考」ー「感情」、「感覚」ー「直観」で対になり、どちらか片方が主機能となれば、片方が劣等機能として抑圧されると考える。

ここでの「劣等」という表現は「力」が弱い、ということではなく、抑圧され表層で研磨、開発されないがために上手な使い方ができない機能、ということ。
たとえば「思考」ガチガチな個人が、案外ちょっとしたことで「感情」的になってボロボロ涙を流したり、などが考えられる。このことに関しては以前の記事でも説明しました。
他に「感情」豊かでいつも明るい個人が、ある日突然「こんな世界なんの意味もない、私の人生なんて何の意味もない」などと言いだす、などもあります。
マスク氏やニーチェ的な「何の意味もない」は「直観」機能によるものとして別物として扱うとして、これは「感情」を主機能とし、その反対に「思考」機能を劣等機能として抑圧し、開発してこなかったがゆえに物事の個々の判断ができておらず、意味がなくて絶望するべき事柄と、一定の意味を見出せるからまだ悲観するべきでない事柄の弁別ができないがゆえに、一つの絶望に対して、全ての事柄をひきこんでしまっているのだと分析できます。
こういった「劣等」な「感情」や「思考」はけっして弱いものではなく、むしろ非常に強いがゆえにその個人を苦しめることがあるのだと理解できるかと思います。「劣等機能」とはそういったものになります。
これはまるで「おばけ」みたいだとは思いませんか?
「主機能」は「おばけなんてないさ」と言っていても、
「劣等機能」は「だけどちょっと…」なんて言って。
ニンゲンとは「そういうもの」なのです。
ところで「主機能」と「劣等機能」、
どっちがあなたの「本体」?
さて、少し話がずれますが、あなたは葡萄は好きですか?
私はこどものころからあまり好きではありませんでした。
味が、ということではなく、皮をむくのが面倒だったからです。
だって、上手にむかないと皮に実の大部分がこびりついて、実際に食べられる部分はほとんど無いとか、そんな経験あなたもあるでしょう?
多くの場合、ニンゲンは葡萄の中身を「本体」とみなす。
外側の皮は「ごみ」だと。
けれど皮と実は思いのほか強く結びついていて、
「本体」だけが欲しいと無理に皮を剥いだとき、
そこに残されるのはどこか滑稽なほどにやせ細った残渣物だけ。
私は皮も実もほしい。
そう考えれば以前の記事において、ニンゲンを水面にウツル月の景色(「空間」)に喩えたように、葡萄もまたニンゲンのようなカタチをしていることに気がつきます。

一つの葡萄の果実は、一人の個人だ。
それはあつまって房(「社会」を形成している)。
それぞれの房は枝を通して樹として繋がっており、それは根を通して、振動やにおいを通して他の木々や植物種や動物種とも繋がっている。
その上で、「旧救世主」は葡萄酒を自らの「血」と表現したのは非常に興味深いことだとは思いませんか?
「最後の晩餐」は、後世のワインの地位を確固たるものにした。イエスはパンを「私のからだ」とした上で、葡萄酒を「私の血」として弟子たちに与えた。つまり、ワインを飲むことが、キリストの血を飲み、新しい契約(新約)を受け入れることを意味するようになったのである。
そして、

救世主のみなさん、
「救世主(アーキタイプ)」、その大きな要素の一つをなんとなくイメージできたでしょうか?
とはいえ、こう感じる方もいることでしょう。
葡萄がニンゲンなのだとしたら、上記それらは、葡萄をむしり取って絞りだし、飲み干しているではないか、と。
そのイメージもまた正しい。
何度もお伝えしてきましたが、この世界で何かがあるというには、その反対の何かも必要なのです。
「救世主」を語るうえで欠かせない要素に「啓蒙」、「道化師」、「おかあさん」、「おとうさん」などがありますが、
ここにさらに「双子」という要素も非常に重要なのです。
機会があれば一緒にその世界を観測できたらと思います。
救世主のみなさん、「あの頃」を覚えていますか?
ニンゲンとは物事をどのようにでもしてしまう生き物で、
どんな「あの頃」に対しても、後に蓄積した経験と照らし合わせて、
「善」にしたり、「悪」へと再解釈したりできてしまうのです。
多くの日本人にもその傾向は大いにあります。
故に時間経過によって「あの頃」が過度に汚されたり、反対に過度に美化されてホントウのことが忘れ去られてしまわないよう、
「あの頃」の魂をできる限り「あの頃」のまま繋いでいきたいと思う時、
日本の先人たちは「強くあろう」と自分を律して「道」を繋いできました。武士道などはその一例といえますが、日本人の哲学にはそういった血が流れているのです。
残念ながら多数派にそれを求めることはできません。
理由は単純で、「だけどちょっとぼくだってこわいな」、だからです。
そして、それを問題だとして攻めていても、あまり世の中を良くする効果は薄いと言わざるをえないでしょう。
多数派はいつも通り、「啓蒙」が創り出す「タイヨウ」の方へと向かうのです。
「タイヨウ」が「迷信(おばけ)」を照らして、見えなくしてくれるからです。
そういった世界でも、水面にウツル月であり、葡萄のあなたには、
皮(「理性」)も実(「欲望」)も自らの血潮としていただきたく思います。
「激動の時代」はまだまだ続きます。
「おばけなんてないさ」ではなく、
むしろ「おばけと共に生きてやる!」、
くらいの気概で生き抜いていきたいですね。
「あの頃(おばけ)」と共に「激動の時代」を「観測(その目に焼き付けて)」、そしてその観測をもとに、最後の瞬間には救世主として世界を再構築してください。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
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