ニヤっと、ごめんな。
「……ごめん、な」
かすれた息遣いで、Aさんはそう口を動かした。
夕方の四時すぎだった。窓から差し込む光は、もうオレンジに傾いていた。ベッドの脇には、家族で撮った古い写真が一枚だけ置いてあった。
Aさんは側臥位のまま、目を閉じていた。顔色は白く、表情は乏しい。私が握った手の指先は、抹消が冷たく、ぴくっと反応するだけだった。
亡くなる数日前のことだった。食事も水分もほとんど摂れなくなり、一日の大半をウトウトして過ごしていた。元々職人気質で、面会に来る娘さんにも「わざわざ来るな」とぶっきらぼうな態度ばかりとってきた方だった。
その日、娘さんが「お父さん、来たよ」と手を握った瞬間、朦朧としていたAさんが、たった三文字を絞り出した。
目は、合っていなかった。
声で、判断したのかもしれない。耳は最後まで聞こえると言うから。
私はその場で、静かに手を止めた。
この人がこんなことを言うのか、と少し驚いていた。それでも、冷静に立っていた。涙は出なかった。ただ、空気が変わったのを、皮膚で感じていた。
娘さんは、何も言わなかった。
ずっと、何も言わなかった。
特養で作業療法士として働き、百人近くの方の看取りに関わってきた。この仕事を続けてきてよかったと、心の底から思う瞬間がある。でも同時に、辞めようとした瞬間も、何度もあった。
今日は、その話をしようと思う。
罵倒の夜
作業療法士になる前、国家試験に合格する前の話から始めなければならない。リハビリアシスタントとして働きながら、国家試験の合格を目指していた社会人一年目のことだ。
退社時刻は十七時だった。でも現実は違った。
毎日二十三時まで罵倒され続け、監査が近づくと深夜一時まで残らされた。社会経験がなかった私は、これが普通なのだと思っていた。比べる基準が、そこにしかなかったから。
カルテ入力、翌日のリハビリ一覧表の作成。監査が近づくと、今思えば到底納得できないような業務まで、一人でやらされた。夏頃にはリハビリ科三十人のキャンプの幹事を丸ごと押し付けられた。キャンプ地の選定、買い出し、ロケーションの確認。社会人一年目で、何もわからないまま、誰も助けてくれないまま。
昼休みは三分でスティックパンをかき込んで、すぐ横になった。疲労困憊だったから、それだけが唯一の回復時間だった。すると「危機感がないのね。そんなんで国家試験合格すると思ってるの?」と大声で言われた。
夜はしんどい。昼間は眠い。朝もしんどい。
休まずに仕事に行くだけで、精一杯だった。
その頃、私には小学校から大学までずっと一緒だった唯一のOTの同期がいた。彼は国家試験に合格し、私は落ちた。学力は大学内でも上位五本の指に入るくらいだったのに。一方、合格した彼は平均的な点数だった。
初回受験の年に試験内容が変わった。それに対応できなかった。すべての答えに自信が持てなくなって、ボロボロだった。自己採点の時点で、合格できないことを悟った。
それでも病院は、私をアシスタントとして雇い続けてくれた。そのありがたさが、簡単に辞めることを躊躇わせた。「入ってすぐ辞めるような人間はどこも採用してくれない」と、本気で思っていた。
全国模試も一度しか受けられなかった。結果は合格ラインぎりぎり。元々持っていた知識だけで届いたような点数だった。
「これで落ちたら、きれいさっぱり辞めよう」
そう決めたのが、一月頃のことだ。
国家試験は合格した。当時、過去最低の合格率だった年に。
でも、合格を報告しても、何も言ってもらえなかった。
それで決めた。この職場を辞めようと。
退職が決まってからの三ヶ月間、一切患者様のリハビリをさせてもらえなかった。何も教えてもらえない。ひたすら納得のいかない業務だけをさせられた。
退職してから大阪へ移るまでの数ヶ月、就職活動をしていた。
地元で働くことが怖かった。作業療法士が少ない地域だからこそ、勉強会や学会で偶然出くわしてしまうかもしれない。あんな思いは二度としたくなかった。だから地元から離れた大阪で探すことにした。
