②『赤毛のアン』を、今の私が読み返す
『赤毛のアン』を、今の私が読み返す
息子がプリンス・エドワード島に立ち寄るというので、その地を舞台にした『赤毛のアン』を何十年ぶりかに読み始めた。ページをめくりながら、思わず苦笑してしまう。当たり前のことだけれど、子供の頃に夢中で読んでいたときの感覚と、今の私の感覚はまるで違う。あの頃は自分がアンになったつもりで、物語の世界に没頭していた。けれど今の私は、アンを迎え入れたマリラと近い年齢になっている。
子供の頃はアンの冒険に心を躍らせていたのに、今はマリラの言葉や、彼女の不器用な愛情のほうに心を動かされる。年齢を重ねると、同じ物語から受け取るものが変わる。昔は気づかなかった登場人物の心の動きが、今になって突然、自分の人生と重なって見えることがある。
願いは、期待するところから始まる
孤児院からプリンス・エドワード島にやって来たアンは、こう言う。
「プリンスエドワード島は世界で一番美しいところだと聞かされていたから、まるでそこに住んでいる気がしていたの。でも、まさか本当に来られるなんて思わなかったわ。想像が現実になるなんて、なんて嬉しいことなのかしら」
無邪気な思い込みが、現実を引き寄せてしまう。アンにとっては、まだ見たことのない場所が、すでに心の中に存在していた。だから実際にその場所へたどり着いたとき、「想像が現実になった」と感じたのだろう。
さらにアンは言う。
「ああ、マリラ。物事を期待することは、その楽しみの半分にあたるのよ。それが実現しないかもしれなくても、期待する喜びは決して奪われないの」
この言葉は、大人の心にこそ深く響くのではないだろうか。
「叶わなかったらがっかりするから、最初から願わない」「期待して、実現しなかったらつらいから、何も望まない」そんな言葉を、これまで何度も耳にしてきた。人は大人になるほど、素直に願うことが難しくなっていく。過去の経験から、「どうせ無理」「また傷つくかもしれない」と、願いの前にたくさんの条件をつけてしまうからだ。
アンは、まだ起きていない未来を、まず楽しんでいる。その期待が実現するかどうかとは別に、期待することそのものを楽しんでいる。
これは、エイブラハムの教えにも通じるものがある。叶うまで幸せになれないのではなく、願いを思い描くこと自体が、すでに喜びになる。叶うかどうかを心配する前に、「そうなったら素敵ね」と感じる。
アンは、そんなことを自然にやっている。
感謝して、願う
プリンス・エドワード島で静かに質素に暮らすマリラは、アンに夜ごとの祈りを欠かさないように教えた。
「神の御恵みに感謝して、それから求めるものが与えられますようにと、つつましくお願いするのです」
プリンス・エドワード島で静かに質素に暮らすマリラは、アンに夜ごとの祈りを欠かさないように教えた。「神の御恵みに感謝して、それから求めるものが与えられますようにと、つつましくお願いするのです」
すでに与えられているものに感謝し、そして望む。マリラにとっては、それが自然な祈りの流れだった。この場面を読んで、私はエイブラハムの教えを思い出した。
決めたらもう、迷わない
マリラは、望んでいた男の子ではなくアンが来たとき、戸惑い悩んだ。しかしやがてアンに母性を引き出されるうちに、「育てるのは自分の務めだ」と心を決め、周囲にこう言い切った。
「がっかりなんぞしませんよ。わたしは一度心を決めたら、ぐらつきません」
これはまさに“最善の受け取りの姿勢”である。
決めたら、もう迷わない。後悔もしない。そこにベストを尽くすことで、思いがけない喜びはやって来る。
無条件の愛
マリラとマシューは夫婦ではない。初老の独身の兄妹が協力して、小さな農場を切り盛りしているという設定だ。
当時のプリンス・エドワード島では、それは珍しいことではなかったらしい。信仰心が厚く、島の人々とのつながりを大切にしながら、自然の美しい村で慎ましい暮らしを送っていた。
ある場面で、アンが赤毛をからかわれて逆上する。その姿に戸惑ったマリラは、自分の幼い日の記憶をふと思い出す。――子供の頃、叔母から「色が黒くて器量が悪い」と言われたこと。その傷が癒えるまでに、五十年という歳月を要したのだった。
大人になった今、私はその一文にマリラの心の深さを見て胸が詰まる。
マリラは、私と同じ年代の女性だが、まったく異なる人生を歩んでいる。私は恋愛を重ね、いくつもの国で暮らしてきた。彼女は小さな島で兄と二人きり。感情を表に出さず、真面目に、控えめに生きてきた。それでも――アンの巣立ちを前にして感情をあらわにする姿には、私自身の心とぴたりと重なる瞬間がある。
子供が成長して家を出ていくとき、「こんなに大切に育てたのに、置いていくの?」とすがることもできたはずだ。でもマリラはそうはしない。そこには執着ではなく、ただ無条件の愛がある。
私は幼い頃、井上靖の『しろばんば』を夢中で読んだ。少年を引き取ったおぬいばあさんの愛情は深く、その別れには切なさがあった。けれど、そこには強い執着もあった。それが悪いわけではない。愛しているからこそ、離れたくない。自分のそばにいてほしい。そう願うのも、とても人間らしい愛情だと思う。
けれど、マリラの愛には、どこか違うものがある。
「あなたの人生は、あなたのもの」
そんな静かな尊重があるのだ。それは、私の母の愛を思わせるものでもあった。
無償の愛とは何かと問われれば、私はシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』を思い出す。まだ息子が小さかったころ、この本を一緒に読んでは涙ぐんだ。つい先日、アンの話をしながらその絵本のことを少し話したときも、二人とも同時に目が潤んでしまった。
子供が成長しても、親の愛は消えない。
ただ、愛し方は変わっていく。
そばに置いておくことだけが愛ではない。相手が自分の人生を生きることを、静かに見守ることも愛なのだと思う。
そして、無条件の愛に触れたとき、人は「幸せとは何か」を少しだけ思い出すのかもしれない。
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