(再投稿)「2025」自由「2026」→?????
以前投稿した記事を微修正して再投稿したものになります。
是非直近の記事と併せながら読んでいただきたく思います。
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あなたは「自由」ですか?
たとえば明日神社にお参りに行くことを想像してみてください。
名の知れた神社でなくてかまいません。
むしろ名の知れていない、地元のひっそりと佇む神社の方がいいでしょう。
神道には明確な教義はないので、あなたの思うように敬意を示すのでかまいませんが、あくまで想像のための一つの基準として手順をお伝えします。
まずは鳥居の前に立ち、深くお辞儀をしてください。
その後男性であれば鳥居の右側、
女性であれば鳥居の左側で、
左足から鳥居の内側に踏み出してください。
手水舎で口と手をゆすぎ、参道の真ん中を歩かず避けて、脇を通って本殿の前へと進んでください。
いよいよ参拝となります。
このとき貼り紙等で「仁礼二拍一礼」が指示されているのであればそれに従う方がいいですが、もしそうでないなら是非ともあなたがその場で感ずる数の礼と拍を捧げてみてください。
祈りを捧げる段階に入ります。
最後の礼の前、
手を合わせている状態でまずは自身の名と住所、生まれ年を伝え、願いを伝えてください。
どのような願いを込めていただいてもけっこうですが、ここでは今日までその地を守り続けてきたことに対する感謝と、それがこれからも続くように祈ってみるといいでしょう。
そして、あくまで私個人の思想に基づくものですが、このタイミングでお賽銭を入れてください。それは神様に対する感謝としてのお金ではなく、神社を維持管理する運営費の寄付として考えた方がいいでしょう。
お賽銭を入れたらもう一度深々とお辞儀をし、再び参道の脇道を通り、今度は入ったときと反対側から、右足を踏み出して鳥居を超えてください。
そして振り向き、神社を目の前にもう一度深くお辞儀をしてその場を去ってください。
当たり前のように、簡単なことのように、
一連の流れをお伝えしましたが、慣れていない方は中々できないことが多々あります。
まず、鳥居の目の前でお辞儀をしようとした際に、誰かに見られていないかという恥が生じて不自然な格好になります。
手と口を濯ぐのも、自身を清めるために行うことなのに、都市生活の「清潔」な水に慣れきった方はむしろ不潔にすら感じることがあるでしょう。
人によっては、祈る習慣が希薄になっているため、まず形式的な仁礼二拍一礼にしても、気恥ずかしさが生じ、自分なりの敬意の示し方など浮かびもしないかと思います。
祈りの内容も、個人的な願いに関しては比較的気軽にできるかと思いますが、これまでの感謝であったり、地域や国、世界の平和や、安寧、ましてそれが宇宙に関する程に壮大になると、自我のカタチに合わず居心地の悪さを感じてその場からすぐに離れたくなるのではありませんか?
貨幣制度が根本に植え付けられているが故に願いに対して代価を支払わないことを「悪」とかんじ、願いの内容や、それに見合う精神を示すことができたかや、所作により敬意を表すことができたかよりも、お賽銭を入れたことに対して誇りを感じたのではありませんか?
最後に振り返ってお辞儀をする際、誰かに見られていないか気になりはしませんでしたか?
もう一度聞きます。
あなたは「自由」ですか?
そう、あなたは自由なのです。
先人たちが守り継いできた神社に対して誇りを持って敬意を示し参拝をする自由があります。
誰の目も気にせず深く敬意を示す自由です。
そしてあなたの感ずるままに祈りを捧げる自由、
感謝をする自由、平和を祈る自由、
地域や国、世界や宇宙を想う自由、
お金以外の感謝のカタチを表す自由、
それでもお金がなければできないことに対して寄付をする自由
それらの自由に対して深々とお辞儀を捧げる自由
神社を例にしましたが、他にもあなたには多くの自由が残されています。
目の前の料理、それを作ってくれた人や、材料が届けられるまでに関わった人々、そしてそこに捧げられたイノチに対して「いただきます」と手を合わせる自由。
自身の限られた時間を費やしてサービスを提供してくれる店員に対して「ありがとう」を言う自由。
年と年の境目で、この年の出来事を思い出し、次の年を想う自由。
「まだ」、自由は残されています。
どこからどこまでがどこからどこまでか
2025と2026の違いなど、ニンゲンの時間区分でしかなく、まったくかわらず同じ時間が流れているだけだと
この記事で述べてきたような自由はただの古臭い「不自由」で、「混沌」こそが本当の「自由」だと、
全ての「迷信」から放たれることこそが「自由」だと。
きっと誰かが言い出すでしょう。
何度もお伝えしてきましたが、この世界で何かがあるというには、その反対の何かも必要なのです。
場所に、物質に、人に、理論に、時間に
国境を、分類を、人種を、区分を、行事を
その基準(不自由)があるからこそ、自由があるのだといえます。
それらすべてがなくなった、
どこからどこまでの境がなくなった世界が、
自由の仮面を被って「また」、私たちの前に現れようとしています。
もう何度と繰り返されてきたことにも関わらず、人々は「また」、嬉々として自由を捨てて、「自由」を謳歌してしまうのでしょうか。
さようなら、さようなら、さようなら…
1年が終わりました。
あなたの2025年はどんな年でしたか?
世の中が目に見えて慌ただしくなりました。
不安や焦りがつきまとうのは当然といえるでしょう。
生きづらさや、世界に対する違和感、しんどさが付き纏い、金銭的なこと、自分のこと、周囲のこと、考えることがたくさんあって、
このままでいいのか、
これまでの自分は正しかったのか、
自信を失ったり
自身を失ったり
それでも少しでも前に進もうとして
空回って、絡まって、ときに一人になりたくて
それなのにあなたを取り巻く状況はそれを許してくれなくて、
疲労して、疲弊して、憔悴して
そのようなことがあったとしても、
今のこの世界においてはまったくおかしなことではなく、むしろ真っ当に生きたいとヒビを頑張っていれば誰もが起こりうることだと思います。
しかし残念ながらこの傾向は2026年以降さらに「加速」する見込みであり、「自由」があなたの本体を照らし暴こうとメを啓くのです。
だからこそ「不自由であることを誇れるだろうか」、という問いをあなたの中に持っていてほしいのです。
誰もが「自由」になりたいと、
「自由」でありたいと、
大切な人に不自由を味合わせたくないと、
そうやって基準を失っていくのですから。
疲れたなら疲れたと
辛いなら辛いと言っていいのです
苦しいなら苦しいと、
無理なら無理と
不安だと、
生き辛いと、
焦っていると
気がついてください
あなたは自由なのに
「自由」がそれを歪めてしまっているのだと。
たとえば『社会』を生きてくために「自由」を主張しすぎるのは良くないと、そうやって沈黙してしまった自由もたくさんあるのです。
同じ言葉でも、言葉という「箱」に組み込む意味を歪めることで自由が「自由」になってしまい、自らの手で捨て去ってしまった大切なものが沢山あるのだと。
そういったことがこの世界ではたくさんあることに気づいていただきたいのです。
あなたは自由です。
あなたの2026年が忘れられない素敵な年でありますように。
自由な2026年を是非お楽しみください。
あけましておめでとうございます。