でも、せっかく取れた国家資格だった。私立大学の高い授業料を出してくれた親への申し訳なさが、別の選択肢を考えさせなかった。
卒業した大学の教授に、求人の相談をした時のことだ。
「何やってるんや。せっかく拾ってもらったのに。恩を仇で返して」
パワハラという言葉が、まだ今ほど認知されていない時代だった。自分が悪かったかのように言われて、誰にも需要してもらえないんじゃないかと、本気で思った。それでも大学の求人データベースを使わせてもらい、七月の入職が決まった。
ニヤっと
新しい職場でも、一年目の傷ついた心は完全には癒えていなかった。
中途採用で七月入職という三ヶ月の出遅れ。症例報告会もこなさなければならない。ハードだった。
そんな時、私は一人の女性と出会った。
八十代の方だった。脳卒中による片麻痺と全失語。言葉によるコミュニケーションは、一切取れない。
最初に出会ったのは、療養型病棟だった。マーゲンチューブが入ったまま、ほぼ寝たきりだった。表情は乏しかった。四人部屋なのに、誰もしゃべっていなかった。窓のない病室は、ただ静かで、暗かった。
そこに、その方はいた。
身寄りがいなかったのか、面会は一度も見たことがなかった。
私はその方を担当することになった。
リハ室のプラットホームベッドで、座位練習を一緒にやった。言葉は通じない。でも、私が必死になっているのは、伝わっていたと思う。
ある日、座位練習の途中で、その方が私の方を見た。
健側の手で、私を指差した。
そして、ニヤっと笑った。
ほんの一瞬だった。でも、その笑顔が、私の中に深く残った。
それからも、私は単語で伝えてみた。絵を描いてみた。言語聴覚士が使う文字盤を借りてみた。うまくいかないことの方が多かった。でも、目の前のその人に向き合うしかなかった。右も左もわからないからこそ、やるしかなかった。
ニヤっとした笑顔は、訓練のたびに、少しずつ私を強くした。
二年が経ち、私は療養病棟の担当に異動になった。
そこで、もう一度その方と会った。
再梗塞を経て、状態はさらに重くなっていた。それでも、私の顔を見ると、ニヤっとした。
不思議なものだな、と思った。
二年前に回復期リハビリで担当して、別れて、また療養病棟で再会する。世界はこんなに広いのに、また同じ人の前に立っている。それは私の意志では動かしようのない、何かの巡り合わせだった。
私は、リハビリがない日も、その方の部屋に顔を出すようになった。
「こんにちは」
それだけ言って、手を握る。
すると、ニヤっと、笑ってくれる。
私が大阪を辞めるとき、特別な挨拶はしなかった。でも、最後の日まで、その方の前に立ち続けた。
ニヤっと笑ってもらうために。
リストラの夕方
四年勤めた大阪のリハビリ病院を辞めて、地元のデイケアに移った。
ここでの三年間は、人生で最もダイエットに成功した時期でもあった。百六キロから七十七キロまで落とした。テニスの大会に出られるようにもなった。結婚もした。結婚式には、デイケアの院長も参加してくれた。
幸せな時期だった。
その日も、いつも通りの夕方だった。
院長から呼び出された。
「うちのリハビリ部門、来月で閉鎖することになったんだ」
採算が合わなくなった。それだけのことだった。
頭の中が、真っ白になった。
結婚したばかりだった。妻と新しい生活を始めたばかりだった。これから、という時だった。
帰り道、車の中でずっと考えていた。
「また、ゼロからか」
社会人一年目から、何度ゼロに戻っただろう。それでも、ここまでなんとか歩いてきた。なのに、また始めなければならない。
家に帰って、妻に伝えた。
妻は、何も言わなかった。
ただ、いつも通り、ご飯の支度を続けた。
その背中が、当時の私を支えてくれていたのだと、今ならわかる。
精神科を、逃げた日
次に勤めた精神科病院では、また苦しくなった。
高圧的な男性上司に、できないことを指摘され続けた。指摘されると言葉が出なくなる。夜には言われたことが頭の中でぐるぐる回り続ける。社会人一年目のトラウマがよみがえった。
