ちらりと見た(脳のキャッシュ・クリアについて3)
先日、母と妹が下着を巡って口論していた。ある柄の下着が自分の下着かどうか、両者ともが判別がつかなくなり、30分以上もの間口論を続けているのを、私は「進撃の巨人2 Final Battle」をしながら聞いていた。口論が過熱もせず、チェスの駒を動かすように淡々と続けられるのを不思議に思い、その下着の柄はどのようなものか──世代を超えた下着の柄というものがあるのか、はたまたシンプルな柄なのか、もしくは母でも妹のものでもない私の下着について口論している可能性も頭を過り──考え込んでしまった私は、今まさにウトガルド城が巨人の手によって崩落するのを立体機動を駆使して護ることに集中しつつ、その口論が行われている二人の手元をちらりと見た。解説の者によれば、ちらり、という音がしたという。音どおり、ちらりと見た私を見て、過剰に興奮した妹は、*居候のラジオ(次回タイトル「居候」[タイトル回収の回])にてこのことをエピソードトークとして話すとたからかに私に宣言した。そんなことを言われても。そういうわけで、困惑するばかりだったのだが、私は何故かこのことについて考え込む羽目になったのだった。
見る者を見て、過剰に反応する。では、この「見る者」を「見る」者は誰なのだろうか。勿論自分であろう。自分のことは棚に上げて、見る者を(見て)批判しているのである。そのことに気づいていない。私がちらりと見たのは、見る対象が下着だから疚しい思いがあったのではなく、ウトガルド城が陥落寸前であったから、である。(それを見ているのにもかかわらず)妹はそのことにも気づいていない。「六号車で睨まれた」に書いたように、ここには尊大な自意識がある(「睨む=ちらりと見る」とすれば同じこと。これに関しては前回の議論を参照されたい)。この自意識は気づきすらも阻害する。自意識芸人には、自意識と(その自意識によって観測可能な)世界しかないのか。見られる職業である芸人が、見られることに過剰に反応する性って、いったい大丈夫なんですかね。
ところで高校時代、前田裕二著『メモの魔力 The Magic of Memos』を読み、それからなんでもかんでもメモをするようになった、とCINRAだったかお笑いナタリーだったかのインタビューで語っていた妹は、芸人を本格的に目指すようになってから会うと、iPhoneのメモにさまざまなことを記録するようになっていた。それは、「今の発言今度つかっちゃうよ〜ん」だとか、「実におもしろい! この話エピソードトークにするわ」だとかいう声を漏らしながら記録するため、妹の周囲の人々は、「こいつに関わるとネタに使われる……!」という危機を感じながら喋ったり行動したりしなくてはならなくなった。よく言われる、バンドマンと付き合うと曲にされるというのと同じである。妹は全身私小説家ならぬ「全身私コント師」であるということか。とすれば、芸に生き芸に死ぬのであるから実生活はどうでもよいか。
そもそもこの下着チラ見の話は他人に話すほどおもしろい話なんだろうか……。この話におもしろさがあるとすれば、兄がキモい、という一点のみであろう。オチもなければ、グッと引き込まれる一節もない。なんらかの膨らましを使い脚色し、ちゃんとエピソードとして構築できるんだろうか。
この連載で脳のキャッシュ・クリアについて考えてきた私からすれば、メモして記憶に留めておくことよりも、その場その場の技で切り抜けるような強さが欲しい。フリースタイルラップでいう、「ネタ」よりも「引き出し」である。メモって結局キャッシュじゃんね。たくさんのメモからしょうもないエピソードを組み立てて、不完全な建築を拵えてもどうしょうもない。
*居候とは𠮷餅NSCホールディングス308期、「仁伊渡雨と居候と高草木」の三つ巴の一角であり、三者三様の在り方のうちの一つ、と考えられている形態である。
P.S.どこかとおいとおい国の首相が、外国の投資関係者に向けて、『進撃の巨人』の劇中の「いいから黙って全部オレに投資しろ」という台詞を講演の中で引用したという話を最近小耳に挟んだ。巨人の力を使ったことで人類の敵と疑われ、捕らえられ裁判にかけられたエレンが、衝動的に発する言葉である。これ、べつに名台詞とかじゃないよね?(いちおう「進撃の巨人 名言」で検索すると、これを紹介する素人のブログなどはあるが) 他にもアルミンの「何も捨てることができない人には〜」だとか、ミケが窮地に陥って思い出す「戦い続ける限りはまだ〜」だとか、リヴァイの「悔いの残らない方を選べ」だとかたくさんの名台詞・名言がある(この講演に使えるかどうかは知らんが)のにもかかわらず、 これ使っちゃうのどうなんだろ。変なの。その首相に一番必要なのは言葉による「教育」ではなく、(痛みによる)「教訓」なんすかね。