精神科の患者様への関わりは、嫌いではなかった。でも、職場の空気が、どうしても合わなかった。
ある日の昼、リハ室の横にある個室に呼ばれた。
時計の針が、ちょうど一時を指していた。
そこで、また指摘を受けた。
何を言われたかは、もう覚えていない。
ただ、その瞬間、私は決めた。
ここを、辞める。
ずっと辞めると思っていた。でも、決めた瞬間は、本当に一瞬だった。指摘されている最中に、心の中で結論が出ていた。
その日のうちに、報告した。
逃げた。
そう、また逃げた。
特養に、辿り着いて
次に決まったのが、今の特養だった。
面接の日、施設に入った瞬間、空気が違った。
すごく明るい場所だな、と感じた。
職員一人一人の挨拶も丁寧だった。理事長からも、「ぜひ来てください」と直接言われた。逃げてばかりの自分に、こんな風に言ってくれる人がいるのか、と思った。
入職して、最初に出会った利用者様は、依存度の強い八十代の女性だった。機能訓練への意欲は、比較的高めだった。
その方は、八年経った今でも、元気に過ごしている。
特養に来てから、私は変わった。
逃げてきた先で、誰かのそばにいられるようになった。
百人近くの方の最期を、見送ってきた。
その一人が、Aさんだった。
ごめんな
「……ごめん、な」
あの三文字を絞り出したAさんは、数日後に静かに旅立った。
亡くなった連絡を、私はピッチで受けた。仕事中だった。
葬儀には、参列していない。
後日、娘さんが施設に挨拶に来てくれた時、私の前で、深々と頭を下げてくれた。
「長い間、ありがとうございました」
涙を流していた。
私は、何も答えられなかった。
ただ、その背中を見ていた。
「ごめん、な」と言った日のAさんも、目は合っていなかった。声で、私と娘さんを判別したのだと思う。
そして娘さんも、Aさんに何も言わなかった。
ずっと、何も言わなかった。
でも、それでよかったのだと思う。
「ごめん、な」と「何も言わない」が、あの親子の最後の会話だった。
不器用な人が、最期の最期で届けた三文字。それを受け取った娘さんは、答える代わりに、ただそばにいた。
それが、あの親子の愛だった。
逃げながら、続けた
社会人一年目から十六年が経った。
私はHSPだ。音に敏感で、人の感情を読みすぎてしまう。誰かが不機嫌そうにしているだけで、自分のせいかもしれないと思ってしまう。職場の廊下のひそひそ話が、自分の悪口に聞こえる。
そんな自分が、十六年もこの仕事を続けられた。
逃げながら、続けてきた。
最初の職場から逃げた。デイケアではリストラされた。精神科からも逃げた。
逃げるたびに、自分を責めた。「また逃げるのか」と思った。
でも今は、こう思っている。
逃げることと、撤退することは違う。
合わない環境に居続けることが正解じゃない。離れることで、また誰かのそばに立てることがある。
大阪で出会った全失語の女性のニヤっとした笑顔。
特養で出会ったAさんの「ごめん、な」。
この二つに辿り着くために、私は逃げてきた。
逃げなければ、出会えなかった。
「……ごめん、な」
あの夕方の四時、私は確かにAさんのそばにいた。
目は合わなかった。
抹消は冷たかった。
娘さんは何も言わなかった。
でも、Aさんはちゃんと届けた。
声で、私たちを判別して、最後の三文字を残してくれた。
その瞬間に立ち会えたのは、十六年逃げながら続けてきた、私のもう一つのご褒美だったのかもしれない。
逃げていい。
でも、逃げた先で、誰かのそばに立てる日が、きっと来る。
ニヤっと笑ってもらえる人にも、
「ごめん、な」を受け取る人にも、
きっと、なれる。
そのために、十六年かかったとしても。
それは、無駄じゃなかったと、今は思っている。
作業療法士十六年目|特養・ユニットケア勤務|元認知症ケア指導管理士|HSP・ISFJ
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